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図書新聞  第2981号    2010年9月11日    評者:小倉利丸(富山大学、現代資本主義論)
季刊ピープルズ・プラン51号    評者:栗原幸夫(元・AA作家会議会員)
インパクション  175号    2010年7月    「パレスチナを読む」    評者:越田清和

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図書新聞  第2981号    2010年9月11日    評者:小倉利丸(富山大学、現代資本主義論)

〈国家は絶対に必要なものか―日本の植民地主義と深く関わるパレスチナ問題〉

本書は2008年から09年にかけて、編者が主催した「連続セミナー・〈ナクバ60年〉を問う」における講師の講演を収録したものだが、全体のまとまりと視点の深度と拡がりという点からみて、出色である。

第1章「パレスチナの民族浄化とシオニズム」(臼杵陽、阿部浩己)では、パレスチナ問題の歴史的な概観と国際法が抱えてきたイスラエルとパレスチナをめぐる法枠組としての限界とジレンマが論じられる。第2章「占領のノーマライゼーションと中東の分離」(早尾貴紀、酒井啓子)ではシオニズムや「国民」という概念とパレスチナ人のアイデンティティの問題が難民問題も含めて語られる。第3章「アラファート時代の自治政府――抵抗/権力の課題に向き合う」(奈良本英佑、太田昌国)では、オスロ合意や晩年のアラファートの腐敗、そして解放闘争の手段としての武装闘争をどのように位置づけるかといったいくつもの難問が語られる。第4章「アパルトヘイトの経験とイスラエル/パレスチナ」(峯陽一、鵜飼哲)では、パレスチナ問題を南アのアパルトヘイトからポストアパルトヘイトの時代に至る南アの経験と比較しながら、安易なパレスチナ問題=アパルトヘイトという類推を避けつつも、パレスチナ問題が、個別パレスチナに固有の問題としてだけでなく、近代国民国家のシステムが本質としてもつ排除、差別、統合の構造とこれに対する民衆の抵抗のありかたを論じている。第5章「パレスチナ難民の法的地位と選択権」(錦田愛子、板垣雄三)は、パレスチナ難民の実像を紹介しながら、難民問題(帰還権問題)の解決を困難にしている事情を、イスラエルだけの問題ではなく、周辺アラブ諸国にもその責任があると同時に、グローバルな世界の支配体制と密接に関わる問題であること、難民と国籍、市民権など基本的人権の問題を、人間の本質的なアイデンティティの問題としてよりもむしろ人権の保障手段として捉えるべきことなどが提起された。

本書の表題にあるように、パレスチナ問題をひとつの鏡として、私たちが常識のように前提している国家、国民、国境、民族、宗教といったもろもろの「与件」を改めて問い直すという点で刺激的な問題提起が数々なされている。本書の語り手たちに共通していることとして、ユダヤ教とイスラム教、あるいはイスラム教内部の対立といったイデオロギーから現実を見るのではなく、むしろ国際政治の歴史的な経緯をふまえた政治や経済の関わりを重視していること、ユダヤ人もパレスチナ人も一つではなく、そのアイデンティティのあり方は多様なことに、とりわけ注目している。しかし、パレスチナの問題は、多様性や多元主義や共生といった口当たりのいい言い回しでごまかしがきくようなことでは全くないことも本書の語り手たちに共通した認識だ。イスラエルという国家は、非自生的な近代国民国家の抑圧のプロトタイプ(日本も実は、もう一つのプロトタイプなのだが)であり、そこには近代国民国家の本質が凝縮しており、そのことが、これらの口当たりのよい言い回しの欺瞞を明確にしている。国家は絶対に必要なものか、民族や宗教のアイデンティティは絶対的なものか、という問いを、本書は、パレスチナ問題を超えて、「日本」や「日本人」という概念に込められた過剰なナショナリズムを反省するきっかけを与えてくれる。

板垣雄三が指摘しているように、日本は第一次世界大戦後のサンレモ会議で、日本の太平洋諸島の委任統治を認めてもらう代わりに、イギリスによるパレスチナの委任統治を支持した。パレスチナ問題は、日本の植民地主義と不可分な関係にある。パレスチナの問題は日本の植民地主義と深く関わっているのだ。天皇を含め、当時の日本の支配層たちが「パレスチナ」の問題を日本のアジアへの植民地支配と関わらせてどのようにイメージしていたのだろうか。かれらが、西欧列強諸国に自らを重ね合わせていたことは間違いない。このようにしてできあがってきたのが近代「日本」であり、「日本人」のアイデンティティなのではないか。このように、本書は、パレスチナという鏡を通じて日本の植民地主義を反省するうえで欠かせない示唆も与えてくれる。
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季刊ピープルズ・プラン51号    評者:栗原幸夫(元・AA作家会議会員)

