二.花岡事件高裁和解の経緯
(略)
三.和解成立まで
(略)
四.裁判上の「和解」ということの意味
花岡事件高裁和解に対する批判の動きが出始めてから、数名の日本の弁護士から、その経緯について説明を求められたことがあった。元日弁連会長で重慶爆撃被害者損害賠償請求訴訟の弁護団長をしている土屋公献弁護士から問い合わせを受けたこともある。花岡事件高裁和解を批判する人が裁判の依頼に来たので高裁和解の経緯について教えてほしいとのことであった。その土屋弁護士も含め、問い合わせをしてきた弁護士は、筆者の説明に全員が納得した。それは裁判上の「和解」というものがどのようなものであるかについて、弁護士として共通の理解があるからである。 「和解」という語を広辞苑で引くと次のように解説されている。 @ 相互の意思がやわらいで、とけあうこと、なかなおり A (法)争いをしている当事者が互いに譲歩しあってその間の争いを止めることを約することによって成立する契約 本来和解というからには、@の意味が好ましいことはもちろんである。しかし、裁判上の和解というのはAの意味であることは弁護士なら誰もが理解していることである。 裁判上の和解である花岡高裁和解は、@の意味でなく、Aの意味においてなされたものであることを確認しておく必要がある。もちろん中国人強制連行・強制労働問題は、一般の民事事件と異なる歴史の精算の問題であり、その解決は本来被害者と加害者が互いに譲歩しあって解決するような類のものではなく、その意味では限りなく広辞苑にいう@にちかいものでなければならないことは理解している。 しかし、一気にそこに到達しえない場合に、過渡的にAのステップを踏んで@に近づこうとすることは、当然考えられる。かつての「同盟国」ドイツのこの問題に関する歩みを見れば、そのことが分かるはずである。また、「互いに譲歩しあって」の「和解」といっても、それは無制限な譲歩を意味するものではない。原則を踏み外すようなものであってはならないことは当然である。 本件のような戦後補償問題を解決するに際して踏み外してはならない原理・原則とは何か。それは概ね以下の三つに要約されるであろう。 @加害者が加害の事実を認め、被害者に謝罪する A謝罪に見合う賠償金を支払う B加害者は再び同じ誤ちを犯さないために後世の歴史教育をする これを花岡高裁和解に則して具体的に考えてみる。 まず@の意味においてなされたのが、一九九〇年七月五日、生存者・遺族らと鹿島建設との間でなされた共同発表の再確認である。前述したように同発表では、 「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」 と述べている。 すなわち、強制連行・強制労働は国策としてなされたものであったが、そのことによって当該中国人らが損害を蒙ったことについては「企業としても」責任を認め謝罪をするというのである。同発表はさらに、生存者・遺族からの前記補償請求については、「過去のことを忘れず将来の戒めとする」という周恩来総理の精神に基づいて引き続き協議するとした。これはBに通ずることでもある。 次にAの補償金である。五億円という補償金の額については、生存者・遺族の当初の要求額を大幅にダウンしたものであることは否定できない。しかし、最終的には、生存者・遺族らによって花岡受難者聯誼会は、この五億円を受け入れている。 Bについては、当初、生存者・遺族らは北京と大館の地に記念館を建設するという要求を抱いていたが、この点については鹿島側との協議の中で難しいということがあり、これは断念することとなった。その代わりに日本の支援者がカンパを集め、大館の地に花岡記念館を作るということになり、現在すでに土地も取得し、その具体的な作業に入っている。 以上述べたように、花岡高裁和解は、中国人生存者・遺族らにとって決して十分なものではなく、不満を残すものではあったが、それでも戦後補償問題の解決に際しての原理・原則を踏み外したものとは言えないであろう。
五.裁判所の果した役割
二〇〇〇年一一月二九日午後二時、東京高等裁判所第八一二号法廷では、
「本日ここに、『共同発表』からちょうど一〇年、二〇世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれと軌を一にして和解により解決することはまことに意義のあることであり、控訴人らと被控訴人との間の紛争を解決するというに止まらず、日中両国及び両国国民の相互の信頼と発展に寄与するものであると考える。裁判所は、当事者双方及び利害関係人中国紅十字会の聡明にしてかつ未来を見据えた決断に対し、改めて深甚なる敬意を表明する。」
と新村正人裁判長が淡々と「所感」を述べた。 こうして、花岡事件の受難者(控訴人)に対する慰霊追悼、受難者及びその遺族の自立、介護、子弟育英等の資金として鹿島建設株式会社(被控訴人)が五億円を支出して「花岡平和友好基金」を作ること等を骨子とする和解が成立した。
