「オール・アバウト・マイ・マザー」:原作シナリオと映画の間 唐澤秀子(現代企画室編集部) |
『オール・アバウト・マイ・マザー』の原作シナリオを読まれた杉山晃さんが、とても良い作品だと早くから言っておられた。映画も輸入されて試写会が始まったのは今年一月のこと。すぐ見に行った。なんともいえない共感がわき、しばらくひとり胸に思い続ける、そんな映画だった。 そしてそのシナリオを、文学書として出版する準備にとりかかった。杉山さんの手で出来上がった翻訳原稿を何度も読み返していると、さまざまな場面が思い出されると同時に、映画では単なる風景であったもの、たとえば街頭でボールを蹴っていたのはドミニカからの移民の少年であったことなどがわかってくる。 それらの場面が蘇ってきて、アルモドバルが見ているものはなんなのかが、いっそうあきらかになってくるのだ。 息子を突然の事故で失った主人公のマヌエラの、息子の父親をさがす過程で出会う人びとは、同性愛の女性、トランスベスタイト、妊娠した尼僧、麻薬から離れられない人、エイズに冒された人など、アルモドバルの言葉を借りれば、人生から受け取っているものよりずっと高い額の請求書を突きつけられている人たち。偏見にさらされている人。そんな彼らはこの映画の中でいくつもの忘れがたい素敵な場面を作っている。 トランスベスタイトのアグラードが襲われて傷つきながらも、かえって相手の身を気遣ったりするその寛容さ、恨みなどさらにないその優しさはすごい。 マヌエラ、アグラード、ローサがマヌエラの慎ましやかなアパートで打ち興ずる場面など、アルモドバルが好きだというカポーティの『草の竪琴』の樹上の家の場面を彷彿させる。 かれらはみんな「人生の引き受け手。人それぞれに異なる人生をあるがままに受け入れる」、それも楽しげに、それぞれの人生を生きる肯定性をもって。かれらの肯定性は「請求書」に数字をさらに付け加えるような偏見の持ち主さえ受け入れ、あるがままを受け入れさせるきっかけを作り出してゆくのだ。 気がついてみれば自分もマヌエラのアパートで寛いで心を開いているような気分。そんな気持ちにさせてくれる映像と、またもうひとつ違う奥深さをもったシナリオはお互いに独立しながら、共鳴してさらに自由な心を誘うようだ。 シナリオが本として完成したいま、もう一度映画を観てみたい。その後でシナリオをもう一度読んでみたい。 |
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