あやー(現在80代の女性)
あやー (現在80代)
私の大好きな「あやー(沖縄口で母のこと)」は、いつも笑顔を絶やさない老婦人である。
彼女は戦前、裕福な造り酒屋のご令嬢として生まれ、首里城を遊び場に育った、いわゆるセレブな女性である。
彼女は戦前・戦後を生き抜き、現在に至る。
話してくれた彼女の人生を紹介する。
【あやーの幼き日々】
今から80年ほど前のこと。
あやーの朝はクルザーター(黒砂糖)のミークファヤー(おめざ)から始まる。
(彼女の生家は大きな「造り酒屋」だ)
使用人がお茶とミークファヤーを持ってくる。
ふとんから出て、その黒砂糖をチュクチグワー(少し)口に含む。
甘い香りと優しい味で、すがすがしい目覚めだったそうだ。
洋服に着替えたあやーは、祖母を起こしに向かう。
祖母はと〜っくに起きているのだが、
白絹カラジ(白髪)をきれいにカンプーにゆい、着物も着なおして
また、ふとんに入って 孫が起こしに来るのをまっている。
「ウウキミシェービティー ウフンミー(ひいおばあ様、お起きになった?)」
「イー(はい) メーナチ ニフェードー(毎日ありがとうね)」
優しく髪をなでてくれる曾祖母が大好きだったそうだ。
朝食の後は戦前の首里城近郊で遊ぶ。
当時は首里王家の家族や門番達にもよくしてもらったという。
赤田の造り酒屋の家にはたくさんの甕が庭に埋められ、クース(古酒)がぎっしりとシコマレテいたそうだ。
泡盛は仕継ぎの酒なので、何百・何千という甕で育てる。
そのため家の敷地はものすごく広い。
麹を蒸す場所・下人の宿舎・ブタやヤギの飼育小屋・・・
かくれんぼをすると、(広すぎて)ぜったい見つからないので、
あまりおもしろくなかったそうだ。
【女学校時代】
多くの人々が学校へ通えない時代でも彼女は女学校へ通っていた。
あやーは当時のセレブなので、実は戦前の写真が残っている。
ワンピースドレスに身をつつみ、友人と観光地でにこやかに写っている。美しい。
当事は首里金城の石畳から、西原の方までずっと道が続いていたそうだ。
おそらく石畳だったはず・・・と言う。
緑と青空、そして花々に囲まれて、その道を友人とおしゃべりしながら
歩いたそうだ。とても美しい風景だったという。
女学校に入ってからは主に和裁・洋裁・調理などなど
よき母になるための勉強をしていた。
運動会には家族が集まり、にぎやかに楽しめたという。
そこに戦争の陰が忍び寄る。
南洋で戦争の報道が多くなった頃、学校は変わった。
毎朝、天皇の写真を飾った奉安殿に直立不動でお祈りをする。
体育はテニスから竹やり訓練に。
遠足は足腰を鍛える行軍に。
家庭科は日本軍のための炊き出し。
大好きな音楽の授業は無くなった。
作りかけの着物をほったらかし、「壕」を掘らされる。
包帯の巻き方をならう。薬の種類を学ぶ。
普通の女学校ではありえない授業ばかりになっていく。
学校だけでなく、街の中いたるところに戦争の話があふれていた。
でも、彼女は「兵隊さんは私たちを守ってくれるから」と信じ
なんの疑問もなく、尽くしていたという。
昭和10年を過ぎてくると、日本は戦時色だらけ。
まず、酒が造れなくなった。
泡盛は「タイ米」から作る。戦争で「輸入」ができなくなったのだ。
酒が作れなくなって、大家族で生活は困窮。
使用人たちはヒマを出され、兄たちは働きに出た。
代々続いた酒屋を閉めるあやーの両親の心痛はいかほどだったか。
次に屋敷のあちこちに「日本兵が駐留」するようになった。
ただでさえ苦しい生活なのに、日本兵はタダで屋敷に住まい・タダで食糧を食べる。
甕やタンク・金属類は勝手に持っていく。換金して遊んでいるらしい。
こんな異常なことをされても、
軍国教育を受けている彼女には「お国のため」責める気はなかった。
【あやーの青春】
女学校を卒業した彼女は、東京に勤める男性と結婚することにした。
