エホバの証人への重要な20の質問

 エホバの証人が未知のエホバの証人に会うと、たいていこう尋ねます。「あなたは、いつ真理に入りましたか」。その答えは、ものみの塔のバブテスマを受けた信者として、ものみの塔と交わりを持ってきた「10年前」あるいは、もっと前の年を答えるでしょう。初めてエホバの証人になったとき、エホバの証人は「真理」を知ったと心から信じています。ところで真理とは、何でしょうか。変更し続けるかもしれない何かでしょうか。ものみの塔の教義が絶え間なく変わり続けているのは事実です。以前そうであったことの正反対に変更することもしばしばです。また、昔に戻ることもあります。組織はさまざまな、異なる分野で変更をしてきました。ものみの塔が教義や実践で示してきたたくさんの変更のうち、いくつかを次に上げます。
1.この世の終わりの日付:1914年、1925年、1940年代初期、1975年、1994年。
2.祝日、誕生日、投票、国旗掲揚、軍隊への入隊、代替業務の受容に対する立場。
3.ワクチン、臓器移植、輸血。
4.喫煙に対し、賛成と反対。
5.ローマ13:1にある「上に立つ権威」者の解釈。
6.1935年以前は、14万4千人だけではなく、全ての者が天に行けると教えられました。
7.1931年以前は、排他的に「エホバ」の名を使いませんでした。
8.イエスは崇拝されると公式に教えました。
9.イエスは「杭」ではなく「十字架」の上で死んだと公式に教えました。
10.キリストは復活し、1914年ではなく、1874年、目に見えない様で統治を始めたと教えました(1914年は現在の選択)。
11.1930年以前は、協会は、それ自体「組織」とは考えられてはいませんでした。
12.1971年以前は、協会は会長(ワンマン体制)により、統制されました。そしてそれを統治体がノア会長から強奪しました。

 「真理」は将来、再び変更されることはないとどうやって分かりますか。実際、どちらの推測が正しいか、どうやって分かりますか。ものみの塔協会がその教義を変えるとき、指導者は問題に「新しい光」があてられたと、変更を示します。それは箴言4:18が成就していると主張します(しかし、義なる者たちの道筋は、日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ」)。もちろん、それぞれ、新しい光が示されるとき、以前の教義は偽りとして非難され、すぐに破棄されます。しかしたいてい、この「新しい光」も将来変更され、ただ単に以前の教えに戻ることもしばしばです。ですから、光が輝きを増していますと、どうして言えますか。
 ものみの塔協会の教義が変更され続けている理由をほかに説明できますか。テトス1:14は、「真理から離れて行く人々」について語ります。もしエホバの証人が本当に最初から「真理」を持っていたなら、後になって真理から遠ざかったではありませんか。第二テモテへの手紙第3章ではパウロは「終わりの時」の信仰からどれほどの者が離れるか、書いています(エホバの証人は「終わりの時」に生きているとはっきりと信じています)。その3:7 には、こうあります。「常に学びながら、決して真理の正確な知識に達することができないのです」 
 あなたが入信したときに「真理」とものみの塔が教えたものが後で変えられたと考えてみましょう。本来の教えは真実であって、ものみの塔協会は新しい教えを取り入れて真理から離れている意味ではありませんか。あるいは、本来の教えは偽りであり、本当は「真理」(彼らの主張するような)ではなく、今初めて真理に達した意味ではありませんか。あるいは、「本当の真理」はまだ見つかっていないから、それらの教えが正されるのではないでしょうか。
 「真理」は変更されず、改良されるおそれのないものであるとは思いませんか。