私たちはいま、「現実主義」の厚い壁に囲まれている。これは既成事実の前に立ちすくみ、そこからの出口を探しあぐねている私たちの姿だ。私たちを取り囲む既成事実を、動かし難い現実ととらえ、それに対する違和感を、もっぱらその現実のなかだけで解消しようとする「現実主義」に立つ限り、私たちには、そこからの出口は見えてこないだろう。50年前の反安保闘争を忘却の淵に沈めて、日米軍事同盟という既成事実のなかでいくら模索しても、沖縄の米軍事基地の問題は解消の糸口さえ見出せないだろうという体験を、私たちはもったばかりだ。

この本の全体をつらぬく思想的なバックボーンは、このような「現実主義」に対する、事実を踏まえた徹底的な批判にほかならない。

5章10編の論文から成るこの本は、パレスチナとパレスチナの人びとに関心をもち、それに対する多様な考えを交流させる「広場」としてつくられたミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉という小さなグループが、2008年に開催した「〈ナクバ60年〉を問う」連続セミナーの記録がもとになっている。アラビア語で「ナクバ」(大災厄)と呼ばれるパレスチナの人びとのうえにふりかかった悲惨な出来事と、イスラエル国家の人工的な創出が彼らにもたらした悲劇の数々は、一例をあげれば、ガッサン・カナファーニーの「ハイファに戻って」という作品のなかに活写されている。

しかしそれから60年がたち、人びとは、たとえばガザへの支援物資を運ぶ船団がイスラエル軍によって国際法に違反して襲撃され死者を出し、拿捕されるという事件に、正当にも憤りを感じ、マスメディアも批判的な論説をかかげることはあっても、そのような事態がおこりうること、それが国際政治のなかでほとんど微弱な反応しか起こさないことの根源にまではせまることなく、いままでのいくつもの事例の一つとして、忘れ去られてしまう。

アメリカの主導でおこなわれる「中東和平」の構想が、つねに1967年の第三次中東戦争でイスラエルが占領した地域の返還をめぐる問題に限定され、ナクバがおこった1948年が問題になったことはほとんどない、と指摘したうえで、「パレスチナの民族浄化と国際法」を報告した臼杵陽は、1967年を原点にして和平交渉を行う欺瞞性をするどく指摘している。現在、パレスチナの人びとがおかれている既成事実をあたかも動かしえない現実であるかのように考え、その枠のなかで試行する限り、パレスチナ問題の解決はあり得ないのである。いま、われわれを取り囲んでいる「現実」を変えるためには、つねにその「現実」の起源にまでさかのぼって、考えなければならない。そうすれば、この「現実」はありうべき唯一の現実なのではなく、それとは違った現実の可能性も見えてくる。本書に一貫して流れているのは、このようないまとは異なった現実の可能性をさぐろうという試みである。

この本の多岐にわたる論点のすべてを紹介しそれを論評することはできない。パレスチナ問題に対する国際法からの考察、ディアスポラについての歴史的な展望、また、ナチスの民族浄化や南アフリカのアパルトヘイトとの対比における類似と相違、などなど、パレスチナを考えるにあたっての歴史的な視点から、私は多くを学ばせてもらったことを書き添えたうえで、かつて私自身がその末端に身を置いた、いわゆる「国際連帯」の運動、なかんずくパレスチナ解放運動との連帯について、若干のコメントを記しておきたい。本書のこの部分が、私の経験に照らしてきわめて重要かつ刺激的におもえたからである。

第三章「アラファート時代の自治政府――抵抗/権力の課題に向き合う」を構成する二つの論文、「自治政府の何が問題だったのか」(奈良本英佑)と「パレスチナ解放闘争以前と以後の問題」(太田昌国)が、この問題に深く関わっている。ここで論じられている課題も多岐にわたるが、その中心は解放運動の主体にかかわる問題である。

