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日本チェルノブイリ連帯基金
Tel 0263-46-4218
Fax 0263-46-6229
Mail jcf@jca.apc.org

ナージャの村のロゴ解説

■放射能汚染のための強制移住区域に暮らす人々
■市井の人々を追い続ける写真家の目がとらえた映像
■ベテランスタッフと、NGO団体そしてベラルーシ共和国の協力
■ベラルーシ共和国
■悲しみの村に命は輝く:本橋成一


■放射能汚染のための強制移住区域に暮らす人々

旧ソ連(現ウクライナ共和国)チェルノブイリ原子力発電所が大爆発を起こしたのは、1986年4月26日のこと。大気中に拡散した放射性物質は北半球全体に広がり、特に隣接したベラルーシ共和国は高度の汚染地帯となった。中でもゴメリ州は汚染がひどく、ホットスポットと呼ばれる地域が点在している。強制移住区域に指定された場所からは、大勢の人々が故郷を去って行った。

映画の舞台であるドウヂチ村もそのひとつ。事故前には300世帯以上が暮らしていたが、今では遮断機によって閉鎖され、「ゾーン」と呼ばれている。村は地図からも消えた。しかし、移住を拒み故郷に暮らし続ける6家族がいた。

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■市井の人々を追い続ける写真家の目がとらえた映像

「ナージャの村」の監督は、写真家の本橋成一である。「炭鉱」で「第5回太陽賞」を受賞。その後は、サーカスや魚河岸など市井に生きる人々の写真を撮り続けてきた、ドキュメンタリーの写真家だ。

彼がチェルノブイリを初めて訪れたのは1991年。事故から5年を経たころだった。最初、白血病や甲状腺機能障害に苦しむ子供たちを病院で見たとき、放射能測定器がけたたましく鳴る石棺の前に立ったとき、二度と来るべきところではない、と思ったという。しかし、広い大地の上で自然と共に生きている人々と出会い、彼の気持ちは一変した。そして5年間にわたり汚染地域での撮影を続け、写真集「無限抱擁」で「写真協会賞」、「写真の金賞」を受賞した。

本橋は、この数年間ひそかに「チェルノブイリの映画を撮りたい」という夢をあたため続けてきた。原案を写真集「無限抱擁」とした映画だ。汚染された大地に、豊かないのちの営みがあることを、映像で表現したかったという。「ナージャの村」は村の人々と一緒のものを食べ、同じ酒を飲み、語り合った写真家のみが撮れる映像である。本橋の哲学は「写真は人間関係である」といえよう。そこにはことさら悲劇を探そうとする目はなく、人々の暮らしの豊かさを丹念にエピソードをひろいながら紡いでいこうとする彼独特の眼差しがある。昨年春から1年間の撮影期間を経て、本橋成一初監督作品は誕生した。これは、写真家ならではの美しい映像で綴る、いのちの大地の物語である。

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■ベテランスタッフと、NGO団体そしてベラルーシ共和国の協力

「ナージャの村」の制作には、あらゆる場面でベテランのスタッフが携わっている。撮影は「しがらきから吹いてくる風」「あらかわ」など、ドキュメンタリーの分野で活躍する一之瀬正史、現地録音は菊池信之が担当。編集には「阿賀に生きる」の監督佐藤真、語りは小沢昭一、音楽は現地に2回訪れたことがある小室等が書き下ろした。

また制作統括には、チェルノブイリ連帯基金(JCF)理事長の鎌田實、制作には同事務局長の神谷さだ子があたった。「ナージャの村」は、チェルノブイリを支援する市民団体の、強力なバックアップによって出来上がった作品でもある。ベラルーシ共和国文化省の協力もこの映画を完成に導くためには欠かせなかった。ベラルーシ語の翻訳を始め、現地での撮影をスムースに進めるためにはかれらの尽力なくして「ナージャの村」はできあがらなかった。

