沖縄で聞いた忘れられない話

なまん戦場どうやる。(今も戦場だよ)

ワシは昭和8年に北谷の砂辺で生まれた。

子供の頃はのう・・・北谷の海は白い砂浜で、海にもぐれば色とりどりの魚が採れて、食べ物に困るという事はなかった。

集落のまわりには森があり、台風などから家々を守っておった。

自然と共生しているとても美しいところだったんだよ。

 

ところが、戦争がすべてを変えた。

 

ワシの祖父は米軍機に銃撃されて死んだ。

ワシは両親ともはぐれてのう・・親戚のいる屋嘉の収容所に身を寄せた。

石川の収容所で親と再会し、3年目にやっと北谷に戻ってこれた。

 

戻ってきたといっても・・・

北谷は北谷でも、戦前はだーれも住んでいない山のところに・・・だった。

桃原・謝刈という地区にみんな押し込められたんじゃ。

みんなひしめくように住んでいたよ。

 

ようやく故郷砂辺に戻って来たのは、戦争が終わって11年も経っていた。

昔の面影はまったくない。美しい集落は無く、地形まで変わっていた。

 

嘉手納基地が建設されて、多くの家がそのフェンスの中に飲み込まれていた。

毎日戦闘機が爆音をたてて飛び交う、ひどい街になってしまっていた。

 

沖縄戦がやっと終わったのに、今度はベトナム戦争。

米軍は夜明け前から深夜まで訓練をする。

戦闘機のジェットエンジンの音は内臓をしめつけ、引きちぎるような音なんだよ。

家の中にいても、窓や屋根が震える。その振動が地震のよう。

 

米軍の戦闘機は数機で編成を組んで練習するから、

一機飛べば、その次・次・次!!!と続けて飛び立つ。

その間、ずーっと爆音が振ってくるんじゃ。

 

こんなところで、安心して暮らせるか?

寝ている赤ん坊は轟音にびっくりしてひきつけおこすし、

TVやラジオは当然ジャラジャラーする。

 

電話の声は聞えないし、学校の授業だって、先生が喉かれるほど大声だしても聞えない。

勉強する気にもならないさーなー。

 

 

日本に復帰したら、まともに暮らせると思っていたのに・・・

嘉手納基地は変わらず、爆音はさらにひどくなったよ。

最近もモットひどい。イラク攻撃のせいかね。

 

うるささに耐えかねて、200世帯に近い人々がココを出て行った。

 

子供の姿が街から減り、区民運動会もできなくなった。

 

防音工事?ありゃ、意味ないよ。

窓枠だけ変えたって、音というのは天井や壁を通して伝わるんだ。

だから、ほとんど変わらない。

 

しかも、工事してもらえるのは少しの部屋だけ。他の部屋はウヌマーマー。

全体を工事しないと意味ないさー。

 

しかもよ〜、エアコンついても電気代が高くなるだけ。

年寄りにはエアコンは毒だしね。うれーちゃーすが・・・

 

知り合いのアルミサッシ屋が言っていたけどさ、

「防音サッシは規格があって、数ないし、防音効果も疑問なんだよね。

使いにくいはずだから、やらないほうが良いよ。」だって。防音工事業者なんだけどね。

 

こんな意味ないのー、してから、防衛施設局は「工事してあげたんだから、我慢しれ!」みたいな

ヒジュルーな返答しかしない。本当をわかっていない。

 

 

 

これが沖縄さ〜。今も戦場やんどー

 

すーぎきー(盗み聞き)した話

すーぎきー(盗み聞き)というと聞えが悪いが、単にロウカのベンチに座っていたら聞えてきた話である。

 

新嘉手納爆音訴訟:嘉手納基地周辺に住む住民が深夜・早朝の飛行を差止を求め起こした裁判である。

その裁判に出席していたが、途中体調悪くなり、廊下で休んでいた。

と、男性の声がしてきた。

新嘉手納爆音訴訟の原告人が二人でタバコ・タイムしていた。

 

「私はね、大家族だったんですよ。農業は家族多いほうが楽ですよね。

大家族で毎日楽しく暮らしておったんです。

 

ところが・・・沖縄戦では家族バラバラになって逃げまどったんですよ。

オヤジやオジは兵隊に取られ、子供たちと祖母・母で逃げたんです。

 

