戦争中に沖縄各地域で起こったこと

【宮古諸島の沖縄戦】

平和の礎刻銘数:3245名 (1995時点)

 

【特徴】米軍の上陸がなく、地上戦はなかった。

連日の空爆を受け補給路は絶たれ、畑仕事も出来ず、

深刻な食糧不足マラリアのまんえんで多くの死者が出た。

イギリスの太平洋艦隊も攻撃した。

 

当時の宮古の人口は5万人。

そこへ3万人余の日本軍が移駐してきた。

ほとんどの青年・壮年の男性は兵役に徴用され、老人やこども・婦女子のみが残っていた。

 

しかし、日本軍は学校・公共施設・民家などを無理やり接収し、食糧などを供出させ、食糧確保のため、住民を台湾や九州へ疎開させた。

が、すでに海も空も米軍の手中にあり、疎開船は撃沈され、多くの人々は海に消えた。

(栄丸遭難事件はまだ、補償されていない)

 

那覇が10・10空襲を受けた同じ日、宮古も空襲を受けた。

これは宮古島に3つの飛行場と6つの滑走路が日本軍により作られており、それを破壊する為に、空爆を行なったらしい。

 

平良の市街地はほとんどが焼け野が原になった。

海空の輸送路を絶たれ、孤立無援の孤島となった宮古島は武器弾薬はおろか、食糧の補給もなく、空爆のせいで畑も焼かれ飢餓状態に陥った。

 

栄養不足で不衛生な生活はマラリアをまんえんさせ、戦火による死者よりも、餓死者とマラリアでの犠牲者が多い。

 

敗戦の連絡は8月16日には届いていたらしいぞ。

 

【八重山諸島の沖縄戦】

平和の礎刻銘数:6109名 (1995時点)

 

【特徴】米軍の上陸はない。

 

石垣島に特攻隊の飛行場があったため、連日の空爆を受ける。

「軍命」によるマラリア有病地域へ強制非難させられ、多くの死者を出した。(戦争マラリア

 

1943年頃の八重山には戦争の防備施設はほとんどなかった。そのため、日本軍の大本営は1944年あわてて軍備強化を図る。

 

6月、石垣に向かっていた兵隊4600人を乗せた富山丸が徳之島沖で米軍の魚雷を受けて沈没。4000人が亡くなった。

 

 

当時の八重山の人口3万2000人のところへ、軍隊1万300人を派遣。

あまりに急な軍隊の派遣に民家や学校などを取り上げて兵舎とした。(軍民雑居)

 

石垣島を空爆にきた米兵が攻撃を受けて不時着した。捕虜となった3人の米兵は

生きたまま柱にくくりつけられ、「訓練」と称し多数の日本兵に銃剣で刺殺された。

戦後明らかになったこの事件はGHQの横浜裁判で責任者以下7人が絞首刑になっている。(石垣島事件)

 

 

住民は飛行場建設などに駆り出され、農作業する暇もなく、食糧は当然無くなった。

 

7月、米軍が攻撃目標を日本本土にかえたが、日本兵士は、住民の食糧争奪を繰り返した。

 

8月17日には敗戦の連絡が来たが、「上級司令部から命令あるまで臨戦態勢を維持」し続けた。

 

8月25日に武装解除。生き残った兵隊約9000人。

 

 

 

 

参考資料:南山舎 シリーズ八重山に立つ 八重山の戦争 大田静男著

波照間島の戦争

波照間(ハテルマ)島は、南の島にしては珍しく、風土病マラリアのほとんどない島であった。

 

1945年日本軍の軍曹山下虎雄(偽名)が学校の先生を装い、波照間島に赴任してきた。

山下は陸軍中野学校の出身である。学校といっても、陸軍中野学校は実は参謀本部軍事調査部で、後方特殊勤務要員(よーするにスパイ)の養成学校である。

 

彼は、フツーの学校の教員のフリをして、しばらく過ごし、3月に住民に西表島への退去命令を出す。

 

当時の西表島は風土病のマラリアが猛威をふるう島だった。

 

村長を始め、住民が「マラリアが怖くて西表へは行けない」というと、彼は豹変し、日本刀を抜刀し、住民を脅した。「命令にそむき、西表に疎開しない者は切る!」

 

山下の強圧的な西表島疎開は始まった。

住民は波照間島が見える対岸の南風見という地区に疎開した。

 

