| まえがき 付き合いとしては三〇年有余の長さに及んでいたウカマウ・プロデューサー、ベアトリス・パラシオスの急逝の報(二〇〇三年七月)に接して、追悼の上映会を実現したいとすぐに思った。彼女と会ったことがあるのは、日本側スタッフでは四人ほどでしかない。 だが、一九八〇年に始まるウカマウ映画自主上映運動は、その後、共同製作、製作協力、ラパスに開校したアンデス映画学院の映写機材設備協力、ホルヘ・サンヒネス監督来日招請など、いくつもの段階を経て、現在に至っているが、その全過程をふりかえったとき、ベアトリスの存在は大きな意味をもっていた。 その間は専らプロデューサーの役割を果たしてきた彼女だったが、ここ数年間は彼女にとっては初の単独監督作品である『悪なき大地』の準備に力を注いでいた。何にせよ一個人が担う役割が固定するのは良くないという考え方は、ウカマウと私たちに共通するものだったから、それは好ましいことだった。 持病のリウマチとたたかいながら、本格的な撮影開始も間もないことを手紙に書き綴ってきたのも、つい先ごろのことだ。その間にも進行してしまった病気の治療のために、二〇〇三年七月下旬ベアトリスとホルヘは信頼する医師がいるキューバへ向かったのだったが、その機中でベアトリスは亡くなった。 その無念さを思い、また(本文で唐澤秀子が書いているように)どちらかというと「深刻派」のホルヘ・サンヒネスが持続しえたのは、根っからの「楽天性」をもってどんな事態にも対処したベアトリスの存在に与かるところが大きいと考え、一方の側の協働者である私たちとしては、やはり、彼女の存在を思い起こす機会を作っておきたかった。 付き合いは、電子メールなど存在しない時代からのもの。ベアトリスの、なぐり書きのような文字の手紙は、私たちの手元にたくさん残っている。 彼女が、自分たちの仕事の進行状況、次回作のプラン、資金不足の現実、ついでに、あれこれの送金は可能かとの金策の相談事などを書いてきたことはもちろんだが、いつも、その時期のボリビアの政治・社会状況にも、簡潔にせよ触れていた。 軍事政権下で長期間の亡命生活を余儀なくされ、民政移管が実現して帰国した後も、迫り来る新自由主義の圧力をひしひしと感じざるを得ない以上、そこでボリビア社会がいかに変容を遂げているのか、民衆の生活の現実と、そこから生じる意識は、どんな状況にあるのか、何を変えなければならないのか――などの課題が、彼女の頭を離れることはなかったのだろう。 上映会に合わせて、小さなパンフレットを作りたいと思ったが、ベアトリス個人に焦点を当てるものよりも、彼女も生きていた、そしてウカマウの映画が製作されている背後にしっかりと実在しているボリビアの社会・文化・政治状況をも明らかにするものにしたいと考えたのは、そのためだ。 その意味で、願ってもない執筆者に、今回は恵まれた。ウカマウは、この間のボリビア政治・社会情勢の急激な変貌の過程で、二〇〇〇年のサンヒネス監督来日時には片鱗もなかった内容の作品を急遽製作した。近い将来におけるフィルム化を展望しながらも、その作品『最後の庭の息子たち』(仮題)は二〇〇四年一月一日、その数日前までに私たちのメンバーがボリビアに持ち込んだデジタル・プロジェクターを使って、ラパスの劇場で封切られた。 封切り当日の劇場の様子と映画の感想を綴る佐藤友紀さんは、二〇〇三年には当時住んでいた静岡でのウカマウ上映に関わり、いまはボリビアにいる人だ。 フォルクローレ音楽を通じて長い間ボリビアとの交流を深め、日本・ボリビア・世界各地での演奏会を続けながら、独自の音楽表現の世界を築いている木下尊惇さんとの出会いもうれしいことだ。 二〇〇三年、現代企画室から発売された『マヤ先住民族 自治と自決をめざすプロジェクト』の編者である「反差別国際運動日本委員会:グァテマラプロジェクトチーム」の中野憲志さんとは、その出版を通して知り合った。 中野さん自身が同書に「先住民族の権利」をめぐる刺激的な論文を執筆しているが、中野さんの紹介で知った、ボリビア在住の研究者、藤田護さんともども、この小さなパンフレットに、グローバリゼーションの圧力下にあるボリビアについての貴重な報告を寄せてもらった。 こうして、ベアトリス・パラシオスを追憶する催しを準備しながら、ボリビア_ウカマウとの関係は一段と深化し、日本の私たち自身のなかでも新しい出会いがあった。死してその機会をつくってくれたベアトリスに心から感謝し、あらためて深く哀悼する。 |
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