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図書新聞    2012年8月11日    評者:長岡真吾(アメリカ文学)
公明新聞    2012年5月21日    評者:越智道雄(明治大学名誉教授)
日本経済新聞    2012年4月15日
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図書新聞    2012年8月11日    評者:長岡真吾(アメリカ文学)

「オ一ストラリア」そのものを擬人化していく
その歴史の個別性と特異性を、多緩な登湯人物のなかに浮かび上がらせる


本書は「オーストラリア」そのものを擬人化していく小説である。19世紀中葉の入植地を舞台にして、移住と孤独、恐怖と憎悪、優越と劣等などのテーマを含みながら、オーストラリアの歴史の個別性と特異性を多様な登場人物のなかに浮かび上がらせていく。

歴史によれば、オーストラリア大陸に白人が到来するのはアメリカ大陸イギリス人がヴァージニアに入植する前年の1606年のことである。ただし本格的にヨーロッパ人の植民が始まるのは、1770年のクックによるイギリス領有宣言を経て更に20年近くたつた1788年になってからのことだ。それまで流刑入植地にしていたアメリカ植民地が独立してしまったこともあり、イギリス帝国はこの年オーストラリア最初の流刑植民団を現在のシドニー付近に送り込む。この後1828年の全土英領宣言、40年の流刑廃止、51年の南部でのゴールドラッシュなどにより、オーストラリアへの植民と土地の開拓は急速に進んでいく。それは同時に、階級間対立、先住民の大量虐殺、中国系移民への迫害などの暴力と憎悪をも拡大させていったことを意味する。自治領となるのが1901年であることを考えれば、19世紀のオーストラリアはわずか1世紀ほどで急速に「白人化」していったのである。

本書の作者デイヴィッド・マルーフが描き出す小説世界は、そうした時代の文脈の上に塗り重ねられていく。主な舞台はオーストラリア東海岸の、当時まだ州に昇格していなかったクイーンズランド植民地。ブリズベンから千キロほど北上したところにある開拓民の村で物語は始まる。そこは「ほんの三年前」までは「あっち」側に、白人にとっては未知の領域に属していた土地である。焼けつくような夏の午後、3人の白人の子どもと1匹の犬が、決して行ってはならないと大人からいわれている「あっちの世界」との境界で遊んでいる。そこへ、熱暑に揺れる蜃気楼のような細長い形をして、得体のしれない生き物が、突如として飛び跳ねながら近づいてくる。3人のなかの男の子が棒切れを銃に見立てて狙いを定めてみせると、その生き物は境界の柵の最上段に跳び乗り、両腕を大きく振り回して、撃たないでくれと叫ぶ。そしてバランスを崩し、境界のこちらか「あっち」か、どちらかに落ちそうになる。この場面を子どもたちは生涯忘れないことになるのだが、次の瞬間、彼等の足元にそれは転がり落ちてくる。

最初「土着民」に見えたそれは、実は白人の男であることが判明する。こうして物語の中心人物のひとりであるジェミーが村に「戻って」くる。かつて海岸に打ち上げられたところを先住民に見つけられ、それ以来彼らとともに暮らすようになった彼は、16年ぶりに白人の世界に復帰するのである。しかし、「土着民」の言葉のほうが堪能で英語はほとんど忘れてしまい、吃音もひどく、たえずご機嫌を取るような態度をとり、裸同然で、「肉と泥のにおいを混ぜ合わせたような、土着民特有のにおい」を放っている。白人であるにもかかわらず、村人たちはジェミーの姿に「土着民」を透かし見る。ジェミーはいくつもの意味で境界に生きる存在である。先住民とともに暮らしていたときにも、その異質性から集団の周縁に置かれ、かろうじて命を繋いでいた。白人社会に戻っても、最初から「土着民とも白人ともつかぬ男」であるとされ、まるで「白人のパロディ」であると表現される。ジェミーを好意的に受け入れて世話をする人たちもいれば、「あっち」の未知の世界を見てきた希有な体験者としてその知識を求める人々もいる。そして、こちらを襲撃しようとしている「土着民」と通じたのスパイであると疑って一方的に強迫観念に取り憑かれ、ジェミーを危険視する人々も出てくる。こうした目に見えぬ対立関係は、やがて実際に二人の先住民がジェミーを密かに訪ねてきたことが目撃されるにいたって、加速度をつけて憎悪と暴力の事件へと発展する。