 ものみの塔協会は組織が「神権的」であると主張します。このことは組織は神に管理されていることも意味します。さらに統治体は、全員「油注がれた級」(1935年以前にバブテスマを受けた者でなければならない)であると主張します。彼らは神の霊を受ける資格があり、それは聖書を解釈する資格があり、誤りから真理を区別するに「聖霊」に導かれていると思われています(しかし長年、統治体は全員、「油注がれた級」であるはずだと言う教えにこだわってきたのですが今は変更されていることに注意してください。なぜでしょうか。なぜならその人たちは全員、大変な年寄りであるため、「油注がれたもの」に値し、交代するほど年老いている者はほかにいないからです)。「聖霊」を受けていると主張するさそれら指導者は、全員「背教者」の教えと一致しない者を招きます。しかし指導者たちはしばしば「真理」を変更してきました。ならば、神は指導者たちに嘘をついたのでしょうか。あるいは神は御心をまとめられなかったのでしょうか。あるいは、組織の指導者たちは「地上における神の唯一の伝達経路」であると主張して嘘をついてきたのでしょうか。その教えは、神からの教えではまったくない、実際は誤りやすい人間からのものに過ぎないのでしょうか。

 神はどのようにして統治体成員に語りかけ、指示を与えているのでしょうか。一度にたったひとりの人に話しますか。数人だけに話しますか。同じ問題について統治体全員に話しますか(現在、統治体には、12人ほどがいます)。
 もし、神が特定の者に語りかけて「新しい光」を与えたと、誰かが主張するなら、論戦もないし、投票もないはずです! 何をすべきか、神が伝えているのです! しかし統治体が伝えた教えはすべて、投票にかけられ、3分の2の賛成を得ているはずです。その過程から、本当は神が指示をしていないと証明されるようです。「新しい光」として定められた多くのものが「偽りの光」に転落する実例をほかにどう説明できるのでしょうか。実際は、統治体から決定が下るだけであり、神から来ているのではないと示していませんか。
 初めの92年間、ものみの塔はどのように指導されたか、ご存知ですか。「ワンマン体制」によるのです。1971年までワンマン体制があったのです! それから統治体が必要だと主張され、その成員は「油注がれた者」からのみ、選ばれました。実際は、神には語りかける一人の者だけが必要なのに、なぜ統治体は12人以上、必要なのでしょうか。神はそのはじめから、ものみの塔を導いておられると主張するのですから、どうして統治体による体制の変更をしなけばならなかったのでしょうか。ワンマン体制の元で作られた誤りがあります。統治体でもまだ誤りがあります(エホバの証人が全員、よく知っているような)。
 ものみの塔は、それが本当の神の組織であると証明する一つの方法は、その成員の間の「一致」(特にその指導者間の)であると主張します。彼らは、全員、同じことを信じ、同じことを教えると主張します。もしそれが本当にそうであり、全員同じように考えるなら、なぜ統治体で投票する必要があるのでしょうか。いつでも統治体には100%の一致がないのでしょうか。ときには、3分の2の賛成が得られないで、葬り去られ、ときにはたった3分の2の賛成だけで決まるのはなぜでしょうか。もし統治体に12人の男の人が居て、8人が賛成し、ほかの4人がそれに反対したら、本当の一致とは、思えません。統治体の主張する一致は、羊の群れの残りにはっきり見られ、統治体の男の人たちの間には絶えず一致が見られないと思えませんか。


 ものみの塔は、ほかの宗教はすべて「偽り」で「暗黒」の中にいると教えています。しかし、昔のものみの塔は、ほかの宗教と同様な教えをたくさん、残していたのです今も実際、そうでなんです。
 組織は、「新しい光」を得続けていること、まだ組織に残っている偽りや背教の教えをつねに摘みとっていると信じています。ものみの塔は昔、「偽りのバビロン」の一味であったし、摘みとられべき「暗黒」を今でさえも保っているのですから、今だにバビロンの一味である意味ですね。

