『チェ・ゲバラ AMERICA 放浪書簡集』 日本語版解題

2私たちはこれまで、キューバ革命に関わる以前のエルネスト・チェ・ゲバラの著作を二冊翻訳・紹介してきた。それは、
一、『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』(一九九七年初版、二〇〇四年増補新版)

二、『チェ・ゲバラ AMERICA 放浪書簡集――ふるさとへ 1953-56』(二〇〇一年、編者は、父親であるエルネスト・ゲバラ・リンチ)である。これに、今回、新たに本書が付け加わる。

三、『チェ・ゲバラ ふたたび旅へ――第2回AMERICA 放浪日記』(二〇〇四年)
 これによって、「自覚的な」革命家になる以前のチェ・ゲバラが書き残し、現
在までに公刊された三部作がすべて紹介されたことになる。


 前記『チェ・ゲバラ AMERICA 放浪書簡集』の「解題」にも記したように、一回目のモーターサイクル旅行から帰国した医学生ゲバラは、取り残していた単位を取得し、アレルギーに関する論文を書いて、医学博士となった。

そして、一回目の旅行の同行者、アルベルト・グラナードが居残ったベネズエラのハンセン病院で、共に働くという約束を果たすために、二度目の旅に出た。今回の同行者は、カリーカことカルロス・フェレール。幼児時代、アルタ・グラシアに住んでいた頃からの友人である。

 その後の旅の経過については、ゲバラ自身が書き残した本書を読み込むことが何よりも大事なことだということを前提に、いくつかの傍証を付け加えておきたい。

ゲバラは旅の途中で、フアン・ボッシュ、ロムロ・ベタンクールなど、その後のラテンアメリカ現代史で重要な役割を果たす人間たちと出会い、その段階で先を見通したような的確な評価をそれぞれに与えていることは、「序文」でアルベルト・グラナードが言うように、興味深い。また、若干批判的な評価を下しているかに見えるが、メキシコにおけるオルフィーラとの出会い(一二一頁)も、このままでは終わらない。

ペロン評価をめぐる論議で登場することからも分かるように、彼はメキシコに在住していたアルゼンチン人で、アルナルド・オルフィーラ・レイナルという。

彼が当時主宰していたと説明されている出版社フォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ(直訳すれば、「経済文化基金」)は、当時から「メキシコ」「ラテンアメリカ」「世界」認識のための基本書を出版目録に揃えている、有数の出版社であった。

オルフィーラは一九六〇年代には、出版社シグロ・ベインティウノ社(二一世紀社)の創設に関わり、これもまた、六〇年代以降の政治・思想状況の中で欠くべからざる書物を、次々とスペイン語世界の読者に紹介し続けてきた、ユニークな出版社である。チェ・ゲバラの死後、彼の著作も同社の目録に加わることになる。

一九八〇年代に入って間もなく日本で出版活動に加わった私たちも、リカルド・ポサス+清水透『コーラを聖なる水に変えた人々』(清水透訳、一九八四年)の第一部「フアン・ペレス・ホローテ」や、ドミティーラ『私にも話させて』(唐澤秀子訳、一九八四年)をはじめ、オルフィーラが関わったふたつの出版社から刊行された数々の書物を翻訳・紹介したり、参照したり、さらには選書上の重要な助言を受けたりしてきた。

ゲバラ日記のような歴史的な証言の中に、三〇年後に私たちも、書物と手紙を通して親しむことになる人物が登場してくるのを見ると、人と人との繋がりの不思議さに打たれる。

また本書にも登場するアルゼンチン人弁護士リカルド・ロホと、後にゲバラと結婚することになるペルー人イルダ・ガデアはそれぞれ、ゲバラとの出会いに関する著書を著している。

リカルド・ロホの著書は “Mi amigo el Che”, RicardoRojo, Merayo Editor, Buenos Aires, 1968.(これは、かつて日本語に翻訳された。伊東守男訳『わが友ゲバラ』、早川書房、一九六八年)であり、イルダ・ガデアの著書は“”Che Guevara:Anos decisivos”, Hilda Gadea, Aguilar,Mexico, 1972.(日本語訳はない)である。

リカルド・ロホの本は全三部に分かれ、第一部で、一九五三〜五六年の放浪の旅における、ボリビアからメキシコまでの随所におけるゲバラとの出会いに触れている。当時二九歳で、弁護士の仕事をしていたロホは、アルゼンチンの政権を掌握していたペロン党と対決する政党、急進市民連合に所属する活動家でもあった。

ペロンの演説中に起こったダイナマイト爆発事件の容疑者として逮捕され、ブエノスアイレス警察署に拘留されていたロホは、一計を案じて脱走を図り、これに成功、同地のグアテマラ大使館に駆け込んで政治亡命を要請した。

