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日本チェルノブイリ連帯基金
 Tel : 0263-46-4218
 Fax : 0263-46-6229
 Mail: jcf@jca.apc.org

―タチアナ先生へのレクイエム―

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、私がついている」

 1986年、チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故で放射能の汚染が広がった。経済も崩壊した貧しい国で、子どもたちの命を守るために必死に働く女医さんがいた。
 ぼくと同じ55歳。小児白血病病棟の部長タチアナ先生。
 ひまわりのように明るい先生。
 白血病の子どもたちのお母さんでもあった。

ゴメリ州立病院のタチアナ先生

がんの転移

  しかし、子供たちの太陽に大変なことが起きていた。
 3年前、普段は白血病の診断や、治療法を指導するために使っている人工衛星を使った双方向テレビで、ドクタータチアナが悲しい告白をはじめた。
「チェルノブイリ事故の翌年、1987年に乳がんになりました。手術をして、いったんは元気になりました。 私のことより、子どもたちのことが心配で・・。自分の体のことを忘れて、仕事をして、勉強をして、また仕事をしました。ひとりでも多くの子どもを助けたかった。腰の骨が痛かったけれど、子どもたちのためにがまんして働きつづけていました。最近、痛みががまんできなくなっていました。検査をしてみると、骨への転移が見つかりました」
 つらい告白は、抑制のきいた低い声で淡々と語られた。 「再発です。多発性の骨転移があります。がん細胞が体のなかにばらまかれているみたい」 しばらくどちらからも声がでなかった。 8千キロ離れたゴメリと日本を結ぶニューメディアを、沈黙が支配した。 障子一枚を隔てた所をつないでいる糸電話のように、お互いの息づかいまで感じるような気がした。
「子どもたちのために、生きたい」 糸電話の糸が震えた。 タチアナの目に光るものがあった。

1994年来日した時のタチアナ先生

痛みをこらえて

 1986年ベラルーシ共和国で1745人だった乳がん患者が、1998年には2787人と顕著に増加していた。放射能汚染の特にひどかったゴメリ州では、乳がんの発生が多くなっているという。
 なんでだ。 よりによってタチアナが乳がんの骨転移。 痛みをこらえて、子どもたちに、ひまわりのような大きな笑顔をたっぷりとふるまっていたなんて。泣いている小さな子どもを抱きしめてあげるために、腰の痛いのをがまんして、無理に、かがんでいたのだ。
 ぼくたちが日本で、12年間に6億円あまりの募金を集め、69回の医師団派遣をしてきたのは、信頼のできるタチアナがいたからかもしれない、とそのとき思った。
 当直室のソファで、タチアナ・ママは日本から送られた抗がん剤の注射を、子どもたちに気がつかれないようにこっそりと始めた。抗がん剤の副作用の嘔気をがまんしながら、あいかわらず彼女は、病棟を走りまわった。

信州大学医学部小児科小池医師と

私の子どもたちのために生きぬくわ

  3ヵ月後、ベラルーシ共和国を訪ねると、いつものあたたかな笑顔の彼女が、ゴメリ駅に迎えに出てくれた。ウェーブのかかった美しい金髪がストレートの髪になっていた。抗がん剤のため髪がなくなってしまい、カツラになっているのだと思った。 美しい顔が少しだけやつれていた。 つらいだろう。乳がんは他のがんに比べると転移が広がっても、抗がん剤がよく効くことがある。タチアナはあるがままを受け入れている。厳しい状況はこれからも続くことだろう。しかし、あきらめていない。希望を捨てていない。
 「元気かい」と聞く。 「元気よ。私の子どもたちのために生きぬくわ」 明るい答えが返ってきた。ぼくはそれ以上、彼女の病気に触れることができなかった。プラットホームでそっと抱きあった。彼女の命をいとおしいと思った。 奇跡がおきた。抗がん剤が効いて彼女は元気をとりもどした。白血病病棟で、フルタイムで働きはじめた。

ゴメリ駅で

脊髄にも転移

 しかし、幸せな時間は長く続かなかった。 昨年、元気に小児白血病病棟を飛び回っていたタチアナの悲しい知らせが入った。再び、がん細胞が猛威をふるい始めた。首の骨へがんが転移しているという。脊髄にも転移がおよんでいた。悲鳴が聞こえた。 ひどい。 なんて残酷なことをするんだ。両側の手足がまったく動かない。四肢麻痺、完全に寝たきりになってしまったという。
 ぼくは、どうしても彼女に声をかけてあげたかった。 ゴメリ州立病院へ飛んだ。タチアナ先生は、ゴメリ州立病院の移植部集中治療室に入院していた。自分のホームグラウンドだ。ここで彼女は、たくさんの子どもたちの命を救うための闘いの陣頭指揮をとってきた。
  入院している白血病の子どもたちと子どものお母さんだけではなく、若いドクターたちの心の柱だった。みんなから慕われていた。
 ニコニコしている。タチアナ先生の笑顔は変わっていなかった。不思議な気がした。どうしてこんなにニコニコしていられるのだろうか。
「ドクター・カマト、よく来てくれました。とてもうれしい。遠いから大変だったでしょう」
 わずかに動く手をさし出してきた。握手の力はないが握れる。放射線の治療が効いてきたようだ。回復の成果をぼくたちに見せようとしている。
「心配で飛んできたよ。タチアナがいなかったら、チェルノブイリの子どもたちへの救援活動は、こんなに続かなかった。タチアナに元気でいてもらわなきゃ」