 
 ものみの塔は、それが神の真の組織であると証明する、いわゆる「実」と主張する数々の信仰と実践を並び立てます。その一部は、こうです。‥‥‥戸別訪問をする。戦争に反対する。投票しない。輸血拒否。祝日や誕生日の忌避。三位一体の否定。「組織」を保つこと。「王国」の伝道。聖書の神だけに「エホバの証人」のみ名を用いる。成員の間の「一致」。神の意志を真に行なっている唯一の宗教組織。信者の間には最上の愛があると主張する。おそらくこれらが証拠の「山」となるのでしょう。しかしそのどれもが長い時間をかけて列に加えられてきたのではありませんか。もしも「真」の宗教のために、並べ立てられた「実」を保つことが本当に不可欠であれば、こうして並べ立てられた「実」がいつも保たれなければ、ものみの塔が偽りの宗教にすぎないと証明していませんでしょうか。将来、「実」が変わる可能性があるのですから、「神」の真の組織であるかどうか、現状では誰も実際に確信できないのではありませんか。 

 ものみの塔の指導者は、その信仰と教義が聖書的であることを証明しようとして、絶えず聖句を引用します。しかし指導者が教えてきたこととまったく逆な信仰に変更したり、慣れ親しんだ信仰を非難するとき、前とは違った聖句を聖書から取り出して、新しい、逆の教えを証明し始めます。信じていることに違いは生じていません。彼らは教えていることを「証明」するためにいつでも聖句を探せるのです。聖書はそれほどそれ自身、本当に矛盾しているのでしょうか。あるいは、ものみの塔指導者が信じようとすることを決め、聖句を使ったり、ねじ曲げるだけなのでしょうか。あるいは、指導者は聖句に書いてあることをはっきり教えさせるためにそうするのでしょうか。

 ヘブライ13:8にこう書いてあります。「イエス・キリストは、昨日も、今日も、そして永久に同じです」。もしこれが本当であり、現実にイエス・キリストがものみの塔の意志決定の過程を指示しているのなら、なぜ教義が変更を続けているのでしょうか(もちろん、イエスについてものみの塔が教えていることが本当なら、イエス・キリストが組織の意志決定の一部を演じていると言うことは不可能です。イエス・キリストは墓の中で滅び、二度と見られなかったと主張するからです)。ミカエル大天使がイエス・キリストの死後3日目に再創造され、イエスの後を継いだと言っています。1914年以降、統治をし、千年期に14万4千人を統治するであろう者は、本当はミカエルであっり、イエスではありません。死んだイエスがどうして決定を下せるでしょう)。

 ものみの塔の指導者たちは、「新しい光」を受け取って正しい指示のうちに進歩していると言い続けています。‥‥この『新しい光』を受け取ることによって組織にとどまっている限り、偽りや背教徒の教えを取り除かれています。だから教えと実践は「ますます純粋」になっていますと主張します。さらに組織は14万4千人の人々(「油注がれた者」)が天で千年期にミカエルと共に生き、統治するだろうと主張します。もしも神が本当に14万4千人だけに天国を限定し、それらの者が千年期に地上の人々を統治する人々であるとするなら、神はもっもも霊的で、最も「正確な知識」を持つ人々を選ぶだろうと考えます。極めて貧しい「光」を持ち、今では背教徒や異教徒と考えられる数多くの事柄を信じた初期の証人に代わって、天で神と共に生きて統治するために今のごく終わりの時代にいる人たちをなぜ神は選ばないのでしょうか。

 ものみの塔を弁護する人は、ものみの塔が唯一の真の宗教であり、神の恵みを受けているとする主張を裏づけるため、成長率と成員の多さを指摘します。もし、その理由が有効なら、ものみの塔が始まったとき、まだ小集団だった初期の時代についてなんと指摘するのでしょう。またラザフォードがものみの塔の会長であった頃についてはどうでしょうか。それほどの成長はありませんでした。事実、一度に3千人を減じ、しばらくは数の上の優位を失いました。再び本当にものみの塔が成長を始めるまでは、1940年代まで待たなければなりませんでした。早い時期から真の宗教だったと、どうして説明できるのでしょう。
 もしも数字がそれほど大事なら、モルモン教はものみの塔よりも速やかに成長していますからものみの塔よりも正しい宗教であるはずですね。モルモン教はものみの塔の成員の約二倍の信者を有しているのですから。共産主義についてはどうですか。彼らは長年、速やかに成長しました。統一教会についてはどうですか。これも長年、急速に成長しました。セブンスデーアドベンチストでさえも、ものみの塔よりも大きいのです。数がそれほど重大なら、ものみの塔がまったく真の宗教ではないと証明していませんか。
 ものみの塔は1977、78年に起きたことをどう説明するのでしょうか。世が1975年に終わるという預言が失敗したために、全世界で多数の信者が辞めました。少なくとも2年間は、それが真の宗教ではなかったと説明してはいませんか。

