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The APC Betinho Communications Prize

Betinho - The Conscience of a Society

芸術家であれば、その作品である音楽や絵によって、記憶されるであろう。政治家ならば作った法律や政策、運動選手ならば勝ち取ったメダルやカップで記憶されているであろう。しかし、ベチンニョという愛称で知られるエルベルト・ジ・ソウザが亡くなった時は彼を宝石のような文学的作家として、あるいは民主主義や多国籍企業、世界銀行に関する鋭いエッセイの著者として思い起こす記事は少なかった。ベチンニョが残したものとは、聖人の仲間入りを勧めた神学者たちによれば奇跡とよぶべきものなのだが、社会学者や政治家の残すようなものというより、預言者が残すようなものなのだ。彼はブラジル人の良心を変えたのである。そして、それと共に歴史の道を残したのである。

インテリとして優れているかどうかはその人の考えがいかに創造的であるかどうかで判断される。ベチンニョの場合は誰にもわかることを表現する能力であった。1992年、フェルナンド・コロル大統領がブラジルを汚職の泥沼にブラジルを放り込んでしまったことは明らかであった。しかし、その問題を的確に表現して、社会を動かす声が欠けていた。ブラジルは第八番目の経済大国であると同時に世界でもっとも不平等な社会であることは国際機関によって何度も何度も繰り返し指摘されている。しかし、ただ、単にこのような状況は長い目では政治的に維持不可能で、経済的な麻痺状態を引き起こすだけでなく、道義的に受け入れられない、という声は欠いていた。

ベチンニョは悪を突き止め、他の人たちに解決策を出すように要求する伝統的な方法に訴えることをするかわりに、彼は市民にたとえ話を語ったのだ。はちどりのたとえ話を。

森が火事になった。すべての動物がやけどしないように逃げているのに、はちどりだけは残って、川の水をくちばしに含んで火に向かって投げかける。「本当に君のくちばしで運べる水で火事が消せると思うのかね?」とライオンがはちどりに訪ねた。「ひとりではできないのはわかっている、でも僕は少なくとも自分のできることをやるまでだ」とはちどりは答えた。

Marizilda Gruppe for Agencia Globo

反飢餓キャンペーンとして知られ、またベチンニョのキャンペーンとして知られている「飢餓に対決し命のための市民による行動」はすべての市民に向け、自分たちの近所の貧しい人たちを探し、彼らを助けるためにそれぞれのできることをやることを呼び掛けた。ブラジルの3200万人の飢えている一人一人には顔があって、誰かが知っていて、彼らを助けることに許可を得ることも指示を受けることも必要ないのだ、という考えであった。

犯罪を阻止するためにどうやって死刑を制定しようかという議論にのみ興味をいだいていたように思われた国が、数ヶ月の間に広大な連帯活動に突き動かされるようになったのだ。教会に属する人たちも、住民組織も、労働組合やロータリークラブの会員も寄付の積み荷をファベラと呼ばれるスラムへ持ち寄ったのである。そうしたら、彼らが驚いたことにスラムの人たちはさらにもっと貧しい人たちのためのキャンペーンのために自分たちでもキャンペーンを組織していたのだった。

このような指導者のいない構造や組織という革新的なモデルはほとんど評価が不可能に近い。世論調査会社の調査によると、何百万の人々がこのキャンペーンに参加したと答え、60パーセントの人々がこのキャンペーンについて聞いたことがあり、もっとも驚くべきことはインタビューされた90パーセントがキャンペーンを支持する答えたのだ。誰にもわかることの力なのだ。何かをやらなければならないということは、誰にもわかっていることなのだ、たとえ、すでに誰かがそのことをやっていたとしても。

死の扉の前で

それではベチンニョはなぜこれほどの多くの人々を動かす力を持つようになったのだろうか? 彼の政治的また個人的な人生は不可分であった。そして、彼の生への愛が彼が病気と共に、死の扉に側で生き続けた結果であることには疑いがない。

ベチンニョはブラジルの内陸部のミナスジェライス州にあるボカイウーバとよばれるひじょうに保守的でカトリックの町に生まれた。彼と彼の2人の兄弟は遺伝的な血友病であった。この病は血液の凝固する力を奪うもので、子ども時代を隔離と苦痛に追い込むものだった。10代には彼は結核となり、彼は新しく発見されたペニシリンによって救われた最初の患者の一人となった。この経験によって、数十年後に彼が頻繁に必要とした輸血によって彼が HIV 陽性となった後も、彼がエイズを死刑宣告状態とは受け止めなくしたのであった。