ベッドの上でも笑顔をわすれないタチアナ

すべての子どもにチャンスを!

 乳がんには化学療法も放射線治療もよく効く。ここからが勝負だ。完全麻痺だった手足が動き出したと聞いて、安心した。
「大丈夫、負けないわ。 カマト先生と会ったのは、9年前だったわね。小児科から白血病病棟を独立させた時だった。私たちは、ドクターカマトがやっているJCF(日本チェルノブイリ連帯基金)と共にこの病棟を作ってきました。人生なんか苦労の連続。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
  「ゼロからの出発でおもしろかった。 やりがいがあった。1991年、初めてこの病院を訪ねたとき、白血病の少年のお母さんに泣かれてね。少年の名はウラジミール。日本へ連れていって、助けてほしいって。あの時、君は毅然としていた。この病棟の子どもたちは、みんなが生きたいと思っている。ひとりだけ日本へ連れていってはダメ。すべての子どもに生きるチャンスを与えてって。覚えている?かっこよかったなあ。君の言う通りだと思った。あの時は、反省したよ」
 

大丈夫歩けるわよ!

8千キロを超えた家族

 この人が病気であることを忘れてしまいそうだ。 ぼくたちは、同い歳の医者として、気があっていた。死にかけている、子どもたちの命を救いたかった。生きたいと思っている子どもたちに悲しみの涙を流させたくなかった。一人でも死なせたくなかった。一人の子どもの涙は、人類すべての悲しみより重いというドストエフスキーの言葉をずっとかみしめながら、タチアナと協力しあいながらやってきた。
  「あの時の、日本へ連れていって治療してくれって言った八歳の少年ウラジミールが、ぼくのことを覚えていてくれ、十年ぶりに再会した。日本から送った薬をタチアナが、上手に使って完治させた。うれしかったなあ。お母さんにアパートに招待され、手作りの家庭料理を味わってきた。おいしかった。ホテルの料理はいつも同じ。あきちゃってね。ぼくはパスタが好きってお母さんに言ったら、お母さんが手打ちで作ってくれた。手打ちパスタ、すごいって言ったら、この国は機械なんかないから、いつでも手打ちですって、言われてしまった。なんだか知らないけどうれしい。うまかった。
 なんか、ぼくたち、8千キロを超えた家族みたいじゃないかって思った。ぼくたち、いい仲間になった。お互いを信頼してきたね」
 タチアナは美しい顔に満面の笑みを浮かべた。
「この国は経済が崩れて大変。でも、病気にかかった子どもたちに国の経済は関係ありません。みんな治りたいのです。医師として、全力を尽くしたいのです」

タチアナはみんなのお母さん

本当の優しさとは

 人間の心をもった、すばらしいドクターだと思った。
 彼女は熱く、強く、優しい心を持っている。ぼくは、人間にとって大切なのは他者への想像力だと思っている。 他者がどんなにつらい思いをしているのか。 何をしてもらったらうれしいのか。 何を待っているのか。 時代の進歩とともに、科学的な根拠の向こう側に、もっと大切な心とか魂があるのに、そのことにだれも気がつかなくなりはじめた。
 人は優しくなくちゃ人じゃないって思ってきた。 優しさって、得体の知れないもの。 実は、他者への想像力そのものなんだ。優しそうに見える人が、本当は優しくない人だと気づく時がある。そいつは、自分に優しいだけなんだ。優しそうな顔をしていたり、優しそうな声にだまされてはいけない。自分でない別の人間へ、思いをはせることって、簡単そうでむずかしい。
 タチアナ先生には、ずば抜けた想像力があった。子どもたちを愛しているから、白血病の子どもたちへのあたたかい想いがあるんだ、きっと。