数週間後にそれが叶えられ、チリ経由でボリビアに入国し、ラパスのイサイーアス・ノゲス家(本書二八頁)でゲバラとの最初の出会いがなされたようである。

ゲバラがこの日記でロホの存在に触れるのは、ペルーのリマでばったり出くわした時の記述(本書三八頁)が最初であるが、この再会の場所をロホはペルー北部のツンベスであったと記している。

どちらが正確なのかはわからないが、ゲバラのこの日記は、日々の記録をその場で逐一書き記していたものではなく、一定の期間のことをまとめて要約的に書いている箇所も散見されるので、些事にこだわることなく、記述に見られる思想の変容過程にこそ注目して読むべきなのだろう。

ロホは、ボリビア滞在時代のゲバラを、考古学に熱心な関心を抱く青年として描き、それに無関心なロホらを置き去りにして、ティワナコ遺跡などへも出かけるエピソードも伝えている。ロホの記述によれば、ゲバラ、カリ―カ、ロホの三人はボリビアを出国してペルーに入り、クスコまでは共に旅行したことになっている。

ゲバラは、サクサワマン城砦に魅せられ、クスコに留まったという。本書に収められている「マチュピチュ論」や、グラビア頁に収録されているメキシコのチチェン・イツァやウシュマルなど多数のマヤ遺跡の写真を合わせ見れば、考古学に対するゲバラの関心が一朝一夕のものではなかったことがわかる。

その後もロホは、エクアドル、中米各国、最後にはメキシコでもゲバラと出会うことになり、この本にはその時々の断片的なエピソードが書き込まれている。第二部では、キューバ遠征・革命勝利・革命初期の状況に触れ、第三部では、コンゴとボリビアへの遠征についても触れている。

原著が、ゲバラ死後一年目の一九六八年に早くも発行されたことを思えば、ロホの情報通ぶりがわかるが、アルゼンチンに住むゲバラの両親・弟妹は、ロホのこの本には間違いや虚言が多いとして批判的であったし、この本の刊行直後、当時人民ゲリラ軍のメンバーとしてアルゼンチンの獄中にいた人びとも、「CIAと密接な繋がりをもつ」ロホが、歪んだゲバラ像を描き出したとして弾劾していたことには、その真偽をいかに判断するかは別にしても、触れておくべきだろう

(フェデリコ・テパリスト・メンデル、フアン・エクトル・ホウベ「リカルド・ロホ『わが友ゲバラ』を弾劾する」、世界革命研究会『世界革命運動情報』一五号、一九六八年一一月、レボルト社)。

いずれにせよ、ゲバラとロホがボリビアで出会った一九五三年七月に、キューバではフィデル・カストロらが政府軍のモンカダ兵営を攻撃していたこと、一九五四年、グアテマラ侵攻を狙うカスティーリョ・アルマスは米国の支援を受けて隣国ホンジュラスで傭兵の募集に躍起になっており、そこには朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)に参加して、休戦協定締結後は「失業」したコロンビア人やキューバ人が含まれていたこと――など、同時代性を強く意識した筆致からは、当時の世界状況を知るうえで示唆される点も多くあると思われる。

イルダ・ガデアの本も、グアテマラでのふたりの出会いから、メキシコでの生活・結婚の経緯・キューバ遠征の準備状況、そしてキューバ革命の勝利・離婚の経緯・革命初期の様子などを知るうえで、貴重な証言である。ここから得た情報のいくつかは、本書「ゲバラの第2回目 AMERICA旅行の旅程」(八〜九頁)に生かしてあるが、それ以外のことで興味深いエピソードを紹介しておきたい。

エクアドルでゲバラは、作家ホルヘ・イカサに出会っており、彼から贈呈された代表作『ワシプンゴ』をグアテマラでイルダに贈っている(日本語訳は伊藤武好訳、伊藤百合子解説『ワシプンゴ』、朝日新聞社、一九七四年)。

ゲバラはホルヘ・イカサと先住民(=農民)問題をめぐって会話を交わしたというが、この作品も、農園主に過酷に搾取される先住民の状況をリアリズム風に描いた内容のものである。

アルゼンチンという白人国出身のゲバラにとって、先住民色が濃い異国での体験が、歴史と現実を捉えるうえでの思想的深化をもたらしていく過程は二冊の旅行記から読み取ることができるが、ホルヘ・イカサのような作家およびその作品との出会いも、それを大いに助けたであろうことは間違いないだろう。

ガデアは、メキシコにおけるゲバラとフィデル・カストロとの出会いを身近に見ていたこともあって、それをめぐるエピソードが、やはり豊富でおもしろい。日記本文においてゲバラが次第に寡黙になっていくさまに、そして日記もそそくさと終わりを迎えることに読者は気づかれておられようが、それは、もちろん、亡命キューバ人がバチスタ政権の秘密警察はもとより米国FBIの監視下にあり、彼らと付き合っているゲバラにもいつなんどき家宅捜索や逮捕の手が及ぶか分からぬことへの警戒心から、筆を控えていることをイルダに語っている。

