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【前史】
1930 ホセ・マリア・ベラスコ・マイダーナ監督、ボリビア初の長篇映画『ワラワラ』(Wara Wara) 制作。
1950 ホルヘ・ルイス監督、ボリビア初のトーキー映画『ボリビアは真実を求める』(Bolivia busca la verdad ) 制作。
1953 ボリビア映画協会設立。
1953 ホルヘ・ルイス&アウグスト・ロカ共同監督『帰れセバスティアーナ』(Vuelve Sebastiana ) 制作。
1958 ホルヘ・ルイス監督、『流れ』( La vertinete ) 制作。これはボリビア初の長 篇トーキー映画である。このころホルヘ・サンヒネスは、チリのコンセプシオンおよびサンティアゴにおいて、映画制作・理論について学ぶ。
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【集団形成後の軌跡および日本の上映グループとの関係史】
1960 ホルヘ・ルイス、オスカル・ソリアなど、政府援助による映画制作集団を設立。のちにホルヘ・サンヒネスもこれに参加。
1962 短篇『革命』制作。
1965 短篇『落盤』制作。
1966 長篇『ウカマウ』制作。以後、集団名をウカマウと名乗る。ホルヘ・サンヒネス、ボリビア映画協会から追放される。
1969 長篇『コンドルの血』制作。
1970 長篇『死の道』を制作したが、西ドイツの現像所でなぜかネガ・フィルムの大半が破損され、未完成に終わる。
1971 長篇『人民の勇気』制作。バンセルによる軍事クーデタ起こる。サンヒネスら、アジェンデ社会主義政権下のチリに亡命。
1973 チリでピノチェトによる軍事クーデタ。アジェンデ政権倒壊。亡命外国人で、アジェンデ政権下で芸術・社会活動に参与していた人びとの逮捕令下る。サンヒネスもそのひとり。アンデス越えを図り、ペルーに逃れる。
1974 ペルーで長篇『第一の敵』制作。
1975 ペルー政権の右傾化でエクアドルに移動。
★エクアドル滞在中の、その後上映委員会を結成することになる日本人二人が、エクアドルの首都キトで『コンドルの血』上映予告ポスターを見て、上映会場のキト大学でこれを観る。衝撃をうけ、上映関係者との面談を乞う。監督は亡命の身でエクアドルに滞在しており、翌日私たちの宿を訪ねて来て、話し合う。具体的なイメージはないままに、今後協力関係をもつことを確認。以後、双方はベネスエラ、メキシコなどで何度も会う機会をもち話し合いを深める。私たちはその間、ウカマウの既成の作品をすべて観る。
1977 エクアドルで『ここから出ていけ!』制作。
1978 ボリビア民主化闘争高揚。サンヒネスら、七年間の亡命生活に終止符を打ち、帰国する。
1980 ボリビアで軍事クーデタ。逮捕令が出たサンヒネス、地下に潜行し、のちペルーに逃れる。
★日本で『第一の敵』、まず東京で公開。以後全国各地に上映運動広がる。
1981 ★日本での上映運動続く。『革命』『落盤』『ウカマウ』『コンドルの血』『ここから出ていけ!』上映。同時に、サンヒネス&ウカマウ集団著『革命映画の創造:ラテンアメリカ人民と共に』刊行。
1982 ボリビアに文民政権成立。サンヒネス、帰国。
1983 初の長篇ドキュメンタリー『ただひとつの拳のごとく』制作。★日本で『人民の勇気』上映。
1985 ★日本で『ただひとつの拳のごとく』上映。
1986 長篇ドキュメンタリー『生への行進』を撮影し、アルゼンチンの現像所に送ったが、税関でフィルム「紛失」。未完に終わる。
1989 長篇『地下の民』制作。
1990 ★日本で『地下の民』上映。
1995 長篇『鳥の歌』制作。
1999 ★日本で『鳥の歌』上映。
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国内・国際映画賞受賞歴
1964  『革命』:ライプチッヒ映画祭ヨリス・イヴェンス賞
1966   『ウカマウ』:カンヌ映画祭青年監督賞 
1969  『コンドルの血』:フランス、ジョルジュ・サドゥール賞
              :ヴェネツィア映画祭金舵賞
              :バヤドリッド映画祭金穂賞
1971  『人民の勇気』:ペサロ映画祭最優秀映画賞
1972         :ベルリン映画祭OCIC賞
1974  『第一の敵』:チェコ、カルロビバリ映画祭水晶賞
1975        :ポルトガル、フィゲラ・ダ・フォス映画祭最優秀映画賞
1975        :スペイン、コスタ・デル・ソル映画祭最優秀映画賞
1979  『ここから出ていけ!』:ボリビア映画祭銀撫子賞
1980             :タシュケント映画祭審査員特別賞
1983  『ただひとつの拳のごとく』:ハバナ映画祭大珊瑚賞
1989  『地下の民』:サン・セバスチャン映画祭金貝殻賞
            :外国紙グラウベル・ホーシャ賞
1993  『鳥の歌』:ボリビア映画祭銀撫子賞

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