<JFCのさまざまなケース>

    80年代からエンターテイナーとして興行ビザで来日するフィリピン女性が多くなってきました。
   96年には、日本人男性と外国人女性との国際結婚のなかで、日比の国際結婚は6645組で
   トップになりました。(*厚生省大臣官房統計情報部(人口動態統計)平成8年より)

    しかし、法的に結婚をしていないカップルの数も同数以上いるといわれており、そのカップルから
   生まれてきたJFC(子供達)は、多くの問題に直面しています。

 
 ★ケースその1
特別在留許可を求めている親子
 
−特別在留許可−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− −− 
|在留資格のない外国人に対し、法務大臣の裁決により事情を勘案して、その者の在留が特別に         
|許可されること。@日本人配偶者との婚姻、A日本人の実子を育てている親                                            
|B難民に対して、その許可が与えられている。                                                                    
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 Rさんは、興行ビザで23歳のとき初めて日本の地を踏んだ。家族のためをおもい日本にやって来た
Rさんだったが日本での生活は大変なものであった。はじめは、首都圏近郊のクラブで働き、
その後、彼女は地方を転々した。そんな生活のなか、あるクラブで給料を支払ってもらえなくなり
Rさんは、逃げ出す決心をした。しかし、Rさんは、フィリピンで日本で働くことを斡旋されたブローカーに
パスポートを取り上げられており、逃げ出すことは大変勇気のいることであった。
 
 Rさんの娘(Mちゃん)の父親であるW氏に出逢ったのは、ブローカーのもとから逃げ出した後
別のクラブで働いていた頃だった。Rさんは、Wさんの優しさにひかれ2人の付き合いは始まった。
そして、Rさんは妊娠した。W氏にそのことを伝えたとき、”おろしてほしい”同時に彼が結婚していることも
知らされた。悩んだ末、Rさんはおろす決心をした。カトリック教徒であるRさんがそれを決心することは
大変な苦しみであった。しかし、その後、Rさんはまた妊娠した。
W氏からは”おろして・・・”と同じことを言われたが、Rさんは産む決心をしていた。Rの強い意志を感じ
W氏も子供を産むことに応じ、支援することを約束した。
 
 Rさんは元気な女の子を産んだ。W氏は次第に態度を変え、認知届を提出する様子もなかった。
”あなたの子供でしょう。私はあなたが認知するまでここからはなれない”
小雨のぱらつく寒い日、W氏の自宅に向かったRさんは、Mちゃんを抱えたままドアの前から動かなかった。
そして、Mちゃんは父親からの認知を受けた。
 
 ある日、Mちゃんの体に発疹が出て病院に駆け込んだ。”川崎病です”医師からの言葉にRさんは愕然と
した。オーバーステイのMちゃんは国民健康保険に加入できず、2週間の入院で60万の費用がかかった。
父親に求めたその支払いは未払いのままである。
 
 Rさんと娘(Mちゃん)は特別在留許可を求めて入管に出頭した。”ビザ”のない者にとって日本での生活は
不安がつきまとう。国民健康保険、生活保護、母子手当などの公的社会保障を受けられないだけでなく
就職や住居を見つけることも困難である。しかし、特別在留許可を実際に得るまでには、2〜3年かかると
言われている。RさんとMちゃんにとっては、まだまだ不安な日々はつずいている。
 


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