 ものみの塔は、ヒトラーと行動を共にしたカソリック教会などには、第二次世界大戦の間に戦死した者の血が手にこびりついていると非難します。それが本当なら、ものみの塔も殺人の罪を負っているのではありませんか。信者が輸血や臓器移植を拒むと主張することで、大勢の無垢な人々、特に物事の選択ができない子供たちの死を招いてきたのですから。

 ものみの塔はしばしば1コリ15:28を用います。「しかし、すべてのものが彼に服させられたその時には、み子自身も、すべてのものを自分に服させた方に自ら服し、こうして、神が誰に対してもすべてのものとなるようにするのです」。「子」が「父」よりも劣っていると証明しようとしてこの聖句を用います。「子」(「神のようなもの」、組織は実際は、大天使、ミカエルと言っている)が千年期に統治し、このとき「万能の神」になると教えています。千年期の終わりにサタンは獄から解き放たれ、サタンは多くの人々をエホバ神から引き離すことが許され、大戦は絶頂に達します(啓示20:8)。しかし最終的に、ミカエルがサタンを打ち負かし、再びサタンは永遠に滅ぼされ無に帰します(組織によれば、サタンがこの世で引き起こしたすべての罪と荒廃に対しては苦痛を伴う罰を受けることは決してないでしょう。それでは正義はどこにあるのでしょうか)。さらにものみの塔はこう教えます‥‥‥千年期の最後に「子」(別名ミカエル)はこの世の統治を「父」に返すでしょう。その時にはもはやなすべきことは何もないからです。徹底したサタンを打倒し完全な世への先導したことに報いて、ミカエルは「万能の神」からもう一度「神のようなもの」に格下げさせられるのです。
 しかし「イエス王」(本当はミカエル)が地上を治めている間(それは1914年に始まった)はるか彼方にいて疎い関係となった「父」よりも王としてのイエスと正しい連絡を取り続けていることのほうが、そしてもっと大事な問題(重大でさえある)ではないでしょうか。本当は「子」は高い誉れを受けるべきなのではないでしょうか。
 ものみの塔はこの教えをイザヤ9:6、7 とどのように調和させるのでしょう。6節は「子」の統治について語っています。「わたしたちのためにひとりの子供が生まれ、わたしたちにひとりの男子が与えられたからである。君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は、”くすしい助言者”、”力ある神”、”とこしえの父”、”平和の君”と呼ばれるであろう」。組織はこの聖句をミカエルの千年統治に当てはめようと解釈します。しかし7節はこう続きます。「ダビデの王座とその王国の上にあって、君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない。それは、今より定めのない時に至るまで、公正と義とによってこれを堅く立て、支えるためである。実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう」。ものみの塔は千年期のミカエルに当てはめるために6節の解釈をどのように正当化し、その統治に「終わりがない」とはっきりと言っている7節をどうして完全に無視するのでしょうか。

マタイ11:28−30でイエスはこう言っています。「すべて、労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい。そうすれば、わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で、心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」。イエスは人々がイエスの元に来て、休息を見いだすよう招いたことに注意してください。なぜイエスは「父の元に来る」ようにと、言わなかったのでしょう。イエスと「父」が同格の権力と権威を持っていた表れではないでしょうか。

