花岡現地フィールドワーク


1 第二滝ノ沢ダム(旧中山寮跡)
中山寮
  三次にわたって強制連行された986名の中国人は、中山寮という施設に収容された。劣悪な労働条件、粗末な食べ物、苛酷な拷問が、この中山寮で繰り返され、多くの死者を出し、遺体は裏手の鉢巻山と呼ばれる大山の中腹に穴を掘り埋められた。戦後、GHQによりこの事実が明らかになり、改葬された後の遺骨400箱は信正寺に安置されたが、1950年9月、1963年6月の二回にわたり遺骨の再発掘が行われ、無言の送還を果たした。後に中山寮は取り壊され、鉱滓ダムの底に沈み、鉱山が閉山となった現在も悲惨な歴史を刻んだ寮は湖底に沈んでいる。

 強制連行された中国人は、41,762人で、そのうち収容所から乗船までの間に2,015人が、船内で564人が死亡し、日本に上陸したのは39,183人で、更に国内各事業所に到着するまでに248人が死亡した。移送状況は全く劣悪なものであったと言わざるを得ない。
 鹿島組花岡出張所への中国人強制連行の状況は、第1次(1944年8月8日)299人、第2次(1945年5月5日)589人、第3次(1945年6月4日)98人の合わせて986人であり、途中死亡が7人いた。
 秋田県北部の尾去沢、小坂、花岡の3鉱山に強制連行された中国人は、尾去沢・小坂が合わせて698人、同和花岡鉱業所298人、鹿島花岡出張所986人である。3次にわたって強制連行された986人中、途中死亡者を含めて 1945年6月30日までに、第1次連行299人の内110人、第2次連行589人中23人、第3次連行98人中4人の計137人が死亡し、更に暴行を受けて怪我をし、身動きできない者、栄養不良で動けない者など重症者が寮には50〜60人はいた。
 一斉蜂起後の中国人俘虜の7月の死亡者は100人に及んだ。8月は49人、9月68人、10月51人、更に祖国に帰還できることになった11月でさえ9人が死亡し、その後の5名と合わせて、強制連行された986人中、連行中に7名、一斉蜂起までに130名、敗戦までに116名、敗戦後も165名が死亡している。
死亡した中国人の遺体は小さな木箱に捨てられていた。(1945年10月6日米軍撮影)


2 日中不再戦友好碑

 一鍬奉仕活動で再発掘された遺骨送還の活動を経て、民主的な力を結集した結果として日中不再戦友好碑が、中山寮を見下ろす小高い丘の上に建っている。正面には当時の衆議員議員で中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会副委員長であった黒田寿男氏の筆で「日中不再戦友好碑」と記され、側面には郭松若氏の書になる「発展伝統友誼 反対侵略戦争」という讃が記されている。また、裏面には「日本中国両国心ある人々の援助の下にここに日中不再戦友好碑を建立する。脚下鉱泥青く湛えるダムの底は1944年1945年に日本軍国主義により不法に連行され来つた中国人993名の住まれた中山寮の跡であり言語に絶する虐待に倒れた烈士と1945年6月30日人間と労働と祖国の尊厳を守るため一斉蜂起して日本帝国主義に反抗し遂に壮烈な最後を遂げられた殉難烈士と合わせて418名の遺骸の埋められた跡である。われらは永遠にこの事実を銘記し石に刻して両国人民子々孫々に至るまでの不再戦友好の誓とする。1966年1月中国人俘虜殉難者秋田県慰霊実行委員会」と記されている。


3 滝ノ沢暗渠跡

   これまで、一般的に花岡事件で強制連行された中国人の方々は、七ツ館の落盤による花岡川の改修工事に徴用されたと言われて来た。しかし、株式会社藤田組(現同和鉱業)と鹿島建設株式会社の工事請負契約書を見ると用務内容は「花岡選鉱場建設工事」とあり、その他として鉱滓堆場及び附属工事施工とある。この契約を受け、鹿島は国(厚生大臣)に中国人使役の申し入れを行っており、使役条件として、「築堤」、「排水暗渠」、「山腹水路」作業に合わせて300人を要請している。この工事の工期が、1944年4月から1945年7月。この工事のため、1944年8月8日に299人が第1次強制連行として中山寮に到着した。
 同じ資料では、花岡町大森川改修工事は、1944年11月からであり、花岡川改修工事が第2次以降の強制連行を促進させ、より苛酷な労働を強いられることになったにせよ、当初の目的であったという従来の定説とは異なることを示している。このことは、滝の沢温泉近くにある暗渠跡を訪れた生存者の方々が、当時の労働現場に違いないという証言をしており、その証言を裏付ける資料にもなっている。


4 花岡体育館(旧共楽館跡)