彼は同じ首里の名家の出身で、優しい人とのウワサである。
しかし、家族の猛反対にあった。
結婚を・・・ではなく、東京へ行くことを・・・
当時、沖縄から東京へは船で1週間はかからないくらい。
ところが、当時は米戦艦から隠れて進むため何倍も日数がかかった。
昼間は岩陰に船をひそめ、船底に人々は隠れて過ごした。夜に月明かりの中を
ライトもつけずにひた走ったらしい。米軍に見つからぬように。
また、東京が受けた大空襲は沖縄にまで知れ渡っていた。
「やめなさい!結婚なんて!東京に着く前に攻撃されて、海に沈むわ!」
「アメリカーが真っ黒い船でバンみかすってよ〜、ウカーサンドオ(危ないよ)!」
「ここは友軍が守ってくれる。東京はメーナチ空爆。絶対死ぬよ。ウチナーがましるやる」
みんなの心配はわかるが、彼女の結婚の意志は固く、死を覚悟して上京した。
両親・祖父母・親戚・友人・・みんな、「彼女が」無事であるようにと涙で祈り見送った。
何とか無事に東京へついた。実に一ヶ月以上の時間がかかった。
両親へ手紙を書く。
「私は無事に東京へ着きました。」
東京は本当に毎日が空襲だった。
家の裏庭に穴を掘り、畳でフタをして防空壕にした。
警報がなると防空壕へ飛び込み、いつヒットするかわからない爆弾におびえる日々が続く。
やがて子どもを授かったが、空爆は続いていた。
緊張と不自由と空腹の続く防空壕の中で、彼女は女の子を産んだ。
そして、すぐ沖縄へ手紙を書いた。
「戦争が終わったら、沖縄へ帰ります。かわいい赤ちゃんと一緒に。
楽しみにしていてください。」
そして・・・終戦・・・
終戦・天皇の敗戦声明がラジオからながれたらしい。
うれしい!生きている!
日本全国民が苦しみから解放された瞬間だった。
沖縄の家族に会える!!!
【沖縄へ帰ってきた】
あやーが沖縄に帰ってこれたのは2年後だった。
なぜか。米軍が統括する沖縄は、出身者であろうと、当時、入島を拒否されたのだ。
手紙のやりとりもできなかった。完全隔離状態だ。
何度も米軍(進駐軍らしい)にかけ合い、沖縄へ帰りたいと懇願する。
パスポート(許可)が出たのは2年も経ってからだった。
あやーの家族の消息は不明。
娘の誕生を知らせたあの手紙は無事届いたのだろうか。
わからない。
手紙を読んだはずの人々が見つからないのだ。
首里の実家へ急いだ。
遊んだ首里城も、思い出深い自分の屋敷も酒造工場も、みな破壊されていた。
たくさんの知らない人が残った瓦礫を拾いバラック家を建てて住んでいた。
那覇や小禄で米軍による土地接収があり、追い出された人々が
家人のいなくなったあやーの家の敷地を勝手に「自分の住宅」に変えていた。
家族の手がかりを探す。
生き残った知り合いを探し出し、家族の消息を聞く。
おそらく日本軍と一緒に南へ向かったのだろう、と言われた。
どこで果てたか、場所すらわからない。
はっきりしたのは、帰省した彼女を迎える家族は誰もいないということだった。
大家族を失って、たったひとり生き残った彼女にはあまりにも残酷な戦争だった。
お墓は崩れながらも残っていた。
しかし、やはり知らんちゅが住んでいた。
「せめて、お墓だけは・・・家族の骨が見つかったら、一緒に入れたい」
お願いしてお墓に住んでいた人には引越ししてもらった。
【生き残った苦悩】
沖縄の人々は先祖代々受け継ぐ土地(家屋敷)をとても大切にする。
その大切な土地に・・・
その土地に、見知らぬ人々が家を建てて住んでいる。
「せめて思い出のある家だけでも・・・」再建したかった。
しかし、あやーが受け継ぐ土地である権利書までが燃えていた。
首里の役場の書類まですべて焼き尽くされていた。
裁判おこせば証言により所有者である証明は可能であり、
土地を取り戻すことはできるが・・・。
彼女の夫も同じく、親族一同・家屋敷すべてを沖縄戦で壊されていた。
屋敷跡にはやはり「他人」が許可なく住んでいる。