 ものみの塔は聖霊が人格を持たない「活動力」であると教えています。本当にそうなら、どのように聖霊を悲しませられるのでしょうか(エフェソ4:30)。人格のない力がどのようにして「教えられる」のでしょうか(ヨハネ14:26 、1コリ2:13、1ヨハネ2:27)。人格のない力がどのように「慰めたり、助けたりできるのでしょうか(ヨハネ14:16,26)。人格のない力をどのようにして「冒涜できる」のでしょうか(マタイ12:31,32)。使徒行伝8:29では聖霊がフィリポに語り、エチオピアの宦官に宣教するように命じたと、聖書に書かれています。人格を持たない力がどのように語りかけ、はっきりした指示を下せるのでしょう。聖霊がクリスチャンのためにとりなしをするとローマ8:26にあります。人格のない力がどのように初めに希望を聞いて、後にとりなしをするのでしょう。2コリ13:14 、フィリピ2:1 では信徒は聖霊と関係を持ち、交わりができると教えています。信徒がどのように人格のない力と関係を持ったり、交わりをすることができるのでしょうか。


 結局、すべての罪は神に反しています。この原理は正しい。神は罪の問題を解決できる唯一の方でしょう。イエスは人類のすべての罪のために死に瀕し、尊い血を流して罪の問題を処理するために罪深い世に来た人でありますから、イエスは「父」と同格であるはずだと意味していませんか。大統領は世界を揺るがす問題に赴かせようと秘書を送り出しません。ですから、イエスは、罪の問題を処理するのですから、「父」の後にある地位に着いているはずがありません。アダムの罪は重大でした。それはすべての人類を神から引き離したからです。「父」よりも低い地位にある者が罪の問題をどうやって解決できるのでしょう。

 ものみの塔は「油注がれた者」(ペンテコステの日から集まり始めた14万4千人である、最終的に1935年に定員に達した)だけが天に行くことを予定され、神の霊を受け、直接神の声を聞けると教えらています。しかし、ヘブライ語聖書(一般的に、旧約として知られている)では、神は何度も預言者に直接語りかけました。神は異なった土地で同時に異なった預言者にしばしば語りかけ、預言者同士には、交わりはありませんでした。しかし、ものみの塔は、旧約時代の信者は、「油注がれた者」ではなかったと言っています。彼らは、新しい地上に割り当てられています。旧約時代の信者が霊を持たないのなら、どうして神が語りかけられるのでしょう。しかし、もしも神の霊を受けていたなら「油注がれた者」とし、天に行く資格を持たせなかったでしょうか。

 「花嫁」の出現を遅らせることのは可能でしょうか。ものみの塔は、14万4千人だけが天に行き、「キリストの花嫁」を形成すると教えます。最初の花嫁級は、1914年に復活させられたとも、述べています。それは1914年にミカエルが天で統治を始めたときとされ、花嫁級が死ぬときは、直ちに、天に召されます。何年にもわたって花嫁級の出現は、遅らされました。本当にそれは可能でしょうか。
   
 ものみの塔はその信者をそれぞれ非常に異なる二集団に分割してきました。「油注がれた者」は神の子であり、神の霊を受けていると言われます。特別なしるしを押され、聖書を理解できるとし、天の希望や報いがあると認めています。二番目のグループは下位のグループであり、神の子ではありませんし、神の霊を受けませんし、「油注がれた者」のような特別のしるしを持ちませんし、地上の希望しか持たない「大群集」です。この二つのグループの結末は大変異なっています。この二つの異なる「報酬」があるのなら、キリストは二度死ななければならなかったのではないでしょうか。しかし、キリストは、一度だけ、全ての者のために死んだと聖書ははっきりと言っています。もしキリストが杭の上で血を流してあがないをなされたのなら、なぜ、この一度の「あがない」で、ある人々はほかの人々よりも多くの報いが得られるのでしょうか。