午後三時、司法記者クラブでの記者会見に臨んだ原告及び代理人団は、原告団長耿諄氏らの作成になる詩を掲げた。
為花岡事件和解成功 献言 討回歴史公道(歴史の公道を取り戻し) 維護人類尊厳(人間の尊厳が守り)
促進中日友好(中日の友好を促進し) 推動世界和平(世界の平和を推進しよう)
前記「所感」において裁判所は以下のように述べた。 「控訴審である当裁判所は、このような主張の対立の下で事実関係及び被控訴人の法的責任の有無を解明するため審理を重ねて来たが、控訴人らの被った労苦が計り知れないものであることに思いを致し、被控訴人もこの点をあえて否定するものではないであろうと考えられることからして、一方で和解による解決の途を探ってきた。そして、裁判所は当事者間の自主的折衝の貴重な成果である『共同発表』に着目し、これを手がかりとして全体的解決を目指した和解を勧告するのが相当であると考え、平成一一年九月一〇日、職権をもって和解の勧告をした。」
このように、「共同発表」の精神こそが今般の和解の基本であると述べ、そして、
「広く戦争がもたらした被害の回復の問題を含む事案の解決には種々の困難があり、立場の異なる双方当事者の認識や意向がたやすく一致し得るものでないことは事柄の性質上やむを得ないところがあると考えられ、裁判所が公平な第三者としての立場で調整の労をとり一気に解決を目指す必要があると考えたゆえんである。」
と述べ、さらに、 「裁判所は、和解を勧告する過程で折に触れて裁判所の考え方を率直に披瀝し、本件事件に特有の諸事情、問題点に止まることなく、戦争がもたらした被害の回復に向けた諸外国の努力の軌跡とその成果にも心を配り」
と述べ、かつての「同盟国」ドイツにおける強制連行・強制労働の被害者に対する取組なども考慮したことを明らかにし、本件のような戦争被害の解決のためには、裁判所としても「従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想により」「花岡事件についての全ての懸案の解決を図るべく努力を重ねてきた」と述べ、裁判所の示した和解案は「まさにこのような裁判所の決意と信念のあらわれである」とまで述べた。そして最後に、冒頭に記したように、「本日ここに、『共同発表』からちょうど一〇年、二〇世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれと軌を一にして和解により解決することはまことに意義のあることであり、控訴人らと被控訴人との間の紛争を解決するというに止まらず、日中両国及び両国国民の相互の信頼と発展に寄与するものであると考える。裁判所は、当事者双方及び利害関係人中国紅十字会の聡明にしてかつ未来を見据えた決断に対し、改めて深甚なる敬意を表明する。」
と結んだ。 聞く者の心を打つ、実に格調の高い「所感」であった。裁判所の発する言葉というものはこういうものでなくてはならない。「所感」はこの種戦後補償問題について司法が余りにも消極的である――第一審判決はその典型例であった――ことによって失われつつあった司法に対する信頼を呼び戻すものでもあった。
六.代案なき批判者 野田正彰氏ら花岡高裁和解を批判する人々は、鹿島建設は謝罪をしていない、責任を認めていないなどと声高に言う。しかし、くどいようであるが、前記「共同発表」で鹿島建設は、「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と、企業としての責任――それが法的責任でなく、道義的なものであるとしても。なお、ドイツの「記憶・責任・未来」財団も法的責任でなく、「歴史上の責任」と表現している─―を認め、深甚な謝罪をなしているのである。鹿島建設が責任を認めていないとか、謝罪をしていないということは、事実を正確に述べたものでないことは明らかであろう。
さらに、二〇〇〇年一一月二九日に最終的に和解に合意する直前の一一月一八日、一九日に、新美隆代理人団長らは再び北京に飛び、生存者・遺族らにこの間の経過や最終的な和解条項について鹿島建設の●●「法的責任を認めるものではない」という意味を含めて重ねて詳しく説明し、和解成立について改めて耿諄氏を含む原告団・聯誼会から了解を得ている。もちろん、この席上には、現在高裁和解に不満を述べている原告もおり、議論に参加し、そして最終的に和解に同意しているのである。弁護団が中国人当事者を欺し、高裁和解を成立させたなどということが、ためにする中傷でしかないことは理解いただけると思う。
筆者は常々疑問に思っている。花岡高裁和解を声高に批判する人々は、いったいこの問題についてどのような解決の道筋を考えているのか。鹿島組花岡鉱山に強制連行され強制労働させられた九八六人の被害者のうち、中国全土を探し回ったすえに連絡のついたほぼすべての人々、全被害者の半数を超える約五〇〇名が、花岡高裁和解によって設立された基金から分配金の支給を受けている。批判者はこの事実をどう考えるのか。支給を受けた大多数の被害者・遺族をも批判・攻撃するのか。
