学校の外から

靖国神社合祀取消訴訟
陳述書(2)

2008年9月20日掲載

2008年 8月 7日
                          

松 岡  勲

 この「陳述書(2)」は、2007年8月6日付「陳述書」を補充するものである。

 私は、2007年8月6日付「陳述書」を提出した後の同年8月22日の午後、靖国神社に直接合祀取り消しの申し入れを行った。当日の1時半頃に靖国神社に着いたが、もううだるような暑さだった。30歳代中頃の神官服を着た調査課の高橋氏が応接した。そのやり取りは以下の通りだった。(田中伸尚「靖国「無断合祀」を問う/新原告になった遺児の思い」雑誌「世界」2007年12月号、甲  号証参照)

―祀ってよろしいですか、と母にどうして訊かなかったのですか。
「そういう了解とか、個人情報とかいうのは、現在の感覚です」
―父の合祀は戦後ですから、遺族の了解があってしかるべきではないですか。
「そういう遺族さん中心の話は、最近になって出てくるようになったんです。戦前や戦後すぐでは、戦死ということが認められれば、当初の目的どおり国家的に慰霊をする、靖国神社のご祭神としてお祀りすることになります」
―でも戦後、靖国神社は宗教法人になっていますし、父の合祀通知は1957年(昭和32年)に来ています。戦後の制度では、遺族の意向を聞くのが当然だと思うんですが。
「それは、やはり現在の感覚ですね。戦死者をお祀りするというのが第一義ですから。それが日本に古くから伝わる神道の形に則って、お祀りするというのが国家の基本として決まっていたのです」
 このあと、合祀取り消しを求めたが、それは応じられない、と拒否された。

 高橋氏は「今と時代がちがいますので」(個人情報の保護、宗教法人としての靖国神社のこと等)としきりと繰り返していたが、「しかし、合祀は1957年(昭和32年)ですから、戦後ですよ」とこちらが言っても、「今とちがいますから」一辺倒の応答で、論理的でなかった。高橋氏の「合祀取り消しはできない」という拒否の回答を聞き、事務所を辞したが、遺族の了解を得ずに「合祀」したこと、それも戦後になってからの「合祀」であることには納得をすることができなかった。
 今回の靖国神社訪問の主要な理由は、父の合祀取り消しの申し入れにあったが、もうひとつの理由は中学3年生時の靖国神社遺児参拝の際になにか特別な思い入れがなかったかどうかを確認したかったことにあった。靖国神社再訪の印象としては、中学3年生時の靖国神社遺児参拝より48年たったが(私の靖国神社遺児参拝は1958年であった)、当時、靖国神社に対して「全く思い入れがなかった」ことを確認できてよかったと思った。ひとつだけ当時記憶していた「大村益次郎」の像が「あんなに小さかったのか」とびっくりしただけだった。(靖国神社訪問から帰って、大阪府遺族連合会、大阪府社会援護課恩給援護グループ等に、遺児参拝関係の資料はないか問い合わせの電話をしが、「今から50年も前のことですから、遺児参拝関係の資料はなにも残っていない」との返事で、残念ながら、一切の資料が残っていないと判明した。)
 遊就館もただキッチュなだけで、なんの興味も感じなかったが、気味が悪かったのは、招魂式に霊璽簿を乗せる「御羽車」だった。御羽車は、招魂祭において霊璽簿を靖国神社本殿に奉還するために用いられたものであるが、照明を落とした室内のうす暗がりのなかに置かれていた。御羽車を見て、招魂祭の日の深夜に、誰も見ていないなかをおごそかに戦死者の「みたま」を本殿に奉還する風景を想像したが、「うちの父親(の名前)もこれに乗せられたのか」「こんな形で「神」にさせられたらたまらないな」と背筋が寒くなった。
 「御羽車」については、東京の戦争遺跡を歩く会編『フィールドワーク/靖国神社・遊就館/学び・調べ・考えよう』(平和文化刊)には次のように説明がある。

(前略)このような約246万6000人分の霊璽簿が靖国神社本殿の奥にある「霊璽簿奉安殿」に収められています。
 戦死者合祀名簿については次のように説明しています。「靖国神社への合祀に当たっては、天皇陛下のお手許に必ず戦没者合祀名簿が天覧に供された。・・・戦没者合祀は今に到るまで必ず天皇陛下の叡慮を受けているのである」と。
 このことから、いまでも天皇の裁可ということが行われているのかどうか―それは明らかに「政教分離」原則違反です―、が問われます。

 もし、戦後においても「戦没者合祀は今に到るまで必ず天皇陛下の叡慮を受けているのである」とするなら、憲法違反であり、とんでもないことだと思った。
 最後に裁判の原告になって何が新たに見えたかについてふれると、それは、靖国神社に「合祀」されている父に対して、私の人生ではじめて真剣に向き合うことができたことである。それは、遊就館で「御羽車」を見たときに「背筋が寒くなった」ことと「それに乗せられ、「神」にさせられた父がとてもかわいそうになった」こととにその気持が表れる。言い換えれば、「父との距離が近くなった」のである。父との距離が遠かったのは、「靖国神社による<合祀>」の介在だった。
 父徳一は、ただ一人の息子が誕生した瞬間に戦地へ送られ、わずかに戦地よりわが子を気遣う葉書をしたためることしかできなかった。顔も見ないままのわが子に対する慈しみの深さは想像に余りある。のみならず、そこで死亡したために、自身が命名した息子である私と共に過ごすことも、その成長を見守ることもかなわないままとなったのであり、その無念さは想像するも哀しい。その上、被告靖国神社と国は、父の死を「天皇のために死んで御国のために奉仕した」者として、「神」として意味づけ、広く世間に流布し、利用し続けてきたのである。私は、父を戦死させられ、死後も父を「神」として祀ること=「合祀」により、今も父を奪われたままである。故に父の「合祀」を取り消し、父を私の元に取り戻すことを切に望むものである。
 そのような思考にたどりつけたのは原告となったからである。これまでは「父の不在」が私のメインテーマであったが、これからの裁判のなかで、これを<靖国神社の合祀から父を取り戻す>(「父の獲得」)へと転轉するものとして臨んでいきたいと思っている。

(追記)
 2007年8月6日付「陳述書」では、戦死した「お父さんは、中国で人を殺しているはず?」との母のやりとりの時期を「高校に入学して間もない頃」としたが(陳述書8ページ)、今から考えると、精神年齢的に早い感じがすると気がつき、「高校3年生」と変更する。残っている「日記」の日付が高校3年生の4月頃なのでこれとも合致すると考えた。(陳述書9ページ)

以上