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■ベラルーシ共和国

ベラルーシ(白ロシア)共和国は人口で言えばソ連邦第5位に位置し、ウクライナ共和国と同様に国連に議席をもつ。国土の南端は深い森林地帯とプルピャチ湿原の水路網によってさえぎられているのに対し、北部は、多くの氷河の堆積によって比較的標高が高く、土壌もより乾燥している。北部を流れる西ドヴィナ川は、バルト海へいたる水路として、歴史上重要な意義をになってきた。ポーランドとの国境地帯には、ベロヴエージャのすばらしい原始林があり、ヨーロッパ野牛の最後の棲息地になっている。

ベラルーシ(白ロシア)は、歴史的にはキエフ時代の重要な事実上の独立公国ボロックの末裔といえる。モンゴルの征服以後、白ロシアはリトアニア大公の手中におちた。その後、ポーランド=リトアニアの王朝連合の結果、ベラルーシも16−17世紀ポーランドに展開したルネッサンス文化の洗礼を受けることとなり、おそらくは国民の4分の1ほどがカトリックに改宗した。18世紀末のポーランド分割によってはじめて、ベラルーシの大部分がロシア帝国に併合されるにいたった。

ベルリンとモスクワを結ぶ線上に位置するベラルーシはナチスの侵略に際して、ソ連の他のどの地方にも増して、深刻な被害を被った。ナチス占領期間中(1941-44)に、150万に及ぶベラルーシ(白ロシア)人がヴォルガ川以東への恒久的な疎開を余儀なくされ、また、ユダヤ人人口のかなりの部分が国外に脱出し、さらには全都市の4分の3以上が破壊されてしまった。しかしおそらくはベラルーシ人の不撓の国民性ゆえに、荒廃した国土の復興が進み、1970年代末までに、ベラルーシの都市化と産業化は連邦中で最高の進展をみせるにいたった。

この国の伝統産業である木材加工とジャガイモ生産は、いまもなお重要な意義を担っている。冷涼・湿潤の夏と砂質土壌はジャガイモ栽培にとって理想的な条件であり、ここで生産されるジャガイモは、ソ連全土で消費される。又、家畜飼料やアルコール精製の原料としても重用されている。国土の3分の1は森林に覆われ、無数の湖や水路は、家具工場や製材所への木材輸送路として用いられている。砂は珪石煉瓦やガラス製造の原料となり、そのため南西部の都市、ゴーメリーにはソ連有数のガラス工場がある。プリピャチ湿原に特徴的な泥炭層の広大な地域は、近年になって開発が進みつつあり、共和国の火力発電所には泥炭を燃料としているものが少なくない。また、ミンスクには代表的な自動車工場がある。

『図説世界文化地理大百科ロシア・ソ連史』(朝倉書店)より


面積:207600km^2
人口:1100万人(1993年)
首都:ミンスク
首都の人口:275万人(1996年)
言語:ベラルーシ語

ベラルーシの詳しい情報はこのページ(英語です)をご覧下さい。
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■悲しみの村に命は輝く:本橋成一

「人間が汚した土地なんだよ。ここから逃げ出してどうするんだ。」のどかな日差しの中で、83歳のアルカジィ.ナボーキンがとつとつと語る言葉は、信念に満ちていた。私に映画作りを決意させたこの人物と出会ったのは、1995年の春だった。

場所は86年に爆発を起こしたチェルノブイリ原子力発電所4号炉から160キロメートルほど離れた、ベラルーシ共和国パーブジエ村。私が91年から3年半にわたって、放射能に汚染された村に住む人々を撮影した場所の一つである。その写真を携えて再び村人を訪ねる旅の途中だった。

見渡す限りの豊かな大地と森と川。パーブジエ村はまるでミレーの絵の中の風景そのままだ。だが、実際は高濃度の放射能に汚染されており、政府による立ち入り禁止地域に指定されている。
ほとんどの住民は強制的に移住させられたが、何人かは頑として動かなかった。そういう人々をロシア語でサマショール<頑固者>と呼ぶ。経済的な理由もあるが、何より故郷を愛しているから離れられない。ナボーキンもそんなひとりだ。夫人は20年も前に亡くなり、娘たちは都会で独立。彼は牛を飼い、畑を耕してひとりで暮らしていた。