 絶えず、イエス・キリストを格下げすることが、なぜものみの塔の実践となっているのでしょう。1988年、ものみの塔の出版物『啓示』36頁の箱組の中に次の記述があります。
 エホバの民が1905年に出版した歌の本には、イエスをたたえる歌のほうが、エホバ神をたたえる歌よりも2倍も多く納められていました。1928年に出された、彼らの歌の本では、イエスをほめたたえる歌の数は、エホバをほめたたえる歌の数とほぼ同じでした。しかし、1984年の最新の歌の本では、イエスの場合よりも4倍もの多くの歌でエホバに誉れが帰せられています 
 これは聖書に従って、主、イエス・キリストを格下げしている手柄話でしょうか。ヘブライ13:8には、こうあります。
 「イエス・キリストは昨日も、今日も、また永遠に変わることのない方です」
 イエス・キリストは変わらないのに、ものみの塔はイエスの格下げするためにどうやって聖書を用いることができるのでしょうか。新世界訳聖書ヨハネ5:23にこうあります。「それは、すべての者が、父を尊ぶと同じように子をも尊ぶためです。子を尊ばない者は、それを遣わされた父を尊んでいません。」(全ての者は父を尊ぶように子を尊ぶべきであると語ったのは、イエス・キリストご自身であることに注意しなさい)。
 たとえものみの塔が、イエスは父と同格であると了解しなかったにしろ、主イエス・キリストを崇拝することは、まったく正しいとものみの塔は教え続けました)。つい最近の新世界訳聖書1970年版のヘブライ1:6 をこう訳しています。「しかし、その初子を人のすむ地に再び導き入れる際には、こういわれるのです。『そして神のみ使いたちはみな彼を崇拝せよ』」。み使いたち全員(明らかに大天使ミカエルも含まれる。イエスよりも格が下で別個の存在であるとみなしている)は、イエスの誕生の時にイエス・キリストを崇拝せよと命じたのは「父」であることに注しなさい。イエスの誕生の時イエスを崇拝しなかったことはみ使いにとっては罪であるから、今日、身分の高いイエス・キリストを崇拝しないことが人間にとってどうなるはずか)
 「父」は「子」に対しては、ものみの塔がするよりもまったく違う態度を取っていたようです。新世界訳聖書フィリピ2:9−11には、こうあります。「まさにこのゆえにも、神は彼をさらに上の地位に高め、[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。それは、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ、すべての舌が、イエス・キリストは主であると公に認めて、父なる神に栄光を帰するためでした。」。「子」を賛美することが「父」の願望の中心であるなら、イエスを格下げして、さらに進んでそれを自慢にしたりすることが神の意志を行なっているなどと、どうしてものみの塔は考えているんでしょう。コロサイ1:19には、こうあります。「なぜなら、神は満ち満ちたさまが余すところなく彼のうちに宿ることをよしとし」。ものみの塔は聖歌集から「子」に関する聖歌を取り外してイエスを低く見ていることを神は喜んでいるように思えるのでしょうか。
 主イエス・キリストを賛美している聖句は多いけれど、啓示5:12の聖句を考えてみましょう。こうあります。「大声でこういった。『ほふられた子羊は、力と富と知恵と強さと誉れと栄光と祝福を受けるにふさわしい方です』」。この箇所をもう一度読んでもらったら、ものみの塔がイエス・キリストを引き下げているのに、ものみの塔の指導者たちが聖書的であるとどうして言えるのか、私は知りたくなります。


