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ハヤカワミステリマガジン 2010年8月号 評者:松坂健
出版ニュース 2010年6月中旬号
読売新聞 2010年6月13日(日) 評者:今福龍太

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ハヤカワミステリマガジン 2010年8月号 評者:松坂健

〈「第七圏」の叢書目録〉

今月もミステリにまつわる様々な本とお付き合いしたが、いちばん楽しい時間を過ごさせてもらったのが、アルゼンチンの幻想小説家、ビオイ=カサーレスの『メモリアス ある幻想小説家の、リアルな肖像』の第19章、100頁から110頁にかけての部分だった。ここでは、カサーレスが文学上の盟友、ボルヘスとともに、ある出版社のためにミステリの叢書を計画する風景が回想されている。ボルヘスが大のミステリファンであることはよく知られているが、カサーレスも同様で、二人揃ってアイドル視していたチェスタートンへのオマージュとして『ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件』(岩波書店刊)を供作しているほどだ。

そんなふたりの対話が楽しくないわけがない。叢書名はダンテの8つの地獄の七番目、暴力者の圏からとって、「第七圏」として、それぞれ好みの作家の名前を出し合う。ボルヘスがイーデン・フィルポッツを大いに評価しているなんて話は初めて聞いた。日本では乱歩さんの推挽もあって『赤毛のレドメイン家』が生きながらえていたのに、最近のミステリファンがこれに目もくれなくなったのは、惜しい限りだ。ボルヘスによると、チャンドラーたちハードボイルドに出てくる悪党は単純で戯画化されすぎで、むしろフィルポッツやアンソニー・ギルバート(!)の作品に、より複雑で人間味のある悪党が登場している、というのである。なんか、こういう意見を聞いていると楽しくならない? ぜひとも、この「第七圏」の叢書目録を入手したいな。(一部抜粋)

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出版ニュース 2010年6月中旬号

〈私はボルヘスから、けっして記憶には頼らずいちいち原典にあたることの大切さを学んだだけでなく、現代人の卑俗な生活から距離を置くことの必要性を教えられた〉〈私にとってボルヘスは、いわば文学そのものを体現した存在であり、彼はおそらく、文学に対する情熱をこの私もまた共有しているはずだと確信していたにちがいない〉アドルフォ・ビオイ=カサーレス(1914〜1999)は、アルゼンチンの作家。多くの幻想的な文学作品を生み出したことで知られる。本書は、晩年になって自らの人生を振り返ったもので、盟友ボルヘスの思い出、農場経営者として暮らした田園生活、書物遍歴など、異才作家の意外な素顔が描かれる。秘蔵の写真も豊富に。

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読売新聞 2010年6月13日(日) 評者:今福龍太

〈記憶と幻想の物語〉

アルゼンチンの広大なパンパの農場で生まれ育った作家にとって、馬の存在が淡い記憶の端緒にある。幼少の彼は馬に変身した自分を想像して不思議な快楽に耽りつづけた。家の者が、牧草を口に入れる彼に深いな味のする薬を飲ませ、彼を無理矢理現実に引き戻すまで……。

こんな書き出しから、この回想録は一気に読者の心をつかむ。自伝的な日々のリアルな描写が、不意にイマジネーションヘトずれてゆくぎりぎりの瞬間。幻想的な短篇を自家薬籠中のものにした作家が、80歳になったとき、自身の記憶もすでに、模糊とした時の壁の向こう側で、幻想と境を接する不思議な物語として透視されている。鮮烈な記憶にも、どこか澱みがある。

ビオイ=カサーレスはボルヘスと並び、アルゼンチン文学における短篇の名手として知られる。だが長篇、短篇という形式による分類は便宜的なものに過ぎない。作者は自身の夢を「現実の夜の部」と呼び、夜の飛躍を現実そのものとみなして小説世界に取りこんだ。夢が目覚めによって切り取られてしまう以上、物語は短い断片になる他はない。それは形の上では短篇であったが、人生のあらゆる局面の記憶を凝縮した深く豊かな濁り水を常にたたえていた。

そんな作家の自伝が、断片的記憶をつうじて、一つの人格が80年を生き抜いたという深い感触を与えてくれるものにならないはずはない。生には光と影が同時につきまとう。ピノキオの物語を耽読した少年は、そうした冒険譚が語る日常の些事の描写の方にむしろ惹かれていたりする。祖国のガウチョ小説『マルティン・フィエロ』の野性に魅せられ、一方で『宝島』の海洋ロマンに没入する二人の少年の同居。盟友となったボルヘスの思い出や、作家たちとの陰影に富む交友関係をめぐる挿話も興味深い。自己を振り返り一族の歴史を眺めわたしたとき、それもまた一篇の冒険譚であったことに作家は気づいた。大西亮訳。

◇Adolfo Bioy Casares=1914〜99年。アルゼンチンの作家。代表作に『モレルの発明』。




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