1964年に軍事クーデターが起きた時、ベチンニョはカトリックの青年活動家で、学生のリーダーであり、またジョアン・ゴラールの顧問であった。「カトリックアクション」は「大衆の行動」となり、解放の神学の最初の政治的表現の1つであった。ウルグアイにおける最初の短い亡命生活の後、ベチンニョはブラジルに戻り、亡命生活を始めるが、1968年にクーデターの中のクーデタ(国家安全保障のドクトリンによって触発された右翼のさらなる回れ右)が引き起こされた時に、「大衆運動」は急進化し、毛沢東主義となった。

毛沢東主義の教義では革命の指導者は労働者階級の一部となることが要求されたが、これはベチンニョにとっては容易に信奉できるものではなかった。彼は生涯120ポンド以上の体重になったことがなかったし、誰も彼を労働者として雇おうとは考えなかったのだ。そのため、彼は工場の外で安い装身具を売ることから始めなければならなかった。実際には彼は工場の中で仕事を得ることができた。陶器を塗るという。ある日、マグカップの縁を塗るのにもっと効率的なやり方を彼は思いついた。しかし、ここに彼のジレンマがあった。もし、彼が仕事をもっと簡単にして、生産性を上げてしまえば、彼はブルジョワジーの利益に貢献し、労働者階級の搾取に協力していることにならないか? ベチンニョがチリにおける亡命を選んだのは、形勢不利という分析や左翼の英雄主義的な戦略の不毛さよりもたぶんこの個人的な経験だったのであろう。そして、彼はそこでサルバドール・アジェンデの社会変革の大計画の枠組みの中で彼の社会学的研究を再開し、「亡命の記憶」と題された共著の中で彼の政治的分析を彼の個人的な経験と結びつけた最初の自己批判を出版する決断を下したのである。

教条主義に陥らずに歴史を作り出す複雑な力を理解しようという彼の欲求は決して彼を離れることはなかった。また彼の批評は常に自らの間違いを外にさらす傾向によって正当性を勝ち取ることができた。1973年、ベチンニョはなお亡命の身で、グラスゴーとトロントに住み、大学での研究を終え、ブラジルとラテンアメリカの現実を研究するグループを組織した。ベチンニョはこの時代のすべてのラテンアメリカ人が陥った傾向である陰謀という病気を越えて、多国籍企業の役割の分析をした最初の一人であった。メキシコでは、メキシコ国立自治大学(UNAM)で1年働き、他のインテリ、思想家たちとともに、ある雑誌を創刊したが、よくある雑誌のごとく、3回目の刊行を見ることがなかった。しかし、それは問題ではない。しかし重要であるのは、まさに最初の号から、民主主義の問題を単なる道具としてではなく、すべての提案を導くべきゴールとして、ユートピアとして、地平として掲げ、左翼の論争に入っていったことである。ベチンニョはこれを形容詞のつかない民主主義とよんだ。

アムネスティのシンボルとして

メキシコにいたベチンニョは何もせぬまま、ブラジルにおける政治犯恩赦のキャンペーンのシンボルとなっていた。彼の兄は有名な風刺画書きで、「僕のママへの手紙」という彼の週刊のコラムで、当時のブラジルにおける検閲の雰囲気をあざわらう作品を書いていた。日々の逸話の中で彼は軍事独裁によって亡命を強いられている人々を含むすべてのブラジル人を引きつけるような問題を暗に言及していた。彼の永遠の問いは、「いつわが弟は帰ってくるのか」というもので、これはブラジルの主要な歌手たちのひとりであるエリス・ヘジーナの歌の中でも言及され、ついにベチンニョは1979年亡命から帰国することになったのである。

彼は帰国し、ブラジル社会経済分析研究所(IBASE)を創設し、彼の分析能力と彼の新しい道具--パーソナルコンピュータ--を社会運動に提供した。このパーソナルコンピュータはこの時期までは国家や大企業しか得られないようなツールを小さなグループに提供することを可能にした。

統計を見れば土地分配がブラジルの貧しい者たちの最大の問題であることがわかる。この問題は都市の貧困によってさらに悪化し、横暴な資本主義によって環境の汚染と社会的な分離をもたらしていた。ベチンニョは「新しい役者たち」といっしょに活動した。ストリートチルドレン、女性運動、アフリカ系ブラジル人、草の根グループ、新しい労働組合と。しかし、彼は決して自立性を失うことなく、自分の支持者であれ批判する能力を欠くようにはならなかった。それは彼が病院労働者たちによるストライキが必要な医療配慮ないまま患者を死を迎えるまで放置することになるということで公然と批判したことにもあらわれている。