それでも、イルダが、とある家で初めてカストロに出会い、「あなたの持ち場はキューバなのに、なぜメキシコなんかにいるの?」と聞いたとたん、「いい質問だ」に始まったカストロの「答弁」は延々四時間に及んだ、などというエピソードは、その後のカストロ演説の(時に、八時間にも及ぶという)長さを先取りしていて、おもしろい。

メキシコでカストロやゲバラにゲリラ戦の軍事訓練を施したのは、キューバ人で、スペイン内戦時に共和国派でたたかったアルベルト・バーヨだが、訓練をめぐるいくつかの挿話も、知られざる「キューバ革命前史」を明かす重要な証言である。

その訓練に際してテクストに用いたであろう、アルベルト・バーヨ著『ゲリラ戦士のための一五〇問』は、日本でも『ゲリラ戦教程』の名で『世界革命運動情報』一六号(一九六九年二月、レボルト社)で紹介されたことがある。

最後に、離婚の経緯および娘に対するゲバラの思いを表わす旅先からの手紙に手短に触れたイルダ・ガデアは、巻末にグアテマラとメキシコでゲバラが書き残した一〇篇ちかい詩篇を紹介している。ゲバラの文学志向は、ここにもうかがわれる。

 本書におけるゲバラ自身の記述と、ロホおよびイルダの本から抜き書きしたいくつかのエピソードが合流した地点から、一九五六年末以降のチェ・ゲバラの新しい歩みは始まるのである。

ここでは、バチスタ独裁政権打倒をめざす八二名を乗せて、メキシコ・トゥスパン港を出帆したヨット「グランマ号」の航跡路を次頁に掲載するに留め、その後の軌跡は別書に譲ることにしよう。

 本書を、私たちは、まずイタリア語版で入手した。”OTRA VEZ : Il diarioinedito del viaggio in America Latina 1953-1956”, ERNESTO CHE GUEVARA,Sperling & Kupeer Editori, Milano, 2000. である。

同社は、本書の著作権管理を請け負っているので、優先的にイタリア語版の刊行に至ったものらしいが、時をおかず同じ年に、著作権表示欄に記したアルゼンチンの出版社からスペイン語版も刊行された。

翻訳は、もちろん、このスペイン語版に基づいて行なった。編集の方法、収録写真の選択などに関して、二つのテクストは同一であった。

 『チェ・ゲバラ AMERICA 放浪書簡集』に収録されている家族・友人宛ての手紙が、本書の付録にも収録されているので、いずれの本も出版することになる私たちとしては、その重複性をどう処理すべきか、少し迷った。

しかし、本との出会いは一期一会であり、すべての読者が両方の本を読まれるわけでもなく、「付録」なくしては本書自体の完結性が失われるということも考えて、原著どおりに収録することにした。

 すでにご覧のように、本書の収録した写真の多くは、チェ・ゲバラ自身が撮影したものである。

革命の指導部にいる人間として、(嫌々ながらも)被写体になることも多かったゲバラは、実は写真を撮ることは好んだことに、私たちは『エルネスト・チェ・ゲバラとその時代――コルダ写真集』(現代企画室、一九九八年)に付した文章で注目しておいた。その後、チェ・ゲバラが「撮った」写真の発掘は、遺族の積極的な協力を得て、飛躍的に進み、以下の写真集が出版されている。

 ERNESTO CHE GUEVARA : FOTOGRAFO, Generalitat Valenciana, Valencia,2001.
Self-Portrait, Ernesto Che Guevara, Ocean Press, Melbourne, 2004.
Che desde la memoria, Ocean Press, Melbourne, 2004.

 本書に収録されている写真からも、ゲバラの並々ならぬ才能をうかがうことができるが、写真集に徹して、さらに多くのゲバラの手になる写真を収録しているこれらの書物から受ける印象は、チェ・ゲバラという人物について、新たな視界を切り開いてくれるもののようだ。

 二〇〇五年末に予定している『革命戦争の道程――コンゴ篇』の紹介を終えると、ゲバラに関わって予定してきた私たちの一連の仕事も一段落か、と考えてきたが、果たして、そうなるのかどうか。

 私たちは、常に新たな人間的・理論的・実践的な側面を提示し続けるエルネスト・チェ・ゲバラの「挑発」にのって、彼が追究し、そして未完のうちに遺さざるを得なかった、社会革命のための重要な課題を手放すことだけはしまいと思う。


                       【現代企画室編集部・太田昌国】