西日本新聞

強制連行長崎訴訟 「戦争に時効ない」 父被爆死 原告の喬さんら 二重苦、敗訴に憤り
 父の無念は晴らせなかった。原告敗訴を言い渡した27日の中国人強制連行長崎訴訟判決。強制連行された中国人の中には、頭上でさく裂した原子爆弾によって命を失った人もいる。「戦争に時効はない」。支援者の叫びを背に二重、三重の苦しみを背負ってきた遺族は静かに怒りをにじませた。
 長崎地裁402号法廷。原告席に座った喬愛民(きょうあいみん)さん(65)は判決を読み上げる裁判長の声にじっと耳を傾けた。閉廷後、通訳に敗訴を聞かされた。
 「不当判決。歴史をちゃんと見ていない」。こわばった表情のまま、一気に中国語でまくしたてた。
 2001年1月、中国河北省の村に暮らす喬さんを1人の男性が訪ねてきた。強制連行された元労働者らでつくる会のメンバーだった。
 「お父さんは日本の長崎に強制連行され、原爆で死んだ」。その言葉に耳を疑った。それまで、父書春さんの消息を家族の誰1人として知らなかったからだ。
 抗日地下組織のメンバーだった書春さんは1943年秋、日本軍に捕らえられ、翌年7月、長崎県の崎戸炭鉱に送られた。1日12時間労働。食事はまんじゅう6個。定められた時刻に少しでも遅れただけで、監視員からこん棒で容赦なく殴られたという。
 書春さんは45年春、治安維持法違反容疑で仲間の中国人26人とともに逮捕、旧長崎刑務所浦上支所に収監された。そして8月9日、刑務支所から約300メートルの地点に原子爆弾がさく裂、他の中国人労働者の収監者とともに命を落とした。35歳だった。
 残された家族は貧困にあえいだ。母は糸を紡いでわずかな金を稼ぎ、3人の娘たちは残飯を拾って飢えをしのいだ。その母と姉2人も既にこの世にない。
 「父の無念を晴らすことができるのは、わたししかいない」との思いで訴訟の原告団に加わり、迎えた判決だった。
 父のことや母のこと、そして自分のこと。敗訴の重さが胸を締め付ける。「あきらめない。戦い続ける」。涙ながらに控訴する意思を示し、裁判所を後にした。
=2007/03/27付 西日本新聞夕刊=

 「不当判決」原告ら怒り 強制連行長崎訴訟で敗訴 李さんら「勝つまで戦う」
中国人原告らの司法救済の願いは、再び「時の壁」にはね返された。強制連行と強制労働について、国や県、企業の不法行為は認めながらも、賠償責任までは問えないとした27日の長崎地裁判決。「不当判決。われわれは勝利をつかむまで戦い続ける」。前日の宮崎地裁判決に続く原告全面敗訴に、原告や支援者からは怒りや失望の声が交錯した。
 判決後、長崎市内での会見には、来日した原告2人や弁護士のほか、数人の支援者が出席。宮崎地裁判決に続く敗訴に、出席者たちは一応に落胆した表情だった。
 「負けるはずがないと思っていたが…」。三菱端島炭鉱で強制労働を強いられた原告の1人、李慶雲さん(81)は、固い表情を崩さなかった。李さんは「どんな判決が出ても、われわれを奴隷のように扱い、苦しめた歴史の事実は消せない。最後には私たちが勝利を得ると信じている」と涙ながらに訴えた。
 三菱崎戸炭鉱で働かされ、父親が被爆死した原告遺族の喬愛民さん(65)は「不公平な判決で、本当に憤っている。父の恨みを晴らすためにも勝つまで戦う」と怒りをあらわにした。
 一方、「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の本島等会長は「残念で仕方がないが、勝つまで努力するしかない」と言葉少なに会場を後にした。
 原告団支援者の平野伸人さん(60)も「司法は歴史の真実を断罪することから目を背けている。今後、日本と中国両政府による政治的な解決しか、被害者が救われる道はない」と、ショックを隠せない様子だった。

=2007/03/28付 西日本新聞朝刊=