 ものみの塔の出版物はエホバの証人の間で交わされるすばらしい「愛」について絶えず言及します。もし本当にものみの塔にそれほどの愛があるのなら、過去、20年間アメリカにおいてどうしてエホバの証人の50%が仲間から離れたのでしょうか(この数字を証明するのは非常にたやすい。毎年、「ものみの塔」の正月号でその年のバブテスマの数字と共に各国における活動的な証人の数字を報告するためである。25年前の活動的な証人の数字に25年間のバブてスマの数字を加え、現在活動的な証印の数字を差し引き、何人かの死去を考慮すると、過去25年間にどれほどのエホバの証人が宗教を離れたのか容易にわかります)。転職率50%の会社のために働きたいと考えるでしょうか。もし「忠実で思慮深い奴隷」(ものみの塔の統治体)が本当にものみの塔出版物を通して信者に「ふさわしいときに霊的な食物」を供してきたのなら、なぜ50%の人が離れたのでしょう。 
 ものみの塔が、有益で、栄養があって、とてもおいしい食物を絶えず供しているのに、なぜそれほど大勢の人たちが満足しなかったのでしょう。また、長老たちが割当てをしているのになぜ大勢の人が「離れている」のでしょう。エフェソ4:11−14ではどんなにふさわしい栄養が信者に与えられるかを教えています。新世界訳聖書で読んでみます。「そして彼は、あるものを使徒、あるものを預言者、あるものを福音宣明者、あるものを牧者また教える者として与えました。それは、奉仕の業のため、またキリストの体を築き上げるために聖なる者たちをさらに調整することを目的としてであり、ついに私たちは皆、信仰と神の子についての正確な知識との一致に達し、十分に成長した大人、キリストの満ち満ちたさまに属する丈の高さに「達する」のです。それはわたしたちがもはやみどりごでなくなり、人間のたばかりや誤らせようとたくらむ巧妙さによって、波によるように振り回されたり、あらゆる教えの風にあちこちと運ばれたりすることのないためです」。
 エホバの証人がエホバの証人になるべく研究生を求めて戸別訪問をしているとき、「従順な」人や「羊のような人」を探していると言います。そんな人は改宗の過程で延べられることにどんな疑いをも持たずに教義を受け入れるのでしょうか。もしも新しい研究生がたまたま聖書をよく知っていて、ものみの塔の教義について少し腹の立つ質問をし始めると(その質問とは、数多くの変更、矛盾、1914、1925、1940年代、1975、1994年の世の終わりについての五つの満たされない憶測を暴く質問)、証人たちは、その研究生は、教義を受け入れるには十分、謙遜さを兼ね備えていないと断定し、切り捨てるでしょう。もしものみの塔組織への加入者が全て、本当に「従順」で「羊のような人たち」なら、(組織から「不道徳」とか「背教者」と呼ばれることを知っていながら)その50%が最終的には組織から離れるのか、理解に苦しみます。組織を離れる人には二つの理由があるのです。
 考えるのさえつらいのは、離れ去る人たちの身の上に起きたことです。エホバの証人が組織を離れるとき、神に対し、敵意を持ち、神は「愛がない」、「優しくない」と考える場合がほとんどです。それはエホバの証人がものみの塔の組織と神を関連づけて考えているからであり、組織による「排斥」手段が原因です。証人が行動や決定に疑いを持ち、組織の教えや政策に逆らうとき、神に不平を訴えていると非難されます。このように多くのエホバの証人がものみの塔自体に幻滅を感じたら、神と組織を等しく見て、神に敵意を持つようになります。また、離れる人のうちの大部分が、飲酒、喫煙、薬物、不道徳などのような世の罪に戻ります。たくさんの「正確な知識」を理解すべきである人たち、たくさんの良質な霊的食物を食べてきた人たちがどうして再び世の罪に関わるようになるのでしょうか。