裁判を起こして権利の回復をし、代々続く屋敷を守ろうと何度も考えた。
断腸の思いで、夫が言った。
「土地を知らぬ間に奪われた形ではあるが、土地を取り戻すための裁判はやめよう。
勝手に住んでいる人も戦争の犠牲者だ。家を失ったからここにいる。
裁判で争って取り戻したら、また路頭に迷い苦しむ。
自分たちには幸い、東京に住める部屋があるじゃないか」
自分の苦しみの中でも人を思いやれる夫の優しさにうなずいた。
裁判は起こさなかった。
【残された者のやれること】
彼女は墓とトートーメー(仏壇)を人に頼んで見てもらい、毎年拝みに沖縄へ帰ってくるようになった。
「沖縄に帰ってくると、不思議ね、60年以上も前のことなのにまるで昨日のように思い出すのよ」
曾祖母・両親・首里城での遊び・西原まで歩いたピクニック・・次々と語る。
現在、80歳を超えているとは思えないほど、元気でおしゃべりでよく笑う。
そんな明るいあやーでも戦後何年経っても乗り越えられない苦悩があった。
ひとつは叔母のこと。
京都に嫁いでいた叔母は沖縄が戦争に巻き込まれる直前に沖縄に帰省していたらしい。
その後どうなったかわからない。
当事、沖縄にいた証拠が見つからないため、沖縄戦での死亡が認められない。
戦後半世紀以上経っている。どうしたものか・・・
・・・・京都の役所で叔母が京都に住んでいたこと、沖縄出身であること、
沖縄に一時帰省していたらしいという証言、沖縄戦の後から消息がわからない事などなど
探し出してやっと沖縄戦の犠牲者と認められた。
「平和の礎」に刻銘。
「これで私以外の家族みんな、平和の礎で一緒に暮らせるわ」
泣き顔のような笑顔であやーは笑った。
苦悩のもうひとつは「子供達に両親・親戚のことなどを話していないこと。」
話せないのだ。
話をすれば、戦争の話になる。見つからぬ遺骨・わからぬ最期。
沖縄戦で亡くなったとおおまかに説明できても、
どんな人だったか、いかに優しかったか、いかに愛されていたか、話せない。
話すうちに涙が込み上げ、言葉にならなくなる。
「このままではいけない。私が死んだらウヤファーフジ(先祖)のことを伝える人がいなくなる」
何度も話そうとした。しかし、泣き出してしまうあやーを見て
子供達のほうが「辛いのなら話さなくて良いよ・・・」と気を使って聞こうとしない。
60年経っても、まだまだ乗り越えられぬ苦しみがあやーを痛めつける。
【伝えていく】
あの戦争が無ければ、あやーはどんなに幸せな人生だっただろう。
名家に生まれ、花のように愛されて育った人。
あやーがよく口にする言葉がある。
「私はウヤファーフジみんなに生かされているんです。
戦争で亡くなった両親や友人があなたは私たちの分まで生き抜いてね・・・と、
私の人生をあの世から見守ってくれているの。
だから、不思議と苦しい時もなにか救いの手がさしのべられて・・・ニフェードー。」
辛酸な人生にも、笑顔を絶やさず、常に感謝の気持ちで前向きに生きるあやー。
戦争がなければ、もっともっと笑顔で幸せに暮らせていたはずなのに・・・
本当に戦争は起こしていけないと思う。
みんなの人生が狂ってしまうから。
☆家族に離せない沖縄戦の話を、なぜ、私に話せたかって?
「他人」だからです。血縁がないの。首里言葉教室の生徒だったから。
私にとっては本当の「あやー(母上)」ですけどね。(^^)
あ、私に話した後、少し楽になったといって、防空壕で生まれた娘さんに話せたそうです。
私は戦争を知らない世代ですが、
@聞いて
Aその苦しみを理解し
B他の人にも伝えていきたい
・・・と、思っています。
戦争の現実を知れば、誰もしたくなくなるでしょう。
戦争を将来にわたって無くすことが、
犠牲になったすべての人々への供養になると思っています。
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