秋田・花岡平和記念館開館式典
日本初 加害の現場に歴史刻む


 春の訪れの遅い今年は、桜の蕾はまだ固く、この日も山は雪、里は冷たい小雨であった。一七日の午後、そんな秋田県大館市花岡の地で花岡平和記念館の開館式が行なわれた。式典は地元の秋田杉の香り高い気品のある建物の門前で挙行され、日中両国の関係者約一五〇人が参列した。
 会場傍を流れる花岡川は、かつて中国人たちの強制労働で開削され、この日も雪解けの流水が速い。ここは一九四四年から四五年にかけて、地下の鉱山の坑道への出水事故防止工事で流れを変えた人工河川である。苛酷な労働で多くの犠牲者をだした歴史の現場だ。
 第二次世界大戦中、東条英機内閣は閣議決定で約四万人の中国人を拉致強制連行し、日本国内の一三五の事業所の戦時生産に投入した。当時の岸信介商工大臣は花岡鉱山を激励のため訪問している。ここでは四五年六月までに苛酷な労働条件と鹿島組指導員の拷問のため死者が続出し、労働者は同月三〇日夜半に死中に活を求めて一斉蜂起し、日本人指導員四名と日本側に協力した中国人一名を殺害し逃亡した。しかし日本側は軍、警察、警防団など二万人以上を動員し山狩りを行ない、七月七日までに七九二人を逮捕、地元住民によるリンチまで起こった。
 警察は残虐極まる拷問で証言を引き出し「国防保安法第六条」の「戦時騒擾殺人罪」で告発、秋田裁判所で首謀者とされた一二名に対し、敗戦後の九月一一日になったためか比較的軽い無期懲役から懲役二年の有罪判決を下している。
 米軍が花岡に到着、収容所を発見し生存者が解放されたのは九月二四日。散乱する死体と、餓死寸前の犠牲者の情景が米軍には「日本のアウシュヴィッツ」の印象を与え、直ちに日本側責任者が逮捕され、中国人囚人が釈放されるのと入れ替わりに秋田刑務所に収監された。後にBC級戦犯として四八年の連合軍横浜法廷で、鹿島組と警察官の六名に終身刑などの判決が下されたが、占領終結後、巣鴨から釈放されている。結果として花岡に連行された中国人九八六人の内、四一八人が死亡した。
 いわゆる花岡事件は、日本国内での強制労働では最も死亡率が高いひとつであり、また敗戦前後に二つの裁判が行なわれた唯一の事件であり、したがって記録も多い。記念館にはこれらの経過、また遺骨返還運動、賠償請求裁判と花岡和解にいたる七〇年の長い歴史が、犠牲者の証言と顔写真とともに分かり易く展示されている。
 式典に参加した李鉄垂さん(八七歳)は、蜂起の首謀者の一人として秋田裁判所で懲役六年の判決を受けた。この日、記念館で日本人記者の質問に「一番辛かったのは飢えを抱えながらの冷水の中での一五時間もの作業。警官の拷問はこの絵の通りでした」と涙した。
 展示されている蜂起の後の拷問を巨大な墨絵に描いたのは、北海道の別の鹿島組の事業所で中国人の指導員をした体験のある李さんと同年の画家志村 都さん。
 彼は自分がいた強制労働の現場が泊原子力発電所(北海道)の建設で消滅することに絶望し、贖罪のために花岡事件を描き始めた。ここで被害者と加害者の記憶が共通のものとしてひとつになっている。事件から六五年の歳月が必要であった。
 李さんは「記念館ができてこんなに嬉しいことはない」と微笑むのだが、そこには説明を受けながら熱心に展示を見る地元の小学生たちの姿があった。日本では被害の記憶は多くても、初めて全国の市民による四〇〇〇万円の寄付で加害の現場に出来た手作りの記念館。ここでこそ日中両国市民共通の歴史認識がしっかりと育まれるであろう。
 この記念館は未来を向いている。

梶村太一郎・ベルリン在住ジャーナリスト (2010年5月22日)