「在日殉難烈士・労工記念館」開館五周年式典(8月18日〜20日)
                               
 8月18日、天津の烈士陵園で「在日殉難烈士・労工記念館」開館五周年式典が行われた。参加者は、幸存者・遺族150名、在日華僑など各界人士40人、天津市関係者20人、それに日本からの支援者が30名ほどの総計240名前後。式典は記念館内で行われた。天津市民政局をはじめ各方面と並んで、中国人強制連行を考える会も花輪を出した。
 天津市人民対外友好協会劉鳳嵩副会長の開会宣言、全員での黙祷に続いて、以下の挨拶があった。
 天津市民政局金海竜副会長、日本社会民主党(党首福島瑞穂さん)を代表して衆議院議員服部良一さん、旅日華僑代表として神戸から来られた旅日華僑建立抗日殉難烈士記念碑委員会代表の黄耀庭さん、台湾友人代表の高金素梅さん(墨面さん代読)、受難者代表として広島・安野の幸存者・邵義誠さん、そして遺族代表として若い王洋洋さんが発言した。
 式典の後、記念館横の「名禄壁」前広場に場所を移して、慰霊追悼活動が行われた。“松花江上”の曲を背景に、旅日華僑の献金によってリニューアルした労工像のお披露目があり、東方文化芸術団」(田偉団長)と先の遺族の王洋洋さんによる追悼演目などが演じられた。
 その後、隣接する草地に移って“花岡暴動烈士紀念園”の鍬入れ式が行われた。赤い式典横断幕の前の赤い敷布の上に、幸存者の李鉄垂さん、遺族の王紅さん、大舘の谷地田さん、そして田中さん、林伯耀さん、服部良一さん、天津市政府関係者らが並んだ。挨拶は天津市人民対外友好協会と花岡平和友好基金管理委員会委員長の田中宏さん。田中さんは、「三項目要求の中で和解の上では明文化できなかった“記念館建設”が大舘の市民による花岡平和記念館として日本で実現されたが、残されていた中国国内における記念館建設に代わるものとなるだろう」と感慨深く語った。
 挨拶の後、それぞれが鍬をもって土入れをした。来年には花岡への強制連行・強制労働と蜂起、遺骨送還、裁判闘争と和解、未来へ向けた想いが込められたレリーフと庭園が完成する予定である。
 午後は、記念館内のホールでシンポジウム。川口弁護士、谷地田さん、服部良一さん、幸存者・遺族発言、猪八戒さんからの問題提起があり、王紅さんが4万人すべての尊厳と公道を取り戻すまで戦い続けようとまとめた。

 この時期、北京の抗日戦争記念館では「第二次大戦期の性暴力犯罪の展示」が開催されている。山西省武郷で開催された展覧会がこうして中国各地で開催されるのはすばらしい。「日本人民はこの犯罪とどう向き合ったのか」という題名がつけられている。こうした過去の戦争犯罪に対する日本人民の態度、活動が少しでも注目されることを期待する。



 塘沽の万人坑記念碑と収容所跡について。天津駅から軽軌に乗って、塘沽駅で降り、新港口の万人坑記念碑に向かう。記念碑は新港一号路と二号路の分岐点の角に立派な碑がある。
 万人坑記念碑と題された下には、1992年8月の天津市塘沽区人民政府による詳細な碑文がある。大略以下。

 “万人坑”は日本侵略者によって虐殺された労工の埋葬地である、死者の姓名不詳、その数は数え切れない。・・・日本は、1943年、労働力不足に陥り、戦争遂行のため恣に労工を捕えて使役した、この為塘沽に収容所を作り、この埠頭から何次も捕まえてきた労工を日本に送った。収容所の検査哨所は東にあり、北には鉄路、南は海河に接する所、長さ約300メートル、幅200メートル。安普請の建物6棟、歩哨に監視された。外は深い堀と電気を通した二重の鉄条網に囲まれ、内は屈強な兵士とセパードが巡回し、あたかも陰鬱で恐ろしいこの世の地獄にも劣るものであった。労工は収容されると囚人服を着せられ、坊主にされて標識を付けられた。食事は人間の食するものではなく、また常に腹を空かし、何かあるとすぐに処罰された。犬畜生にも劣る扱いを受けた。酷暑に水もなく、死ぬ者さえあった。刑罰、餓死、疾病や細菌試験の犠牲者になった者も多い。誰かが亡くならないという日はなかった。死体は、最初は人が担いでいたが、やがて車で運ぶようになり、ここに棄てられた。労工の悲惨さは目を背けるものであった、日本軍の残忍さは書き尽くせない。
 労工は座して死するを望まず、暴動を起こしたが、銃剣にはかなわず、成功することは少なかった。ただ、1944年地下党の劉建民、範自強の組織する暴動が成功し、逃亡した者114人、銃殺された者7人であった。
 はるかに当時を偲ぶに、天は怒り人は怨む。我が同胞は思うままに食い物にされたのである。骨は荒野に晒され、弔う人もなく雑草に埋もれた。天が陰る時、慟哭が聞こえ、朝の霜夕べの雪に埋もれ、魂の帰るところはなかった。長い月日、恨みを誰に訴えようか。幸いにして今日国は強くなった。ここに碑を建て、亡くなった人々の霊を慰める。追悼文を刻み、後世の人に教え諭す。


 ここから、この銘文に記された収容所跡と思われるところは歩いていける。鉄路と海河に挟まれたそこは、開発区の民間企業の敷地になっている。敷地を突き抜けて海河に出ると小さな埠頭がある。かつてここは浮き桟橋であったし、近くにはトーチカもあったという。ここから労工は日本に連行されていったのだ。この万人坑と収容所跡地はぜひ見学されることをお勧めする。
 ここから車で少し行くと、天津港の旅客運搬ターミナルがある。港の小さな遊覧船に乗ると、強制連行された労工たちが帰国した港を海から見ることができる。今はたくさんの貨物船の行き交う天津港であるが、当時はどのような想いで帰ってきたのだろうか。その想いに応えていくのにはまだ多くの課題がある。(K)