病院の子どもにJCFからのプレゼントを渡して

今度は、私たちがついている

  「病棟の子どもたち、タチアナがいないから、さびしがっているだろうなあ」 ぼくはタチアナの大きな目を見ながら続けた。
 「タチアナは小児病棟のお母さん。お母さんがいなくちゃ、子どもたちがかわいそう」
 「先生、だいじょうぶ、だいじょうぶ。子どもたちすごいの。私を乗りこえていく。入院している子ども、一人ひとりが、私に手紙をくれました。小さな子どもたちも、お姉さんたちが教えたんだと思うけど、手紙を書いてくれた。何て書いてあると思う?」
 「なんだろう」
 「子どもたち全員が『タチアナ先生、今度は、私たちがついている。だいじょうぶ、だいじょうぶ。早く帰ってきてください。待っています』 泣けたわ。うれしかった。こんな手紙もらったの初めて。私の口ぐせを知っているの。やられたわ。私の子どもたちのためにも、私は死ねないわ。もう一度元気になって、子どもたちが待っている、病棟に戻らなくちゃ」
 すごい。顔から笑みがあふれている。
 子どもたちは、タチアナから愛されていることを知っている。みんなが一度はタチアナに抱きしめられている。
  白血病の子どもたちは、化学療法の薬を投与されて、苦しくって泣くこともある。 夜中にさびしくて泣くこともある。 小さな命が、死と隣りあわせで生きているんだ。タチアナのようなお母さんが必要なんだ。
 タチアナは「がんばれ」とか、「がんばって」と、尻をたたかない。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、丸ごとを引きうけてくれる。 子どもたちも、タチアナから大切なことを学んだ。
 「私たちがついている」 いい言葉だなぁ。 なんとかなるさ。世の中、そんなに捨てたもんじゃぁないって感じがした。

小池医師と

奇蹟よ再び!

 タチアナに再び奇跡は訪れるのか。
  「私のことを待っていてくれる人がいるって、幸せ。元気になれそうな気がする」
 ぼくは、胸が熱くなって、声が出ない。黙ってタチアナの手を握った。生きていてもらいたいと思う。もしかしたら、もしかしたら、もう生きて会えないかもしれない。
「ダスビダーニャ」ぼくは声をかけた。
「さようなら、ありがとう」 タチアナは日本語で答えてきた。 「タチアナ、生きろ。君がいることが大事なんだ。この放射能で汚染された町で、不安のなかで生きる子どもたちにとって、君の笑顔が必要なんだ。生きろ。生きていてくれ」 ぼくはそっと、手を握りつづけた。
 それから、4ヵ月後、うれしい知らせが届いた。タチアナが半日、病院に復帰したという。 奇跡が再び訪れたのだ。
 子どもたちの思いが通じた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」 ぼくは、おまじないのような呪文を、ベラルーシの方を向きながら、ひとり、心のなかでつぶやいた。

1994年研修来日の休日に松本城でJCFのスタッフと

「ダスビダーニャ」

 いつまでも奇跡は続かなかった。悲しい知らせが届きました。信じられないような知らせ。
「タチアナが死んだ」
  いつだって君は奇跡を起こしてきました。 二十世紀の文明がつくってしまったチェルノブイリという人工的な荒地に、き然と立ちはだかっていました。いつだって、かっこよかった。君は子どもたちの命を守るために、勉強をして、優秀な医者になりました。よくやったと思います。
  あなたは、病棟で泣いている白血病の子どもたちのお母さんでもありました。あなたの「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という言葉をもう聞くことができなくなりました。寂しいです。 あなたは、食べ物のない子どもたちのために畑を耕しました。病棟の子どもたちの、信頼できるドクターであり、お母さんであり、お百姓さんでもありました。
  ぼくらは忘れません。あなたが口癖のように子どもたちに言った言葉、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
  二十一世紀になって、ぼくらの地球で、わずかな間に二回も戦争がありました。 環境破壊も、さらに進んでいるように思います。地球はちっとも大丈夫ではありませんが、子どもたちにとって、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言えるような世界をつくらないといけない。 あなたの志を伝えていかなければいけないと思っています。
 12月29日、あなたが、この世の最期の息を引きとったと、今、聞きました。茫然としています。悲しいです。 君だからこそ、また、奇跡をおこすと信じていました。
 12月中旬、双方向テレビで、君は、再び、入院しているけど元気だと聞いて、復活を信じていました。残念です。でも、たくさんの人間がこうやって生きて、生きて、死んできました。こうやって、この世を去っていくのでしょう。あなたの声も、あなたの顔も、あなたのちょっとふくよかなスタイルも、身のこなし方も、あなたの考え方も、すべてが、子どもたちに優しかった。
  「タチアナ先生、ご苦労さま。ぼくたちよくがんばってきたね。ありがとう。さよなら。ダスビダーニャ」 ぼくは、おまじないのような呪文を、あの世へ向きながら、ひとり、心のなかでつぶやいた。かすかにタチアナの声が聞こえたような気がした。
  「だいじょうぶ、だいじょうぶ、私がついている」

タチアナ先生

 これからも、タチアナ先生の遺志を継いで、白血病の子どもたちの命を支えていきたいと思っています。御支援をよろしくお願いします。

(JCF理事長・鎌田 實)