証人二世の体験談


 わたしは証人二世で、元奉仕の僕です。1970年の生まれです。

 私が生まれた当時の東北は、未割当地ばかりでした。隣の家に特別開拓者の証人引っ越してきました。母は井戸端会議が嫌いなタイプで好みも特異でした。証人から聖書研究しませんかと言われると、その日から研究を始めました。今でこそバプテスマになるまで長くかかりますが、その頃は二ヶ月でバプテスマを受けるのがふつうでした。現在、二世は30歳過ぎの年齢がもっとも多いのですが、それは75年にハルマゲドンがあるから今の内にと急いで結婚したからです。

 地方の幼稚園は教会が経営する例が多かったし、園で礼拝もしてました。司会者から言われたとたん、親は大急ぎで幼稚園に行くと子どもを園から引きづり出しました。学校では徐々に禁止事項が増えてきました。鯉のぼりはだめです。家に持って帰ると母から殴られました。校歌はだめ、応援歌もだめです。格闘技もだめ。だんだんほかから浮き上がり、攻撃の対象、いじめの標的となりました。加えられる攻撃は容赦ないものでした。親から言われているから悪いことだとは思っていませんでした。親に相談すると祈りが足りないと言われるが、いくら祈っても好転しません。先生に相談すると、それは自業自得だという答えが返ってきました。集団生活に合わせるよう要求されるのにそれに従わないで庇護を求める、自分で解決しなさいと言われました。帰宅して長老に相談すると、「挑発に乗らず立ち去りなさい」という答えが返ってきました。けれど立ち去る場所はないのです。事態はまったく改善されません。二世がエホバの証人に行くのは信仰ができあがるから行くのではなく、だんだんほかから浮き上ってしまい、組織しか居場所がなくなっていくからなのです。社会性を育てるのではなく、すべてのことを遮断していくから組織に着いていくしかなくなるのです。20歳を過ぎると、うつを病んで辞めていく者はかなりの数に上ります。

 親はまだエホバの証人で、断絶状態です。居場所も分かりません。母と兄は熱心で、伝道時間より研究時間が80%入るというタイブです。二人とも優秀なほうでした。わたしと言えば、割当には突っかかり、研究では2550年の計算ができないために母にたたかれました。それでも証人の体験しかないと思っていました。ベテルに入った兄と比較されてました。わたしは19歳の時、ほかの区域に出ていきました。わたしは信仰を持ってスタートしてはいませんでしたからモチベーションがなく、活動も頭打ちになりました。そのために滅ぼされるのではないかと毎日悩んでいました。

 ある時期、人生の転換点が訪れました。大学で考古学と文化人類学を専攻していた非常勤の学者を研究生として教えていたときでした。その学者は新興宗教やカルトに興味を持っていた学者でした。かつては麻原にも会ったとも言っていました。書籍は『創造』を選んで研究が始まりました。研究が進んでいくといろいろと質問が返ってきました。「こう書いてあるけどこういう論理はおかしい」という質問でした。今でも印象に残っている文があります。書籍には挿し絵とともに、「一軒の小屋が古くて倒れそうです。古いからといって小屋が独りでに立ち上がったと考えられるのでしょうか。宇宙も設計者がいないと考えられますか」と書いてありました。「大は小を兼ねると言いますが、小は大を兼ねられますか。宇宙の大きさを把握している人間はいないでしょう」……それ以来、疑念が生じてきました。熱心に誘ってもその研究生は最後まで集会に来なかったのです。エホバの証人は「週のうちのたった三回です。週168時間のうち5時間作ればいいのです」と誘ってますがそうやって人の生活を縛るのはエホバの証人の詭弁を弄する性格の現れです。

 その学者はよく旅行していたようで、ある日、ベテルに見学に行って来たと言って、建物の写真を見せてもらいました。写真の中にはラッセルの墓がありました。墓はピラミッドの形をしていて、メーソンの紋章がありました。それまでわたしたちは見たことがありませんでした。エホバの証人にはローカルルールがあります。特定のファンシー商品は禁止されてました。水子供養がモチーフだからだめ、帯の締め方は水子供養だからというのです。堕胎の容認になるといって長老から廃棄された例がありました。ハートのマークもだめです。だからピラミッドを見たら、異教の墓にラッセルが眠っていると思いました。ありえないと思いました。それをコピーしてその日の集会に持っていきました。それを長老に見せたら長老の態度が一変し、「なぜそれを知りたいのか」と責められました。知る必要のないものは知らなくていいのだと言われました。墓は87年にスライドで公開されましたが台座にあった一部だけで全体像は隠していました。その日のほかの出席者に写真を見せながらしゃべっていましたら、数週間後、巡回訪問があって呼び出しを受けました。王国会館には会衆の組織図が貼ってあったのですが、中に入って見るとわたしの名が消えていました。複数の長老と巡回監督が出る審理委員会でした。写真について質問を受け、追求されました。組織の公式な見解は「組織から離れた者が勝手に墓を作っている」というものでした。それは詭弁でした。以来、すっかり嫌気がさして、20歳から集会と奉仕活動から足が遠ざかりました。一度離れるとどんどん離れてしまいました。長老からは記念式や地域大会には招かれ行ったのですが、熱意はなくなっていました。なぜもっと前に疑念か抱かなかったのか後悔ばかりがわき上がっていました。行かなくなっては組織も自分も互いにいいことはないだろうと思い、97年、ベテルに宛てて断絶書を書きました。即刻、母親から電話があって怒鳴られました。二度と会いたくないと言われました。それ以来、母の顔は分かりません。子どもからエホバの証人として育てられました。人生の大半を占めていたものが無くなると何をしていいのか分からなくなります。ショッピングモールに駐車していてぼんやりと子ども連れの家族を目にして、ハルマゲドンの恐怖がない人生とはどういうものか、どうすれはそうなれるのかなどと想像していました。精神的におかしくなっていました。アルバイトをしていてやることが無く、関心は食べることだけ。10枚の回転寿司を食べ、トイレで吐いて、席に戻るとさらに全部で50枚の寿司を食べたことがありました。自暴自棄な生活でした。体型も変わりました。人生の出口が見えません。精神科に行ったり、鴨居にひもをかけては外すといった日々が続きました。

 次にバイトをしたコンビニで転機が訪れました。私のように立ち直れたのは幸運なケースだと思います。そうした、たくさんの人々にできるだけのことを、やっていかなければと思います。反対派の活動を知ったのは去年でした。携帯で見ました。今は経験を笑っていられますが今でも苦しんでいる人がたくさんいます。こうした活動があること、こうした同志がいることを知らずに苦しんでいる人がまだたくさんいます。他の人にこうした活動を伝えていかなければなりません。それにより自殺を考えている人を思いとどまらせ、救出することができます。多くのみなさんと手に手を取り合って前に進んでいければ、これ以上の喜びはありません。これからもこうした闘いをずっとやっていきたいと思います。互いに協力できることであれば、手を取り合って必ずやものごとを達成していきたいと思っています。

 


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