戦争でやっとかっと生き残って、収容所で苦しい思いして・・・

ようやく家に戻ってみたら、米軍基地になっとるんです。フェンスに囲まれて・・

仕方ないので、借金して別の場所に土地を購入して

生き残ったみんなで新しい生活を始めました。

畑あるいて(農業をする)おったんです。

 

そうしたらですよ、また、「銃剣とブルドーザー」で土地を取られてね・・・米軍に・・・

 

こんなする米軍基地を許せないから土地の契約を拒否したいですよ。

でも、土地は取られ野菜できないから収入はない。借金はある。生活できない。

どうにもならなくて契約しても、スズメの涙ほどの土地代。

 

ちいさい妹や弟を里子に出してね、口ヘラシですよ。

長男の私だけが家に残って・・・家族は離れ離れになりました。

 

私は爆音の被害だけじゃない、一緒に暮らせなくなった家族の苦しみも補償して欲しい。

米軍基地さえなければ、ワッター家族は一緒だったんです。

この苦痛をニホンはわかっていない。とても悔しいよ・・・

 

KHさん

小柄な身体に豪快な人柄で親しまれたKHさん。彼と居酒屋でイッパイやっていたとき、

いきなりこんな話を始めた。

 

(酔っ払っているので、そんな感じで読んでね)

「わしはねえ、ええ、こんなになっても忘れられん事がある。

後悔しとんじゃ。どうなったかのお・・・・」

 

KHさんは青春時代は戦争で潰された。戦争が終わってから、彼は沖縄本島中を歩き回る。

 

「なーんで、沖縄中を歩いたと思う?拾ってくるのさ。子供を・・・

いろんなとこ歩くとな、子供がおるんじゃ。

はだしでの。ボロボロきての。髪にはシラミがわいて、やせこけての」

 

泡盛片手にヒラヤーチーをぱくり。

 

「土管の中やガマ(壕)や墓など雨露しのげるところに行くと、かならずおる。

そういう子供を拾ってくるんじゃ。」

 

彼は当時、戦争で親とはぐれたり・親を失ったりしている子供達を世話をする施設で働いていた。

 

「ケガをしておるのもおる。栄養失調もおる。ほとんどがどこか悪い。

戦争生き抜いても食糧事情が悪くて、栄養失調で死ぬ人が多かった。

でも、一番かわいそうなのは、マブイ落としているわけよ。」

 

マブイとは魂。心・・・精神・・・ま、そんなもんだ。それを落としている。

つまり、精神状態が普通ではない。

 

「赤ん坊はまだええ、まだましじゃ。

知恵つく年頃はなあ、親が爆弾でバンミカサレル(砲撃でやられる)のを見ているわけよ。

ショックで口がきけん子も多かった。記憶を無くしていたり・・・

かろうじて生きておるだけ・・・そんな子が多かった。」

 

沖縄に精神障害を持った人々が多い原因のひとつに沖縄戦があげられている。

十分なケアができぬままに大人になってしまったのだろう。

 

「自分の名前を言えない子にはこちら(施設)で名前をつける。

例えば、安里で拾った子は安里カメ子=安里でカメーた(拾った)子さ!

・・・・だから後悔しておる。安直に名前をつけてしまったと・・・」

 

あまりにも孤児の数が多すぎ・戦後の混乱で調査など丁寧な対応ができなかったらしい。

 

「あの子たちにも親が一生懸命考えてつけた名前があったはず。

家族に愛されて育った証の名前がな・・・」

 

拾ってきた子供達の顔が浮かぶのだという。もう立派な大人のはずだ。

 

「戦争に温かい家族との生活を奪われ、名前すら違うの付けられて・・・

本当の親がわからん、自分って誰だろうと悩む。

人生狂ったと思わんか?

ワシはその子たちのルーツをわからなくしたんじゃなかろうか。

違う名前で呼んだことで・・だから後悔しておる・・・」

 

名前=親の愛情・自分のルーツ。

戦争は生活基盤・生命を奪うだけではないのだ。

 

 

生き残った人々が必死になって再生させた社会にも後悔がつきまとう。

「もっとどうにかできたはず・他にも方法が・・ああすれば良かった」

体験者から必ずこぼれる言葉。

彼らはなにも悪くないのに・・・悪いのは戦争!

 

暑い季節になると、KHさんを思い出す。

天国でもきっと平和のためにがんばっているんだろうなあ。

アナタから新しい名前(ルーツ)をもらった人たちも新しい人生を歩いているよ。

見守っててくださいね。(^^)

 

 

 

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