野田氏が聴き取りを行ない、その結果の公表(『世界』二〇〇八年一月号・二月号)によれば原告の耿諄氏は、たしかに現時点では花岡和解に反対する意向を持っておられるようだ。しかし、前述のように、和解成立当時から耿諄氏が和解に反対していたわけではない。そのことは、日本の市民の手で花岡の地に建設される記念館のために揮毫をしている(林伯耀「大事な他者を見失わないために」『世界』二〇〇八年七月号)ことからもうかがわれよう。
しかしその後、耿諄氏は花岡和解を批判するようになった。その背景に、花岡和解を批判する人々による攻撃があったことは想像に難くない。また、そうした批判を前に、文化大革命当時に迫害を受けた耿諄氏の記憶や、大隊長として中国人労働者たちを束ねる立場にあった花岡での体験が、耿諄氏の胸中でどのように作用したのか――耿諄氏の心境の変化が生じた理由、それを分析することこそ野田氏が専門とする領域なのではないか。だが、野田氏の聴き取りの文章からは、そうしたリアルな人間としての感情の機微はまったく浮かび上がってこない。
もっとも、野田氏は耿諄氏には一度会っただけで、八時間の聴き取りと言っても通訳を入れて半分の四時間、しかも時候の挨拶などを考慮に入れれば実質的にはそれにも満たないであろう。実際、野田氏の「聴き書き」の少なくない部分が、花岡和解を批判する既存の文献に拠っている。他方、これまで蓄積されてきた学術的な文献資料の調査は不十分であり、筆者たち代理人弁護士からの聞き取りも一切なされていない。さらに、野田氏の姿勢を疑わせる決定的な問題は、野田氏が和解に賛成する原告・遺族からの取材を一切行なっていないことだ。これでは、最初に「欺瞞の花岡和解」という結論ありきの取材態度だと批判されても仕方がないであろう。そのような野田氏に、上記のような分析は望むべくもないのかもしれない。
確かに、耿諄氏は花岡事件の象徴的人物であり、花岡裁判原告団の団長であった。しかし、花岡和解は花岡事件受難者聯誼会(会長王敏氏)として、真剣な協議を経て受け入れたものであり、そのことは現在に至るもいささかも揺らいではいない。なぜ野田氏はこの事実についてまったく言及しないのか。被害者の意思を「紹介すべきもの」と「紹介すべきではないもの」と選別する資格が野田氏にはあるとでもいうのだろうか。
また、野田氏は和解の重要な柱の一つであり、耿諄氏も含めた被害者が一貫して求めてきた「一括解決」についても攻撃を加えている。公的存在である中国紅十字会を和解に関与させ、原告だけの解決でなく、裁判の当事者とならなかった他の関係者もすべて含め一括解決するところに高裁和解の苦心があった。彼らに対しても野田氏は、「欺されるな、そんな金は受け取るな」と呼びかけようと言うのであろうか。そうであれば、その後、この問題の解決に向けてどうしようというのか。花岡高裁和解が成立してから八年余、その批判が始まってからも八年余の時間が経過した。しかし、これまで彼らはただ批判をするだけで、何ら具体的な動きはしてこなかった。鹿島建設に対する再要求や再交渉も、ビラ撒きも街頭宣伝もしないのは何故なのか。
筆者らは一九八〇年代末からこの問題に取り組んできた。その活動は遅々たるものではあったが、この問題をめぐる日中両国における困難な事情もある中でようやくここまで到達し、これを一つのステップとして、さらに全面的な解決に向けて、中国の被害者・遺族とともに取り組もうとしている。新たな解決に向けて動くこともなく、大多数の被害者の意思も無視して、代理人弁護士や支援者への攻撃を繰り返すだけの批判者は、戦後補償を実現しようとしていく運動にとって障害でしかないであろう。
七.戦後補償の真の実現を拒む日本社会の「闇」
筆者は花岡事件高裁和解直後、このことに関して若干の文章を発表してきたが(『世界』二〇〇一年二月号「世界の潮」)、その際字数の関係もあって書けなかったことについて、その後以下のように書いた(『わだつみのこえ』二〇〇一年七月二〇日号)。
「勝利∞おめでとう≠ニ言わないで下さい。和解成立の報道があって以降、友人、知人らから「よかったね」など様々な言葉をかけられた。長年にわたって花岡事件に取り組んできた者の一人として嬉しい。しかしである。「勝利おめでとう」という言葉をかけられることがあるが、これには或る種の戸惑いを覚える。和解内容が中国人生存者・遺族にとって満足のゆくものではなかったからということだけが理由ではない。仮に十分に満足のゆく内容で和解ができたとしても、やはり、加害者%本人の一員である私にとって勝利≠ニかおめでとう≠ニいう言葉はふさわしくない。