その論点を簡略にまとめると、つぎのようになる。まず第一は解放運動における武装闘争について。ふたりの論者はともに、60年代と70年代の武装闘争を頭から否定はしない。カナファーニーは「太陽の男たち」という作品で、給水車のタンクに閉じこめられた男たちが、いくら叫んでも外の人たちに伝わらない状況を、パレスチナと世界との関係として象徴的に描いたが、あの状況を打破するためにとられたハイジャックという戦術を、今日の非暴力の立場から単純に否定するとしたら、それは歴史をあまりに平板にとらえているという批判をまぬがれないだろう。しかしそれに続く武装闘争偏重の路線は、多くの問題を生んだ。奈良本英佑はそれを端的に「一言でいえば、武装闘争が暴力的な政治文化を遺産として残す。その政治文化は、民主主義の原則と衝突する」と指摘し、「パレスチナでは、基本的に、武装闘争の時代は終わった」と主張している。私はこれに同感する。

第二に、武装闘争の秘密主義である。これは武装闘争主義が必然的に生みだす歪みにほかならない。それは民衆と運動指導部との避けがたい乖離を生みだす。この乖離によって指導部は国家権力的なものへと変質していく。第三に、腐敗である。援助という形で流入する多額のオイル・マネーが組織の金権体質と腐敗を生みだす。組織の閉鎖性と非公開性が、それを増大させる。――奈良本はこれらの歪みの事実を挙げながらくわしく叙述している。私の体験に照らしても、これらの指摘は正しいと思われる。

太田昌国は、50年代のバンドン会議以降の歴史を振り返りながら、第三世界の解放運動が国民国家の実現に終わった経緯を批判的に描き出している。私たちがかつてパレスチナ解放運動に強い連帯感を抱いたのは、彼らの運動が国家の枠におさまらず、国民国家の実現にとどまらない性格を持っていたからだ。その期待と夢を太田はある思いを込めて描いている。

60年代の末から70年代にかけて、少なからぬ日本人がパレスチナの解放運動に連帯し、その闘争の現場に参加したグループもあったことは記憶に生々しい。しかし私自身の経験に即して振り返ってみると、連帯の相手についての認識はかならずしも透徹したものではなかったように思う。いろいろな局面で、疑問が吹き出るようなことを経験しても、パレスチナの圧倒的な悲劇と東西冷戦という状況の前では、それを押し殺していくしかないと考えていたのである。このような、運動主体に対するいわば応援団的な関係が、パレスチナの人びとにとって必ずしも良い方に働いたとは言えないのではないかと考えるようになるのは、90年代に入ってからだった。もちろんその間にも、難民キャンプに定住して医療活動に従事した人たちや、文化的な交流の場を作り出すことに努力した人びとがいたことを否定するつもりは毛頭ないが、連帯運動のなかに、少なくとも私自身のなかに、そのような歪みがあったことは否定できないのである。

太田昌国はつぎのように語る。――「1950年代の、革命や民族解放を通して新しい国家を樹立するということが夢に溢れていた時代、それらが60年代、70年代にどんどん実現していった。それらがアジアやアフリカ、ラテンアメリカにおいて、どのような国家として現実化しているかということを見届けた時代を私たちは生きています。それは、ある意味で、幻滅の時代であります。」

このような幻滅の時代に身をおいてはじめて、私たちが参加した連帯運動の弱みや、対象とした相手側の歪みを語りはじめることができたという、痛切な思いを私は噛みしめる。しかしそれがいまの私たちが置かれている現実であり、そこからしか、もう一つの現実への道は拓けないのである。ここから、私たちは前進をはじめよう。

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インパクション  175号    2010年7月    「パレスチナを読む」    評者:越田清和

〈パレスチナと日本をつなぎ、考える〉

刺激的な一冊だ。パレスチナとイスラエルをめぐる問題について、10人の論者がさまざまな視点から分析している。しかし、展望が見えないパレスチナをめぐる状況を何とかしたいというトーンはすべての論者に共通している。また、パレスチナについて考えることは、日本社会のあり方やそこに生きている自分の立脚点・姿勢にそのままつながることを実感させてくれる本でもある。

この本は、ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉が2008〜09年にかけて行なった「連続セミナー・〈ナクバ60年〉」をまとめたものだ。ミーダーンは、この連続セミナーに前後して、イスラエル出身の歴史学者イラン・パペの講演集をまとめ、「民族浄化」というパレスチナ・イスラエルを考えるときの新しい視点を、私たちに紹介してくれた。この本も、私たちがパレスチナを考えるときの視野を広げてくれる。

一つのテーマについて二人の講師が話すというスタイルなのだが、テーマ設定が現実そのものと結びついているものなので、どのテーマでも、緊張感をもった二人の講師の話がうまくかみ合っている。編者が「はじめに」で「現在のパレスチナ/イスラエルに関わる問題ほど研究者と市民、活動家、ジャーナリストなどさまざまな立場の人びとの経験と知識の共有が求められている場はない」と書いているが、それが伝わってくるような構成になっている。

