宮古諸島や八重山諸島・沖縄島の北部ではどうだったんだろうね。 |
|
| 【宮古諸島の沖縄戦】平和の礎刻銘数:3245名 1995時点 特徴:米軍の上陸がなく、地上戦はなかった。連日の空爆を受け補給路は絶たれ、畑仕事も出来ず、深刻な食糧不足とマラリアのまんえんで多くの死者が出た。イギリスの太平洋艦隊も攻撃した。 当時の宮古の人口は5万人。そこへ3万人余の日本軍が移駐してきた。 那覇が10・10空襲を受けた同じ日、宮古も空襲を受ける。これは宮古島に3つの飛行場と6つの滑走路が日本軍により作られており、それを破壊する為に、空爆を行なったらしい。おかげで平良の市街地はほとんどが焼け野が原になった。 |
|
| 【八重山諸島の沖縄戦】平和の礎刻銘数:6109名 1995時点 特徴:米軍の上陸はない。石垣島に特攻隊の飛行場があったため連日の空爆を受けることになる。「軍命」によるマラリア有病地域へ強制非難させられ、多くの死者を出した。(戦争マラリア) 1943年頃の八重山には戦争の防備施設はほとんどなかった。そのため、日本軍の大本営は1944年あわてて軍備強化を図る。 住民は飛行場建設などに駆り出され、農作業する暇もなく、食糧は当然無くなった。
参考資料:南山舎 シリーズ八重山に立つ 八重山の戦争 大田静男著 |
|
| 【山原(本島北部)の沖縄戦】平和の礎刻銘数:21830名1995時点 特徴:山中での食糧難と敗残兵などの虐殺が起こる。伊江島ではタッチューと呼ばれる山の形が変わるほどの空爆が行なわれる。
住民や避難民は米軍が上陸した後は、山中に避難し、野草を食べて暮らしていた。 |
|
| 【沖縄戦の縮図・伊江島】 伊江島は島の中心にタッチューと呼ばれる山がある。この山の麓に日本軍が陣地を作り立てこもったため、山の形が変わるほどの猛攻を受けた。 伊江島でも日本軍は住民を動員して飛行場を作った。が、米軍に利用されてはいけないと、自ら爆破したらしい。・・・おかげで住民はパニックになった。もちろん、米軍はすぐ修理して利用するのだが・・・ 1945年3月米軍の空爆が始まる。1500人の住民が犠牲になった。中には防衛隊の持っていた爆雷で集団死(集団自決)した人々もいるという。逆に1000人もの人が生き長らえたニヤティヤガマもある。 米軍は生き残った住民を慶良間へ収容し、人のいぬ間に巨大な米軍基地を作った。いまだに多くの土地が米軍基地である。ぼおの話 公民館の横に今も残る公益質屋の弾痕跡⇒ ペンキで焼けた跡がわかりにくくなってるの。残念! |
|
昔、インドに旅行したとき、沖縄出身だというと |
|