アンデスで作られている映画と共に20年
エスニックコンサート実行委員会「エスニックレター」25号(99年9月14日)掲載
                                         太田昌国

 南米ボリビアの映画制作集団ウカマウと付き合い始めて来年で二〇年目になる。付き合いというのは、彼らの作品を自主上映し、上映収入を制作者に還元し、途中からはシナリオを共同検討し、最後には共同制作にまで行き着くーーといった二〇年間の作業のことである。

 私は、映画を観ることはそこそこに好きだが、言ってみれば素人にすぎないし、そんな人間たちが集まってここまでやってこれたことには、我ながら不思議な思いがする。 はじめて彼らの作品を観たのは、エクアドルの首都キトで、『コンドルの血』という題名のものだった。二十五年前のことである。そのころ私のラテンアメリカ各地での放浪生活もすでに二年を越えていて、現地で作られている映画はできるかぎり観るようにしてきた。しかし、映画を制作しているのはメキシコ、キューバ、アルゼンチン、ブラジル、チリくらいで、あとはハリウッド映画に独占されているのが、当時のラテンアメリカの映画事情だから、地元の映画に出会うことは稀だ。

 さて、キトの街角で見かけたポスターでは、明らかに先住民インディオの顔つきをした青年が銃を構えている。表情は切迫している。それだけでなかなかの迫力だ。数少ない地元の映画にちがいない。さっそく観にいくと、なかなかいい映画だった。一九六九年に制作されているが、テーマはいわゆる「先進国」が「後進国」(これが当時のふつうの言葉遣いだった)に与える援助の問題だ。当時、米国は革命キューバの影響力が波及するのを阻止するために、社会革命の原因となる貧困・病気などの問題の解決を援助すると称して「平和部隊」なるものを派遣し始めていた。

 アンデスの山奥の小さな村に派遣された医師グループのなかには、治療と称して女性に不妊手術を施した連中が実際に存在した。来るベき地球人口爆発・食糧危機を前に、「避妊を知らない貧しい第三世界の連中には強制的に妊娠できなくさせるしかない」とでも考えたのだろう。

 映画はこの「実話」を描いたものだった。事実を知った先住民の青年は、こんなことすらあえてする帝国主義には銃を持って抵抗するしかないと考えて、銃を構えて村へ帰るのがラストシーンなのだが、その場面がポスターに使われていたのだ。いかにも、ラテンアメリカの多くの地域で、農村でも都市でもゲリラ闘争がたたかわれていた一九六〇年代らしいラストシーンの設定だ。

 監督やプロデューサーは軍事政権下のボリビアを離れてエクアドルに亡命していた。彼らと会い、話し合った。世界観や歴史観が一致する人びとだった。監督、ホルヘ・サンヒネスは白人エリート層の出身だが、ボリビア社会は人種差別的な考え方にひどく蝕まれていて、先住民に対する差別意識が露骨であり、それは、悲しいかな、社会革命を志す側にすら見られる現実だというのが、彼の考えだった。悪しき意味での個人主義を極限にまで純化させエゴイズムに縛られたヨーロッパ的価値観の社会を抜け出るためには、個を殺さずにむしろ生かす集団・共同体の原理に貫かれた先住民社会のあり方に学ぶことが必要だと彼は力説した。

 世界規模では帝国主義と植民地支配の問題を構造的に捉えること、かつそれぞれの国/地域の内部での民族間の関係のあり方を歴史的・現在的にふりかえること。そんな共通の考えに基づいて、そして何よりも彼らの映画作品の力に私たちが惹かれて、共同作業は始まった。

 ボリビアには先住民族のケチュアとアイマラの人びとが住む。両者合わせて、総人口八〇〇万人の半分以上を占める。メスティーソ(混血の人びと)が三〇%、白人が一〇%という人口構成の国である。彼らは自分たちが作る映画が、住民の多数を占める先住民によって観られるためには、映画に登場する人びとはふつうの民衆であり、話される言語はその母語でなければならないという考えを、一九六〇年代にすでに実践していた。

 アンデスの先住民族といえば、外部からカメラが入っても不信の眼差しで黙りこくって一言も言葉を発しないというテレビ映像に見慣れた目には、ケチュア語やアイマラ語をほとばしるように喋り、自分の考え・怒り・悲しみを表現する先住民農民を見聞きすることは驚きだった。日本で最初に上映したのは、一九八〇年『第一の敵』(一九七四年制作)という作品だったが、これは多くの人びとの先住民観[別に、アンデスの、と限ることはないだろう]を確実に変えたと思う。

 以後最初の五年間で、一九六二年に始められた彼らの映画制作活動の中で作られた長篇六本、短篇二本の全作品を上映することになった。彼らは当時、「映像による帝国主義論」の完成を志しており、それは現実に、一作ごとに帝国主義の政治・経済・軍事・宗教・文化の相貌を描くという形をとっていた。描く主題の突出のみが目立ったのではない。つまりテーマの政治性・社会性に牽かれてのみ、私たちの活動が続けられてきたのではない。物語の作り方、映画としての手法、制作集団そのもののあり方ーーそれらすべてに、サンヒネスが語るところの、先住民社会のあり方に学んだことが鏤められている。それはおのずと、ハリウッド映画に象徴されるような物語の作り方と手法に対する根本的な文化批判として成立することになる。

 ところで、先住民族がみずからの母語を語り、民族衣裳をまとい、保持されてきた文化的伝統を示すーーなどの形で、失われてきた諸権利を回復しうる主体を明確に描きだすこと自体がめざされた初期の作品では、先住民族インディオの描き方は避けがたく単調になる。外部の強大な力の浸透・侵略にさらされた「犠牲者」という側面で描くことになるのである。

 上に述べたような衝撃力を孕む作品だったから、それは欠点とは見えなかった。だが、一〇年前に制作された『地下の民』[このタイトルは、公認・公式の歴史観では見えてこない、先住民族の歴史・社会のあり方を示していて、示唆的だった]から、ウカマウは先住民族が内部に抱える矛盾、自ら冒す過ちなどをもギリギリの地点で描き始める。他方、インディオに「同情」しているにすぎないために、彼らとの関係が危機に及ぶと、「ぼくらは君たちのために闘っているのに」と口にしてしまう左翼学生や労組活動家の姿も描かれる。ウカマウは、異民族間の関係のあり方の「現在」を、日本の私たちも抱える共通の問題として提起しているのだと思える。私たちはいま、そのテーマをさらに展開した最新作品『鳥の歌』(仮題、一九九五年制作)の上映を準備している。その折りには、ぜひ観ていただきたいと思う。   

                              (1999年9月8日記)

indexページへ戻る