南米ボリビアで1960年代半ばから映画制作・上映・配給などの仕事に携わっているグループ。監督はホルヘ・サンヒネス(1937〜 )。1966年最初の長篇作品『ウカマウ』が 評判となり、サンヒネスらが街を歩いていると「あっ! ウカマウだ」と声がかかるようになったので、それをそのままグループ名に採用したという。「ウカマウ」はボリビアの先住民族アイマラ人の母語にある表現で、あえて訳すと「そんなふうなことだ」となる。

 サンヒネスは白人エリート層の出身だが、ボリビアの住民の半数以上はアイマラ人、ケチュア人であり、その人びとと無関係な映画を作ることはできないと考え、出演者には素人の先住民を起用し、アイマラ語・ケチュア語などの先住民の言語を用いた。当時のラテンアメリカ映画界はハリウッド映画に占領され、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなど地元で映画制作が行なわれていた少数の国にあっても、先住民の存在を重視したウカマウ的な映画作りはまったくなされていなかったので、当初の作品から大きな衝撃を観る者に与えた。

ホルヘ・サンヒネス
 
 1969年、米国の「平和部隊」なる援助組織がアンデス地域の女性に強制的な不妊手術 を施していた事実を暴露する映画『コンドルの血』を制作して以降、「映像による帝国 主義論」の創出を目標に定め、作品ごとに帝国主義の軍事・政治・宗教・経済的な顔つきを描ききることを中心的な課題とした。

 その強烈な政治・社会的なメッセージ性ゆえに、外部との軋轢は絶えず、スポンサーが途中で降りたり、ボリビアには現像所がない ために撮影フィルムは国外の現像所に持ち出されるが、西ドイツ(当時)の現像所でネガが「破損」したり、ボリビアの税関で「紛失」したりの「事故」のために、二本の重要な作品が完成をみないままに終わっている。

 1971年、ボリビアで軍事クーデタが起こってからは亡命し、合計10年間ちかく、チリ、ペルー、エクアドルなどで制作・上映活動を続けた。1982年の「民主化」以降、サンヒネスらは帰国し、国内での制作・上映・配給活動を続けて、現在に至る。ラパス市 に小さなスタジオを設け、そこを基盤に、先住民族出身の映像の担い手をつくりだすことに力を注いでいる。

 
シネマテーク・インディアス(日本)
 1975年、旅行中の南米エクアドルで偶然ウカマウの一作品を観た私たちが、その作品の 魅力・力強さに惹かれ、監督のホルヘ・サンヒネス、プロデューサーのベアトリス・パラシオスと会い、話し合った。ウカマウは以前から日本での配給・上映を希望し、国際 映画祭で会った日本人を通して日本の配給会社への連絡もとっていたが、いっさい返事 はなかったとのこと。

事情を聞いた私たちは日本への帰国後、配給会社と連絡をとり、 日本上映の可能性を探ることを約束して、76年末に『第一の敵』を16ミリフィルムで預 かり帰国した。以後、いくつかの配給会社と話し合ったが、第三世界地域の映画が上映されることなど稀であった1970年代後半の時代、しかも政治的なメッセージが強い映画 の上映可能性はまったくゼロとの回答しか得られなかった。そのため自主上映すること にして、まず日本語字幕を入れた。

 『第一の敵』は1980年、東京お茶の水のホールで二週連続の金曜日・土曜日に上映、四日間で2000人の観客という、自主上映では上出来の結果となった。作品の評判も良く、伝え聞いた全国各地から自主上映の希望が寄せられ、メンバーのひとりは16ミリフィルムを担いで、各地を回った。上映収入は、フィルム代、字幕制作費、宣伝費、会場費などの必要経費を償却し、残りは制作者に還元することを原則に始まった。

 以後、ウカマウの全作品を購入、その都度自主上映を行なってきた。相互の信頼関係が築かれたところで、ウカマウは共同制作を提案、1989年完成の『地下の民』は、シナリオの共同検討・一定額の制作資金提供という形で、その提案が実現した。日本側は一口2000円の債権を発行、上映実現の折りにはその債権で入場可能という方法を編み出した。総額五百万円が集まった。

 1995年制作の『鳥の歌』も、やはり共同制作の一貫として実現した。この19年間で、短篇二本、長篇七本のウカマウ映画を観た観客総数は、延べ八万人に上る。名称は『第一の敵』上映委員会で始まったが、途中から『シネマテーク・インディアス』に変わった。

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