花岡裁判では私達は被害者の代理人として行動した。しかし被害者の訴えは鹿島に対してだけではなく、日本社会に対するものとして自分にもはね返ってくる。この裁判は原告代理人も被告代理人もそして裁判官も、自分自身に対する問いかけだということを忘れてはならない。それが被害者に対する眼差しになる。
和解内容について、勝利≠セとかおめでとう≠ニ言わないで下さい。ただ一言よかったね≠ニ言って下さい。そして「これを他の戦後補償問題の解決の契機に」と言って下さい。
それにしても、BC級戦犯横浜法廷判決、九〇年七月五日の共同発表、中国紅十字会の関与、裁判所のがんばり、ドイツなど国際的な流れ、そして新美隆弁護士、田中宏教授という戦後補償問題の権威およびそれを取り巻く田英夫、土井たか子議員をはじめとする日中友好人士らの存在、とりわけ花岡事件の地元大館市が一〇年以上前から毎年花岡蜂起≠フ日である六月三〇日に、市主催の慰霊祭を行なっていること等々、他のケースに比べ格段に有利な条件が揃っていながらも、そして鹿島建設且ゥ身も本和解による営業上の利益を認識しながらもなお、同社が和解解決に躊躇し最後の一歩を踏み出すためには、社内における「天の声」を必要とせねばならなかった事情を考えるとき、これはもう一鹿島建設鰍フ問題としてでなく、「戦争責任」に関するこの国の闇の深さを思わざるを得ない。」
この気持は今も変わらない。 花岡事件高裁和解直後、鹿島建設側が、一九九〇年七月五日「共同発表」において認めた「責任」とは法律上の責任でないとコメントを発したのは、社内における和解反対派、さらには国内同業他社に対するパフォーマンスであったと思われる。それは前述したことと同様、この問題に関する日本社会の闇の深さである。
筆者らが中国人強制連行・強制労働の生存者・遺族とともに、いわゆる戦後補償問題に取り組んできたのは、当事者達に対する謝罪と補償を実現することを通して、前記日本社会の「闇」に切り込もうとするためである。
この問題を放置しておいて、ただ被告鹿島建設に対して心底からの責任を認めよと迫ったとしても余り意味があるとは思われない。
完全な解決以外の過渡的解決を一切拒否し、花岡事件高裁和解を中国人達を欺したものだと声高に語るあなたに問いたい。あなたは、この「闇」に切り込むために何をなしてきたか。そしてこれから何をしようとするのかを明らかにしてほしい。
被害者の気持に「寄り添う」という一見誠実に見えるあなたの行為が、戦後補償問題の解決に向け日々苦悶している中国人ら他の当事者の間に分裂を持ち込み、そして代理人弁護士、支援者らの手足を縛ることになることに気付くべきである。
八.最後に──今こそ花岡和解をステップに
二〇〇七年四月二七日、最高裁判所第二小法廷は、中国人強制連行・西松建設裁判において、中国人原告らの請求を認容した広島高裁判決を破棄し、原告らの請求を棄却した。
原告らの請求権は一九五一年のサンフランシスコ講和条約、一九七二年の日中共同声明によって法的には失われているというのがその判旨である。この判決は、戦争賠償問題に関する歴史的事実を歪曲する不当なものであって、到底容認できないものであり、今後この判決を否定するための闘いがなされなければならないのはもちろんである。しかしながら、やはり最高裁の判決には重いものがあり、この判決を変更させることは容易ではない。
前述したように、わずかに残っている生存者・被害者はすでに高齢であり、その戦後補償の実現は「時間との闘い」でもあることを考えるとき、最高裁判決の変更まで手をこまぬいているわけにはいかない。
幸い、前記最高裁判決も、前記広島高裁判決が認定した中国人強制連行・強制労働の実態についてはこれを踏襲し、判決の末尾において付言として、
「本件被害者らの被った精神的、肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人〔西松建設〕は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の〔国家〕補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人〔西松建設〕を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待される」
と述べ、当事者間での話し合いによる自主解決を勧告している。 この付言を活用し、一定の「解決」を図ることも当然考慮に入れなければならない。
その場合に、先例として参考にされるのが花岡高裁和解である。このように、今日、四・二七最高裁判決によって裁判所の判決による解決の途が困難となってしまっている戦後補償問題について、花岡高裁和解はその閉塞状況の突破口となりうるものである。
今こそ花岡和解の意義と到達点を再確認し、建設的な批判を含めて討議を深め、次の段階に向けて取り組みを強めていくべきときであろう。
二〇〇八年七月一日
(全文は「情況2008年9月号所収)