AIDS

1984年、ベチンニョはHIV陽性と診察された。彼は「私はエイズを受けた。私はエイズと共に生きる」と宣言した最初のブラジル人となった。彼は新しいこの挑戦に挑み、彼が知っているベストな方法で扱った、つまり、国によるエイズ患者への差別的な政策を変更させるためのキャンペーンを組織したし、また、彼はフィデル・カストロ宛に強い調子でキューバのエイズ政策を批判する公開書簡を送りもしたのである。
ベチンニョは「エイズの治療法が見つかった日」というビデオ作品を作ることを思いついた。そのビデオの中でベチンニョはエイズ患者の日々の薬の処方のために薬を売る薬剤師の役に扮していた。ベチンニョのアイデアは夢の薬の幻想を作ることではなく、糖尿病や他の慢性病と同様にエイズは人々が生きていく1つの条件であり、決して恥辱的なことでもなく、現代のハンセン病だということを示すことであった。彼の二人の兄弟の死につきまとった苦痛に恐怖して、ベチンニョは彼のカトリックの友人たちや組織に対して安楽死を擁護するという大胆な行動にも出たのである。

「土地と民主主義」

ブラジルが1992年に地球サミットをホストする準備をする時に、ベチンニョは環境問題と社会問題と政治問題のリンクを統合した。「農地改革」という旗を一握りのノスタルジックな年老いた左翼活動家以外の人は忘れ去っているような国において、彼はポップスターや芸術家、劇や映画の俳優を参加させ、信じられないようなキャンペーンを組織したのだ。

この土地と民主主義のための運動は政治における倫理キャンペーンを生み、このキャンペーンが飢餓に対決するキャンペーンにつながった。社会運動の力はひじょうに体のもろい人の力で解放された。
イタマー・フランコ大統領は1995年彼をノーベル平和賞に推薦したが、その時に爆弾がはじけた。彼の名前は警察が入手した「ジョーゴ・ド・ビッショ」とよばれるリオデジャネイロで大衆的だが非合法なくじを売っているマフィアからお金を受けた政治家とジャーナリストの名前のリストに載っていた。リストに載った政治家たちが事態が静まるまでじっと籠もっていたのに対して、ベチンニョはテレビに出て、ブラジル反エイズイニシアティブ連盟のために彼がこの団体の代表を務めていた間に5万ドルの寄付を受け取ったことを認めた。この寄付がなければこの団体は存在しなくなっていたのだが。「私は善悪を超越しているわけではない、このお金を受け取るかどうか他の人たちに相談するべきだった」と認めたのだった。

ノーベル賞は他の候補に行ってしまったが、リオの人々はベチンニョに彼ら独自の敬意を与えた。ある「エスコーラ・ジ・サンバ」(サンバチーム)が彼の人生を現代のドンキホーテとして描き、彼と共に道をパレードしたのである。白い衣装に身を包み、貧しいみなりの踊り手に囲まれながら。

ベチンニョはカーニバルの疲れも癒えないうちに次のイニシアティブを開始し始めた。飢餓と対決するには十分でなかった。雇用を作り出さなければならなかったからだ。私営企業も公営企業も彼らの証券保持者のためだけに株価を上げていればいいというのではなく、社会を構成する一員として社会的なバランスシートを発行すべきである、と。ガゼータ・メルカンチルというブラジルを代表する経済紙や他のさまざまの産業業界団体や商工会議所がこのイニシアティブに参加した。

90年代に新しいAIDS治療薬が現れた時、ベチンニョはすでに14年間もこの状態で生きてきていた。しかし、このあたらしいカクテルのおかげで彼の生命を無限に長くのばせるという期待は妨害されてしまった。血液銀行のミスによって、彼は肝炎を煩ってしまったのだ。そのため、彼は3重のカクテルを飲まなくてはならなくなった。彼は自宅で彼の家族や友人に囲まれ亡くなったが、彼らが彼の闘いを続けている。なぜなら彼の闘いは結局、生きることへの闘いであり、生きることが生きるに値するものであることをめざす闘いであり、それ以外のものでないからだ。

By Roberto Bissio

Roberto Bissio はウルグアイのThird World Institute (ITeM)の代表です。彼はメキシコでのベチンニョの亡命生活時代にベチンニョとベチンニョの妻であるマリア・ナカノと同じ家で過ごしました。この記事は1997年12月にITeMによって出版された『南からの雑誌』'Revista del Sur' No. 74 の追悼特集に掲載されたものです。

 

IDRC This work is carried out thanks to a grant from International Development Research Centre (IDRC), Canada.

The APC Betinho Communications Prize is an initiative of the Association for Progressive Communications (APC) © 1999-2000

 

 

 

 

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