 エホバの証人に聞く必要のある最後の質問はこうです。最初の状態においてチャールズ・ラッセルは「権威」をどこで得たのでしょうか。二代目会長ラザフォードの権威は?三代目会長ネイザン・ノアは?そして1971年以降、12人ほどの統治体の権威はどこからですか。
 約100年にわたる「ワンマン規律」に終わりを告げて、ついに1971年に男たちの一団がノアから権力を奪取できたとき、地位に着く資格は統治体の成員になる者にはっきりと供されました。1971年12月15日の「ものみの塔」758頁では、こう書いてあります。「統治体は神の霊から油注がれ、「神の子」として神から生まれた献身的な、バブテスマを受けたクリスチャンから構成されることを心に留めなさい。天の王国において栄光あるイエス・キリストと結ばれているのです」。「油注がれた者」の一人の資格を与えられる前のエホバの証人からバブテスマを受けられた人も居るはずですね。その人は神の霊を注がれ、神のみ言葉、聖書を理解する資格があります。しかしチャールズ・ラッセルがバブテスマを受けたとは一度も読んだことがありません。現在のものみの塔の教えによると、チャールズ・ラッセルは決してふさわしい権威を持っていなかったことを意味します。もしチャールズ・ラッセルが神から与えられた権威を一度も持っていなかったなら、権威を譲り渡すことができたとしても、渡すべき権威は持ってなかったのです(ユダの場合を除いては、死亡した者に代わって他人を任命している使徒の話を読むことはありません)。
 おびただしい数の宗教指導者を「自称する」人たちがいます。ジョセフ・スミス、エレン・ホワイト、メリー・ベーカー・エディ、文鮮明、ジム・ジョーンズ、ダビット・コレシュなどです。ものみの塔はこうした人たちがふさわしい権威を持っているとは認めないでしょう。どうしてものみの塔は、「自ら任命した」チャールズ・ラッセルが権威を持っていたと主張できるのでしょうか。特に現在、チャールズ・ラッセルが教えたことと実践したことを統治体が大部分捨てているときにです。それではものみの塔の指導者たちはふさわしい権威を持たない状態のままでいるのでしょうか。だとしたら、聖書の解釈や教義や信者が実践すべき求めを絶えず変更してきた説明になるかもしれません。
 神のみ名において行動する「権威」が「ものみの塔」や「モルモン教」、「統一教会」、「国際の道」などの人間の組織に見いだされないのなら、それはどこに存在するのでしょうか。その答えはマタイ28:18 にあります。「すると、イエスは近づいてきて、彼らにこう話された。『私は天と地におけるすべての権威を与えられています』」。神は信者に教義について完全に同意をするように課して、数多くの規律と規則を通しての救いを与える権威を人間の組織には与えませんでした。本当の救いは、イエス・キリストご自身から与えられます。ヨハネ14:6には、こう書かれています。「イエスは彼に言われた。『わたしは道であり、真理であり、命です。私を通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません」』。そうです。イエスは個人の罪を許し、聖書の神と個人的な関係に至る道です。罪を告白し、イエスを個人的な救い主として信じてイエス・キリストに来るとき、ヨハネ10:28 に書かれている約束を受けます。「そして私は彼らに永遠の命を与え、彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく、誰も彼らを私の手から奪い取る者はいません」。
 イエスの救いはどこまでもおよびます。イエスは罪を許し、「父」の生まれ変わった子として「父」との親しい関係をもたらすだけではなく、永遠の命を与え、神の力によって保ちます。地上を離れるときに天に行く絶対的な保証が与えられます(身体の「終わり」が続くことはない)。イエスがあなたの「救い主」となったとき、この世がかつて知らなかった大きな愛に入ります。ローマ書8:35,38-9 に書かれてあるすばらしい約束を受けます。「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すのでしょうか。艱難、あるいは苦難、迫害、飢え、裸、危険、剣でしょうか。‥‥‥死も、生も、み使いも、政府も今あるものも、来たるべきものも、力も、高さも、深さも、またほかのどんな創造物もわたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを、わたしは確信しているからです」。
 罪の許しを得るためにイエス・キリストに来た人は一人も失望させられることはありません。「啓示」1:5-6 にこう書かれています。「わたしたちを愛しておられ、ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださった方に‥‥‥この方にこそ栄光‥‥‥がありますように」。今まで一度もイエスに栄光を帰していないのであれば、世の救い主であるイエス・キリストを個人的な「救い主」として求めてみませんか。
          
 もっと多くの質問がすらすらと出てくるかも知れませんが、上の20の質問は必須でしょう。真理を求める私の友人であるあなたにとって、こうした重要な個々の問い合わせに答えさせるために「聖書研究」の先生に尋ねることは、あなた自身のためにもなります。
 組織の多くの偽預言や教義の逆転を示しているものみの塔の書籍や雑誌の写しは、お望みでしたらご覧になれます。

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