 1945年6月30日夜、10日前から一層の長時間労働が課せられ、このままでは座して死を待つしかないと虐待に耐えかねた中国人は、人間の尊厳を守るため一斉蜂起し、逃走した。しかし、翌日には2万4千人を越す憲兵、警察官、自警団らによって捕らえられ、花岡町の共楽館前の砕石が敷かれた広場にひざまずかされ、3日3晩、飲食物を与えられることもなく拷問を受け、連日30度を越す炎天下の日差しに晒され、100余名が亡くなった。
 共楽館は花岡鉱山の娯楽施設として鉱山の町の中心地に建設された。共楽館前の広場での惨状は大勢の住民が見ていた。しかし、この有様が外に漏れることをおそれた憲兵隊は報道管制を敷き、郵便物の検閲も行ったという。
 共楽館の内部では、繰り返し拷問が行われ、向かい側の警察署でも、首謀者とされた13名の取調べが行われた。この建物は、1979年に解体され、現在は花岡体育館となっており、その跡地であったことを示す碑が残されているのみで、惨劇を見守っていたであろう松の古木も、数年前の火事で1本は焼けていまはない。

 鹿島組からの連絡で大館警察署から秋田県警特高課、検事局、県知事に事件は報告され、動員された8警察署の警察官県警494人、取調員536人、憲兵隊222人、警備隊32人、警防団7,544人、一般民間人13,654、花岡町の民間人748人、鹿島組724人、他の工事関係会社275人の合計24,229人により中国人たちは相次いで捕えられた。昭和17年(1942年)の戦時統制により、新聞は1県1紙に制限されていた。そのため、秋田県では「秋田魁新報」1紙で、朝日新聞、読売報知、毎日新聞が合同で題字に名を連ねていた。花岡事件については、6月30日以降の紙面にも一切登場しない。


5 信正寺(華人死没者追善供養塔)

 死亡した中国人たちの死体の処置は、火葬が大変なので、大きな穴を掘って埋めたままになっており、1945年10月6日、G.H.Qに中山寮の惨状を発見された鹿島は、急いで鉢巻山や大穴の遺体を掘り出しにかかった。G.H.Qは、それを中止させ、自らの立会いで発掘させ、火葬させた。それでもまだ死体が残っていた。埋められていた死体は、アメリカ軍の立ち会いのもと、向かい側の谷にある小高い山(鉢巻山と呼ばれる)や大穴の死体を発掘したものと共に焼いた後、遺骨は、4百余りの木箱に誰の骨と判別することなく分けて入れた。鹿島組はこの4百余りの遺骨を花岡町信正寺に搬入し、住職は遺骨を安置し、供養を続けた。49年には、地元の朝鮮人連盟に属する2名が、中国人の遺骨が散乱しているのを発見、留日華僑民主促進会に連絡した。これを契機に、信正寺蔦谷道師は鹿島に要請し、4百余りの木箱を埋葬し、供養塔を建てさせた。信正寺の住職の納骨堂を建てるようにとの訴えを無視してきた鹿島は、1949年の10月に中華人民共和国が誕生すると、慌てて寺の裏にコンクリート製の「供養塔」を作り、納骨した。
 翌1950年、華僑留日同学会生が花岡を訪れ、地元の民主団体の協力で姥沢の  大穴から遺骨8箱分を発掘し、信正寺に安置。地元の慰霊祭と東京でも全国合同慰霊祭が開催されるが、占領軍の不許可で遺骨引渡しはできなかった。
 1951年、地元で行政と住民による慰霊祭を開催。多くの町民が参加し、次第に理解が拡がり、全国的にも知られるようになってきた。遺骨は、1953年、総評、日本仏教連合会等の国民運動の結果、送還決定した。
 その後、供養塔は50年を超える風雪の中で全面の碑文も読めないほどになったが、建立した鹿島に補償を求める幸存者・遺族は強制連行の劣悪な実態の象徴としての「歴史的な建造物」として保存するよう要望したが、和解が成立した翌年の2001年6月、鹿島の手によって一方的に改修がなされ、元からの供養塔は背後に隠されるように置かれている。


6 十瀬野公園墓地(中国殉難烈士慰霊之碑)



この後、1960年に再度鉢巻山周辺で朽ちた木箱に入った遺体が発見され、1963年6月には9日間にわたり、全国に呼びかけた「一鍬運動」を展開。5百名を越す平和民主団体からの参加者の手で、12箱の遺骨を収拾した。
1963年の一鍬運動による第2次遺骨送還運動を経て、1963年11月に当時の花矢町、鹿島建設、同和鉱業の三者により建立された。日中友好準備会が1950年4月8日に「永久的な供養の記念碑を建設し、日本国民の誠意と陳謝と反省のよすがにすること」と声明を出してから13年目のことだった。
裏面に
『 昭和19年7月から同21年3月までの間に当町において死亡した左の 中国人の霊を供養するために
   昭和38年11月24日建立
 花矢町長 山本 常松
 鹿島建設株式会社
 同和鉱業株式会社秋田鉱業所花岡鉱山部』
と記され、鹿島関係者419名、同和鉱業関係者10名の計429名の殉難者中国人氏名が刻まれている。
現在もその碑の前で大館市主催の慰霊式が毎年挙行されているが、この時も 慰霊祭が行われ、遺骨は無言の帰還を果たした。この地を訪れる遺族にとって、そこに刻まれた名前に触れることで、肉親の亡くなったことを一番実感できる場所となっている。




(資料提供:6.30現地実行委員会)
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