しかし、それはまだ物語中盤の通過点である。「土着民」で具体的な名前を与えられた人物はひとりも登場しないという意味で、この小説は異文化の衝突に焦点を置いているのではないともいえる。むしろジェミーという境界の存在が、白人共同体にとってどのような意味をもつのか、その問いが彼に関わる人々によって幾重にも受け継がれていく物語である。ジェミーはいわばリンクである。彼がいろいろなものを結びつけると「あっちの世界」との境界が揺らぎ始める。一方で故郷のスコットランドやイングランドが美化され、オーストラリアの「恐ろしいわびしさ、幽霊さえいない孤独」が浮き彫りになる。子どものひとりだったジャネットが思い出して問う。ジェミーは「あの土地そのものが3人めがけて投げつけてきた、みすぼらしい破片。あるいはそれは、あの土地の歴史の一部だったのかもしれない。それとも未来をも含めた3人の歴史の一部だったのかも」と。そのようにして「オーストラリア」はこの小説のなかであらためて発見され、寓意化されていく。

マルーフの描き方には、ガルシア・マルケスを思わせる幻想性と即物性の共存がある。本作は「オーストラリア現代文学傑作選」というシリーズの第一弾であるという。次が待ち遠しい。
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公明新聞    2012年5月21日    評者:越智道雄(明治大学名誉教授)

〈豪州白人の気風を掘り下げ〉

来るべきアジア版のEUは、大国・仏独中心のヨーロッパEUと異なり、アセアン連合が枢軸となりつつある。他方、豪州は米国と連携、アジア版EUに関わる決意だ。

米国の攻撃的なフロンティア・スピリッツに比べて、豪州はマイトシップ(相棒心理)という防御的な気風で、アジアへの侵略は行わなかった。

この小説は、豪州白人のこの気風を新たな角度から掘り下げている。まず著者がレバノン系で、祖父母がアラビア語オンリー、父親は著者にアラビア語を隠し、英語オンリーで育てた。この事実は、多民族社会という点では豪州が米国と変わらないことを示す。

次に、本書では幼時から先住民の間で育てられ、英語が片言の白人青年が白人開拓地に入り込み、白人側の防御的気風が活性化する。恐怖をかきたてる「他者」が先住民ですらなく、「先住民に育てられた白人」である点が、「精神の白夜」とでも呼ぶしかない開拓白人の弱さを強調する。

本書の原題『バビロンを想起して』は、白人らの「精神の白夜」が、棄ててきた英国(バビロン)を未だに拠り所とする、究極の防御姿勢に起因することを示す。その弱さは、少数派・レバノン系のマルーフには、手に取るように見て取れた。

本書の主役は、例の白人青年を開拓地に連れ帰ったスコットランド系の幼い従姉弟だ。この2人は青年を恐れず、起居をともにし、成長して尼僧と政治家になる。つまり、精神の白夜の呪縛から脱皮、キリスト教と英国風の政治を人生の中心に据えるが、先住民とも関われる強さを鍛え上げた。例の青年は、この2人の白夜脱皮で触媒の役を果たしたのだ。2人は再び奥地へと去った青年を忘れず、政治家は彼の最期を突き止め、尼僧に報告するのである。これは、アジア版EUという新たなマイトシップで豪州が一役も二役も果たせる可能性を示唆している。
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日本経済新聞    2012年4月15日

〈豪の現代文学傑作選を刊行〉

現代企画室は「オーストラリア現代文学傑作選」の刊行を始めた。初回はデイヴィッド・マルーフ著『異境』(武舎るみ訳、24OO円)。豪文学研究者の有満保江氏とケイト=ダリアン・スミス氏が現代豪州の動きを映す話題作や人気作、問題作を選び、10年かけて1年1作のペースで紹介していく。

豪文学は日本ではなじみが薄いが、1973年にノーベル文学質を受賞したパトリック・ホワイトに続き、独特の昧を持つ作家が次々と現れている。豪州は単一民族、単一言語、単一文化の白豪主義を掲げていたが、70年代に多文化主義政策へ転じ、様々な地域から移民を受け入れるようになった。これを機に多様な文化的背景を持つ作家が英語で作品を書き始めている。

マルーフ氏は34年生まれ。レバノンやポルトガル系ユダヤ人のルーツを持つベテランで『異境』は開拓期を舞台に開拓民と先住民アボリジニの世界の接触を描いた代表作。今後は60年生まれのテイム・ウイントン氏の作品などが予定されている。



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