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図書新聞 2017年3月11日 評者:久保量一(東京外国語大学准教授)
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図書新聞 2017年3月11日 評者:久保量一(東京外国語大学准教授)

〈翻訳不可能な詩を訳すまで〉
名詩の解読のための易しい解説をつけてくれている

およそ10年前、セサル・バジェホの詩を訳すことは不可能であると公言した人物がいる(*)。しかし今ここに、そう言った張本人によって、バジェホのすべての詩が日本語になっている。言ったいこのあいだに何があったのだろうか?

ペルー生まれのバジェホはラテンアメリカの近代的抒情詩(モデルニスモ)の影響下で詩作を開始し、前衛運動を経過して、ヨーロッパに渡った後はスペイン内戦を主題に詩を書いた。19世紀の終わりから20世紀前半にこのような経路をたどったラテンアメリカ詩人は少なくない。すでに邦訳があるオクタビオ・パス(メキシコ)やパブロ・ネルーダ(チリ)、ニコラス・ギジェン(キューバ)の経歴と参照してみると、驚くほど似通っている。ある種の土着性からコスモポリタン的態度、そして民衆への呼びかけを基調とする政治詩という流れである。バジェホが違うのは、ペルーに戻れなかったことだ。

バジェホほ詩は難しい、わからないと言われる。同じペルー出身のバルガス=リョサも、作品に説明がつけられる詩人と説明がつ家内詩人がいるとしたら、バジェホは後者であると言っている。そのわからなさとは、渡欧直前の前衛詩集『トリルセ』で爆発する。そもそも題「トリルセ」が造語で、「悲しい」を意味する「トリステ」と、「甘い」を意味する「ドゥルセ」の混成説が根強いという。でもそれを知ったところで……と思わないのではないのだが、訳者はもちろんそういう大多数の読者がいることを前提に、各詩に読解のための易しい解説をつけてくれている。展覧k内の絵画の横にあるキャプションをイメージしたとのことで、これを出発点に読者は自由に読みを広げればいい。

再びバルガス=リョサを借りれば、バジェホに関する知識−−伝気的事実や歴史的状況、影響のもろもろ−−をすべて知ったあと、それでも読者は暗闇にいて、バジェホの詩の独自性とパワーの秘密、あの謎めいた光輪が何なのかを見抜くことができないのだと言っている。とすれば、日本語の読者もようやく、バジェホの詩のみならず多くのソースを与えてくれるこのほんのおかげで、すでに翻訳の出ている中国語や朝鮮語の読者と同じように、バジェホ読解の出発点に立つことができたのである。

さてそういう中で、評者が気に入ったものをあげてみよう。どれも「雨」がでて来る詩篇だ。「今宵はいつになく雨だから僕は/生きる気になれない 愛する人よ/(…)今宵リマは雨 そして僕は思い出す」(「澱」)。最初期の詩集には、雨を発端に抒情に耽溺するこういう男が出てくるのだが、純な男もそのうち「リマは……リマは雨だ/苦痛の汚い水が/忌まわしい/この雨は/お前の愛の水漏れだ/(…)秘密の縦笛に響く/(…)お前の《いいわよ》の妖術/さらにしとしと小雨が落ちる/俺の道に横たわる棺/お前を思って骨と化す場に……」(「雨」)と歌うようになる。リマの街路でずぶ濡れになって女を思っているのだろうが、雨と縦笛と女−−なんとエロティックなイメージだろう。

さらに読み進めていくと、水のイメージは頻出する。「おお海よ その教育的体積で/俺たちに何を求めるのか!燃える/陽だまりで悲嘆にくれる凄まじい海よ」(「六九」)や、「この雨が降り止むことなかれ/(…)雨よ歌え いまだ海なき浜辺で」(七七)隣、雨や海がバジェホにとって詩作のインスピレーションになっていることがわかってくる。そしてパリで書いた「白石に重なる黒石」に至るのだが、この詩は、パリのラテンアメリカ人の文章を集めた本にも収録されていて読んだことがあった。「雨ふるパリで俺は死ぬ/すでに記憶がある日に/俺はパリで死ぬ−−そして逃げない−−/多分今日みたいな秋の木曜だ」。詩の通り、バジェホは46歳にしてパリで病死した。

後期の政治詩「スペインよこの杯を我から遠ざけよ」は全体の中では異質で、「雨」は出てこないし、詩行を追ってもなかなか共感しづらい。先に名前を挙げたキューバのギジェンも全く同時期に同じような詩を書いている。ただ、ラテンアメリカに出自を持つ詩人なので、スペインを歌いつつ自分の故郷を透かし見ていたはずで、そのような視点から読み直してみることができると考えている。晩年のバジェホはペルーに帰ろうとしていたというから、病気がなければ、前述のラテンアメリカ詩人たちのように、さらに政治的な活動にいそしんだのかもしれない。

しかし、もしバジェホが長生きしていたとしたら、全詩集はまだ日本語になっていなかっただろう。少なくとももっと時間がかかっただろう。単なる分量の問題ではなくて、文体上の問題だ。訳者によれば、翻訳でもっとも苦労したのは、処女詩集から遺作までの文体上の変化だという。そこで最初の疑問に戻る。10年前、翻訳は不可能だと言っていた訳者が翻訳できたのはなぜか。評者はその理由として、訳者がバジェホの年齢を追い越したことが関係していると見る。加えて、この10年というのは、訳者にとってはボラーニョを中心とした現代作家の翻訳を立て続けに出してきた期間でもある。できないと思っていたものができるようになる、それだけの時間が経過したのである。

(*) このエピソードは、日本ラテンアメリカ学会東日本研究部会(2017年1月7日)で、松本健二氏を招いて『セサル・バジェホ全詩集』刊行記念講演をしてもらった時、コメンテーターとして登壇した柳原孝敦氏から披露されたものである。



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