私が訪ねた時、彼は牛を放し、乳を搾って飲んでいた。そして汚染された大地に、一つ一つ手でジャガイモという新しい命を植える。

仕事が終わると彼は私を家に招き、古いアコーディオンを取り出して弾いてくれた。ところどころカタカタという音しか出ない壊れたキー。思うように動かない指。しかしその一曲一曲は妙に存在感に満ち、まるで彼の長い人生を歌っているようだった。

私は何としても彼の映画を撮りたいと思った。ぜひあなたを主人公にと頼みこみ、再会を約束して日本に帰った。友人、知人を頼って資金と人を集め、ロケハンで再び彼を訪ねたのは96年冬。ところが、ナポーキンは、私たちが到着する二十日前に牛泥棒に殴り殺されていたのだ。窓が壊され、雪が吹き込む家を見たときのショックはとても言い表せない。

一度は撮影をあきらめかけたが、彼の思いを引き継ぐ映画を撮らなくてはと気を持ち直し、チェチェルスク地区のドゥヂヂ村に移動した。ここも汚染の激しい立入禁止地区で、村の周囲の3カ所のゲートで警察が入る者をチェックする。

そこには6世帯の家族が暮らしていた。写真撮影で私は何度か訪れたことがあり、何家族かを知っていた。映画を撮ると話すと村人は大歓迎してくれた。私たちはそれから1年間、春夏秋冬それぞれの季節に30日間ずつ、村を訪れてカメラを回した。

撮影は、7人家族のウラジーミル一家を中心に進めた。ここで暮らす人々のほとんどは老人たちだが、この家には5人の子供たちがいる。1番下の少女が八歳のナシェージダ。後にこの子の愛称を取って、映画のタイトルは「ナージャの村」になる。18歳の長女を除いて、ナージャたちは学校に行っていない。時々、廃校になった校舎に入って遊ぶ。教材が散らばった教室の壁に落書きがあったので、ナージャに読んでもらった。「さようなら、私のふるさとの学校」とあった。

村人はみな個性的で、言うことが芝居のセリフのようにおもしろく、まるで劇映画を撮影しているようだった。だからこの映像は記録映画というより、「物語映画」と言った方がふさわしい。

60歳のニコライはエセーニンの詩が大好きで、「ロシアを捨てて天国に生きると言われたら、私は天国はいらない、故郷をくれと言う。」と年中、詩ともつかない言葉を発する。

サーシャは、空き家のスレートがわらを町の闇市へ持ち出している。

82歳のチャイコフスキーばあさんは、どこへ行くにもシロというヤギと一緒。冬にシロが死んだ時はすごい落ち込みようで、一日中ぼやく様子は、気の毒だが何ともおかしかった。彼女は雪に覆われた畑を前に話しかけた。「神さま早く春が来ますように。暖かくなったらジャガイモを植えよう。命について考えよう。この冷たい土の中にはたくさんの命が待っているんだね。」未来への希望に満ちたこのシーンは、映画のラストになるだろう。さらにこの地方は世界大戦末期、ナチスによって10数万人が殺されたところでもある。映画の後半でその歴史的場面を目撃したチャイコフスキーばあさんの60歳の息子は証言する。「ひどい戦争だった。それでも村は残った。なのに、今度のチェルノブイリのやつはオレの村を消してしまう」

映画には、ことさら放射能汚染を説明する映像はない。私は世紀末に起きたこの悲劇を通して、それでもなお未来へと向かう命あるものの営みを描いてみたかったのだ。ドウヂチはユートピアのようだった。馬車に乗り、キノコを狩り、歌を口ずさむ人々。人類の歴史が始まって以来、私たちはずっとこういう暮らしをしてきた。近代社会などせいぜいここ三百年で登場したに過ぎない。

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サスナフィルムロゴ