輸血拒否死亡者追悼式

                              司会 藤原導夫

 突然、青木さんから輸血拒否追悼式の依頼を受けた時はとまどいがありました。私はここの教会の牧師です。地理的に分かりにくい教会です。初めての人はここにたどり着くまで一時間はかかります。分からないから帰りますと言う人もいます。自己紹介しますと、「JWTC十年の歩み」にも書きましたが私は1994年に中澤先生のクラスに直接出席していましたが、忙しくなった後は録音テープを聴いています。私たちの教会の歩みの中でもいろんな体験をしました。エホバの証人の研究生だったAさんは1998年に脱会して9月に洗礼を受けられました。夫のAさんには脱会の準備をしていただきましたので期待していましたところ、2000年1月に洗礼を受けられました。冬の洗礼は冷たいです。そのご長男も2010年6月、洗礼を受けられました。教会の有力なメンバーになっています。
 教会のホームページを開設したのはエホバの証人の問題があったからです。エホバの証人の方から避けられてしまったのでエホバの証人の方とは会えなくなってしまいました。1996年にホームページを開設したのですがAさんもホームページをご覧になっています。JWTCのほうがアクセスが多いかもしれません。十数年の間に相当の人たちが閲覧していました。
 「聖書は輸血を禁じていない」の執筆に取り組みました。神学委員会から輸血に関する著作を出す依頼があり、それには一年かかりました。当時、大野教会には資料がそろっていましたのでよく大野教会を訪ねました。
 ある時、エホバの証人長老夫婦が訪ねてきて、JWTCでの学びを実践する機会が得られました。毎週木曜日六時から一時間から二時間くらい、半年ほど続けました。奥さんは私に説得されそうになり、途中で止めました。その学びは夫の転勤で中断することになりました。長老は最後にこう言いました。「藤原さんと聖書を話してきましたが、藤原さんの言うとおりです。しかし仲間のために組織にとどまりたいのです」と語っていました。
 その後すぐ、奉仕の僕と研究をしました。その人は四十代でした。その奥さんは千葉大で心臓手術を受けましたが、輸血を拒否して亡くなりました。奉仕の僕はすぐかっとする性質でした。一番ムキになるのは、輸血の話をするときです。逆上して話が進みません。妻は殉教したと思っています。半年して奉仕の僕とは会話が終わりました。
 ここに「目ざめよ!」1994年5月22日号があります。「神を第一にした若者たち」の記事があります。子どもたちは輸血を拒否して死んでいきました。亡くなった人たちには心傷みます。輸血をすれば命は助かる。しかしそれをしない。結果として大変なことになるとは分かっています。しかもその人数は多いのです。ローマ書11:33から36にはこう書いてあります。

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 神は深く、広い。人間が考えてもたどり着けない。神の知恵は深く、人がいくら理解を深めても分からない。神は無限だからです。私たちは簡単に結論を出してはなりません。分からないことを先走って結論を出してはなりません。すべてのことは神から発します。存在するあらゆるものはすべて神から出ています。神によって成っています。支えられています。私たち自身が神に至るのです――。これはとても深いことばです。エホバの証人が亡くなったらどうなるか、クリスチャンが亡くなったらどうなるか――考えてもみことばの中に疑問を吸収します。神は最善を成します。亡くなった人の将来はいくら考えても考えられません。見極められません。輸血を拒否して亡くなる人が少なくなるように――。今日の集いがそのような集いです。ここで皆さんと共に祈りましょう。

 エホバの証人の信仰故に輸血を拒否して本来なら生きているべき人生を中断されて死んでいきます。心が痛みます。あなたは最善をなさるお方ですのでその方々をあなたの御手にお委ねしたく思います。今でも輸血を拒否して亡くなる方々がいます。それに巻き込まれて心を痛めて苦しんでいる方々がいます。今日の集いがそのような者に少しで助けとなりますように。あなたがこの集いを用いてください。私たち一人一人もそのようにして生きていきますように。私たちのできることはわずかなものですが、エホバの証人の信仰故に輸血を拒否するというその現実を知っていくらかでも自らの分を果たしつつ、問題に取組むことができますようにお祈りします。


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