マラリアを媒介するハマダラ蚊の活動期となり、7月には50人以上がマラリアで死亡した。

 

戦後・・・・やっと、波照間島に帰島できた住民だったが、畑は荒れ、食糧は無く・・・

 

しかも、マラリアの恐怖は島に戻ってから本格化した。住民の93%がマラリアに罹患していた。当時の人口の32.3%がマラリアで亡くなった。

沖縄戦争の縮図・伊江島

伊江島は島の中心にタッチューと呼ばれる山がある。

この山の麓に日本軍が陣地を作り立てこもったため、山の形が変わるほどの米軍の猛攻を受けた。

 

日本軍は伊江島でも住民を動員して飛行場を作った。

が、米軍に利用されてはいけないと、自ら爆破したらしい。

 

・・・おかげで住民はパニックになった。もちろん、米軍はすぐ修理して利用するのだが・・・

 

1945年3月米軍の空爆が始まる。

1500人の住民が犠牲になった。

 

中には防衛隊の持っていた爆雷で集団死(集団自決)した人々もいるという。

逆に1000人もの人が生き長らえたニヤティヤガマもある。

 

米軍は生き残った住民を慶良間へ収容し、人のいぬ間に巨大な米軍基地を作った。

いまだに多くの土地が米軍基地である。

 

伊江島の公民館の横には「今も残る公益質屋の弾痕跡」がある。

砲弾で空いた穴。焼け焦げた壁・・(ペンキ塗られているのでわかりにくいけど)

 

伊江島に来た時には、ニヤティヤガマと公益質屋は必見だ!!

 

【戦争マラリア】

病名:マラリア 

蚊が人の血を吸うときに、蚊の体内にいたマラリア原虫が人体へ入って起こる病気。

発病すると、周期的な発熱・貧血・脾臓の腫れをおこし、臓器で合併症を併発してショック死する。暑い国(南洋など)には現在もある病気。

 

しかーし!戦争マラリアはチョト違う。

もともと、マラリアの少ない地域に生活していた人々が、日本軍の軍命により

強制的に「マラリア有病地帯」へ疎開させられ

その結果、マラリアが爆発的にまんえんした。

 

これは、「マラリアを流行させ、死者を多く出したのは日本軍の政策による。」

と、言えるんじゃないかな?

 

死者3647名。

【山原(本島北部)の沖縄戦】

平和の礎刻銘数:21830名(1995時点)

 

【特徴】本島各地からの疎開した人々が山中での食糧難に苦しむ。敗残兵などの虐殺も起こる。

 

山がちで農地の少ない山原(ヤンバル=本島北部をさす)に中南部より約3万人が疎開してきた。人々は自分の家や農地を避難民のために供出していた。

 

住民や避難民は米軍が上陸した後は、山中に避難し、野草を食べて暮らしていた。

 

日本軍の敗残兵が住民の食糧を奪ったり、与論島へ脱出(脱走)するためにサバニ(クリ舟)を奪ったりした。

 

住民の中には、日本兵にスパイ容疑をかけられ拷問を受けたり、殺された人もいるという。飢餓と日本軍・そしてマラリアに苦しんだ沖縄戦であった。

 

 

戦時沈没船問題・集団死問題は別のページで取り上げます。

作成者のドウチュイムニー

戦争って、兵隊同士の戦争や爆弾攻撃だけじゃないんだね。

しかも、沖縄を攻撃したのはアメリカだけじゃない。

 

昔、インドに旅行したとき、沖縄出身だというと

「お前はリュウキュウから来たのか?ワシは戦争中にリュウキュウへ行っていたゾ!

リュウキュウでの攻撃はひどかった。今は街は復興したか?かわいそうなことをした・・」

と、沖縄戦の話をしてくれたテーラーのおじいさんがいた。

あの時はなぜ、インド人で沖縄戦に??と不思議だったけど、イギリス軍だったんだね。

 

私の母もヤンバルへ疎開していたよ。食べ物なくてとっても困ったらしいよ。

赤ん坊や老人が餓死するのがとても辛かったって話してくれました。

都会(那覇)育ちの母は、シーンとした山の中に息を殺して隠れていたって。静けさを破るのはカンポー(艦砲・爆弾)射撃の音だけだったのでかえって、その静けさが怖かったのだろうね。

 

また、近所のおじいは本部近郊で起こった日本軍による住民の虐殺を目撃したそうです。

海辺に連れて行かれて、殺されていたって。