以下にテーマと講師を紹介しておこう。「パレスチナの民族浄化と国際法」については臼杵陽と阿部浩己、「占領のノーマライゼーションと中東の分離」は早尾貴紀と酒井啓子、「アラファート時代の自治政府――抵抗/権力の課題に向き合う」は奈良本英佑と太田昌国、「アパルトヘイトの経験とイスラエル/パレスチナ」は峯陽一と鵜飼哲、「パレスチナ難民の法的地位と選択権――現実をふまえた展望を考える」は錦田愛子と板垣雄三。多彩なテーマと講師である。

私は「パレスチナ/イスラエル問題」に関心を持ってはいたが、その歴史と問題の表層を知るだけで手一杯となり、何を切り口に問題としていけばいいのか、自分と重ねて考えることはほとんどなかった。「パレスチナとイスラエル」しか切り口がなかったのだ。しかしこの本は、パレスチナ/イスラエルのことを、国際法や占領という普遍的な概念から分析し、イラクや南アフリカなどと重ね合わせて考えようとする。そこが新しい。

パレスチナ解放運動の代名詞とも言えるPLO(パレスチナ解放機構)とアラファートの功罪を取り上げた第3章は、オスロ合意以後にできたパレスチナ暫定自治政府の問題を、パレスチナにおける解放闘争の歴史や政治文化ともつなげて議論している。奈良本英佑は、イスラエル軍によって破壊された西岸地区の復興のためにエジプトが格安で提供したセメントが自治政府幹部の親族によってイスラエルの業者に売られ、分離壁の建設に使われた例、治安警察による拘束や暴行、拷問、軍事裁判による死刑の問題を指摘する。しかしそれは高見に立ってPLOを指弾するものではなく、革命運動や解放運動が国家や社会を建設するという段階になった時に草の根民主主義をどこまで尊重できるかという問題として提出される。もう一人の講師である太田昌国は、奈良本の指摘を受ける形で、PLOの解放闘争を国家と暴力、社会変革と非暴力という文脈から議論する。

同じ問題は、第4章でも論じられる。峯陽一は、南アフリカの反アパルトヘイト運動の歴史を振り返り、アパルトヘイトの枠組みを完全に解体した現在の南アフリカで下層の棄民化と暴力的なゼノフォビア(外国人嫌悪)という問題があると言う。この問題が生まれた背景にはANC(アフリカ民族会議)など解放運動の弱さもあったのではないか。黒人の団結を説いたANCは、制度的な人種差別が撤廃された後に黒人が階層分化していく現状には直接語るべき言葉を持たないと指摘する。

ではこの新たな境界線を越えるのは誰か、峯は「自分の立ち位置が被害者から加害者へと入れ替わってしまう時に、私たちは政治的な首尾一貫性を、自分たちなりのやり方で貫き通すことができるか」という問題提起をする。解放闘争とその主体をめぐる問題は、当然にも、そこと連帯しようとしていた側にもはね返ってくる。

峯の指摘を受ける形で、鵜飼哲は、外からの支援や連帯を追求する側は「パレスチナの解放主体をどのようにとらえ、連帯していくのか」という今・ここの問題を提起する。これはパレスチナの問題ではなく、「〈鏡〉としてのパレスチナ」に映し出される、私たちの姿は何かという問題である。

板垣雄三は、現在の「パレスチナ人」とは、イギリスの委任統治によってつくられたパレスチナという枠組みの中にいた人たちのことではなく、「1967年の戦争の前後から、自分たちを追放し抑圧しているイスラエル国家に向かって、そろって抵抗運動を組織するなかで」「自分たちはパレスチナ人なのだ」という民族としての意識を獲得してきた人たちだと指摘する。「パレスチナ人」という自明の民族がいるのではなく、個人が自分の中で民族を実現するのだから、パレスチナ人にとって「故郷に帰る・自分の家に戻るとは、たとえば、自分の家に植えていた、あのオリーブの植わっているあの場所に帰りたい」ということを言い続けることであり、パレスチナ国に帰るということではない、と板垣は言う。

もしそうだとすると、その〈鏡〉にうつる私(たち)の姿も、「日本人」などという枠組みを越えようとするものであるはずだ。たしかに、この本で多角的に語られるパレスチナ/イスラエル問題と日本という国家を重ねてみると、これまでぼやけてしか見えなかった日本国家の問題がはっきり見えてくる。それが、この本のもう一つのメッセージである。



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