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図書新聞 2018年3月24日 評者:山辺 弦
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図書新聞 2018年3月24日 評者:山辺 弦(東京経済大学専任講師)

〈「逸脱する古典」
ラテンアメリカ小説史上に揺るぎない地位を占めている〉


「古典(ロス・クラシコス)」―現代の読者は、この語への懐疑と無縁ではいられないだろう。古典とは何なのか? 私たちが愛してやまない傑作なのか、読むことが義務づけられた遺物なのか? 不動の権威と黴臭さの同義語なのか、それとも絶えず新たな意味を芽吹かせ続ける生命力のことなのか? 私たちにとってこの用語は、答えとしてよりむしろこうした無数の問いとしての意味を持つものであり、その問いの中で輝きを増す作品こそが古典なのだろう。ラテンアメリカ小説史上に揺るぎない地位を占める『ドニャ・バルバラ』(1929)もまた、紛れもなくそうした作品の一つに数えられる。

本作の訳者あとがきでも述べられている通り、現代ラテンアメリカ小説の黎明はしばしば、地方ボスの支配に根差す政治的混乱や外圧の克服、ならびに民主国家の建設と未開地方の統合という政治理念と結びついていた。教育者・政治家でもあった『ドニャ・バルバラ』の作者ガジェゴスもまた、広大で荒々しいベネズエラの平原地帯「ジャノ」を舞台に選び、恐怖と魔術的迷信によって地方を支配し、野蛮を体現する男勝りの女傑ドニャ・バルバラと、当地に法治と文明化をもたらすためにやってくるサントス・ルサルドとの対立を軸とした物語に、文明による野蛮の克服という自らの二分法的理想を託したのである。

だが、『ドニャ・バルバラ』が「古典」と評されるようになった理由は、上記のような単純明快な対立構図だけでなく、多様な要素を貪欲に取りこみ、現実を映しつつも生き生きと独立した空想世界を創造しうる、小説分野の可能性を開拓した点にもあった。物語の強固な縦糸となるバルバラとルサルドの二元的緊張関係に絡んでくる挿話は、彼らが所有する牧場、エル・ミエドとアルタミラ間の陣取り合戦や、知略謀略の渦巻く駆け引きだけには限られない。例えば、次第にルサルドに惹かれ、純真だった少女時代を思い出していくバルバラと、彼女の娘で、ルサルドにより教育を施されていく野生児マリセラとの三角関係という、恋愛小説的側面。ジャノの過酷な自然の「美と恐怖」を飽くことなく精密かつ詩的に活写し、ある意味では本作の心臓部とも言えるネイチャーライティング的な筆致。さらには大地に根差した世界観と一体となった、比喩や言い伝えなどの口承的語り口。小説内で巧みに絡み合うこれらの魅惑的な横糸は、以降のラテンアメリカ小説が独自性を模索すべく追い求めていく、様々な小説作法の原型を萌芽していたと言えよう。

しかしもちろん、『ドニャ・バルバラ』が今も小説として完璧な理想形であるというつもりはない。現代の目から批判的に見れば、本作の限界を指摘するのはむしろ容易に過ぎるだろう。主題面で言えば、野蛮/文明という中心的対立だけでなく、それに付随する善/悪、理性/暴力、男/女などの二分法にも、人種や階級、性差をめぐる家父長的でエリート主義的なステレオタイプが見え隠れしている感は否めない。物語の筋においても、都合のよい展開や解決、性急な心理描写などが惜しまれる部分は散見されるし、勧善懲悪の図式に向けて収斂していく結末そのものに目新しさはない。しかしこのような限界にもかかわらず、読者を引きつけるこの物語と忘れがたい人物たちは、時に意図された二分法的図式を逸脱しさえする深みを覗かせ、物語の縦糸と横糸が成す平面にもう一つの次元を加えてもいるのだ。

一例として、物語の終盤で起こる男/女という二分法からの逸脱を挙げてみよう。それまで無欠の理性と勇気を付与されていたサントス・ルサルドは、牧場の人夫が殺され、挙句に悪徳判事がその事件をもみ消してしまうに至った際、文明化という理想を棄て、狂気と暴力をもってジャノを支配する「男らしさ」を誇示する誘惑に駆り立てられる。理性と文明に結びつけられ過度に美化されていたルサルドの男性性は、ここではっきりと野蛮を体現する性質へと反転しているのだ。一方この変化と対照をなすかのように、ルサルドへの敬意から善を求める気持ちが芽生え、新たな人間に生まれ変わりたいと自我の葛藤を抱くドニャ・バルバラ、そして母であるバルバラへの憎悪と同情、粗野な出自と進歩的教育との板挟みとなるマリセラの心理描写は、徐々に存在感を増していき、激情に満ちた母子の対面、マリセラの新生とルサルドの救済、バルバラの失踪という物語のハイライトを織り成していく。男性に感化される受け身の存在であり、内面の矛盾という弱さを抱えるものとして描かれていた女性たちは、むしろその矛盾をこそ脆くも崩れかける理知的二分法を逸脱する強力な主観的動力としながら、小説にまた別の生命を吹きこむのだ。

二分法的図式を逸脱する多義的な細部は、実は他にも小説のあちこちにみてとれる。そもそもジャノとそこに暮らす人々自体もまた、「奇抜な特徴をあちこちから受け継ぎ」、「すべてが悪と危険ではなく」、「美と恐怖」とを合せもつ混淆物として、文明と対置された「野蛮」の語には汲み尽くせない多義性を与えられていたのだった。再読を誘い、物語のさらなる次元を開示するこうした深みは、作品に戦略的二分法をもちこんだガジェゴス自身が、当の二分法を超え出さえするジャノの本質と抗いがたい魅惑を直感し、切り捨てずに描こうと苦闘する小説家の眼力を備えていた結果に他ならない。そしてその苦闘の果ての自己逸脱にこそ、完成物ではなく出発点であり、答えではなく問いであるような「古典」としての本質の真価がある。ぜひともこの心に残る物語を隅々まで楽しみ、信じ、疑い、読み替えることで自分自身の答えを見出すという読者の特権を、今回の邦訳で存分に享受したい。



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