学校の外から

「小泉内閣・教育基本法改悪案」の批判と分析

2006年6月2日掲載

~国家主義的「道徳教育」の正当化と、その強化路線。~
2006年5月26日、鈴村明。

(はじめに)。

 小泉内閣が2006年4月28日に国会に提出した「教育基本法改悪」案について、5月16日から審議がはじまりました(衆議院本会議)。既に、文部科学省は、5月8日、省内に「教育基本法改正推進本部」(本部長は、小坂憲次文科相)を設置し、万全の体制で国会論戦に応じる構えを確立し、そして「ポスト教育基本法改正チーム」という部門をおき、「改悪後の教育基本法」の下で諸法を改定したり、「教育振興基本計画」などの文教政策を策定したりする準備も開始しています。

 小泉内閣の「教育基本法改悪案」については、衆院の文教科学委員会で審議されるのではなく、「教育基本法に関する特別委員会」が設置され、この特別委員会で審議されることになってしまいました(参議院では、常任委員会で審議する予定)。この措置により、文教科学委員会で週2日のペースで時間をかけて審議するのではなく、週5日のペースで拙速に「教育基本法改悪案」が審議されることになります(「特別委員会」での審議は5月24日から開始)。
 一方、与党とは別に、教育基本法改悪の策動を強めていた超党派改正議連(教育基本法改正促進委員会)は、小泉内閣が改悪案を上程した翌日(06年4月29日)に『教育激変』という本を刊行し〔明成社〕、政府案とは異なる、超党派改正議連の「新教育基本法案」(議連案)の内容を力説しています。

 また、最大野党の民主党(民主党・教育基本問題調査会の責任者は、西岡武夫元文相)も、「日本国教育基本法案」(要綱)を発表し(5月12日)、対案を対置して審議をはじめています。この民主党による「日本国教育基本法案」についての批判と分析は、既に別の方が的確な指摘・批判をおこなっていますので、本稿では特別に考察しておりません(5・21付「教育基本法『10条』と『改正』問題」)。ただ、民主党・教育基本問題調査会の責任者である西岡元文相は、「超党派改正議連」で民主党側の「最高顧問」になっていた人物ですので、民主党の「日本国教育基本法案」は、超党派改正議連(教育基本法改正促進委員会)の「新教育基本法案」(議連案)と民主党の憲法提言とを折衷したものと指摘することができる、と思います。また、「読売新聞」(5月16日付)が、社説「民主『教育』対案」の中で「政府案との共通点も目立つ対案だ。与党と民主党は審議を通じて、妥協点を探ることができないのか」「民主党は、政府案との共通点を生かす道を歩んでもらいたい」と書いているように、今後、小泉内閣の「教育基本法改定」案と民主党の「教育基本法改定」案との「刷り合わせ」という事態が生まれる可能性も考えられます。仮に、そうした事態に進展してしまえば、「憲法改定案」についての自民・民主の「刷り合わせ」に連動していき、その際に公明党は、これらの「刷り合わせ」に乗るのか否か、という同党の立場が問われることになります。

 今のところ〔06年5月段階〕、民主党は「教育基本法という国の根幹にかかわる重要法案を、国会の終盤に突然提出する姿勢(に問題がある)」「密室の中で、自民党の主張する愛国心と公明党の主張する宗教教育の中身をバーターするなどという、もってのほかのことを行っています。全く国民不在であり、強い憤りを禁じ得ません」と力説し(5月16日の「衆議院速記録」、鳩山議員)、小泉内閣との対決姿勢を強調しており、5月24日の「教育基本法に関する特別委員会」においても「与野党で本当に1、2年の議論をしていこう」と主張しています(「特別委員会」における「藤村議員」の発言、「衆議院速記録」)。この点、民主党は「今国会における成立」を目論んでいる自民党と少し異なるスタンスをとっています。
 既に、小泉内閣の教育基本法改悪案についての批判と分析をおこなっていますが、国会における審議や、この間、明らかになった問題点も含め、改めて「批判と分析」をおこなうことにします。

(第1章)政府提出「教育基本法改悪案」の特徴。

【1節】「教育の理念法」から、「国策教育の組織法」への大転換。「教育の自主性」を尊重してきた現行法から、「国家による教育統制法」への大転換――「21世紀日本の国策教育」基本法。

 「小泉内閣の教育基本法改悪案」の特徴は、文部科学省も説明しているように「全部改訂」案になっていることです。言い換えれば、「現行の教育基本法」を亡きものにし、まったく別の「21世紀日本の国策教育『基本法』」を策定しようとしているのです。「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、現行法の語句を多く使い、一見すると似たような法律にみえますが、似て非なるものです。一番大きな相違点は、現行教育基本法が、教育に関する理念を大まかに示した「教育の理念法」であるのに対し、「小泉内閣の教育基本法改悪案」が、国策教育についてあれこれ規定し、教育の担い手を統制する「国策教育の組織法」になってしまっていることです。また、現行の教育基本法が、教育を担う人々における「教育の自主性」や「教育の自律性」、あるいは「教育の自由」を最大限尊重し、それらを保障してきたのに対し(「教育の自主性」保障法)、「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、「国家による教育統制法」に大きく転換している、という問題です。

〔事例1〕教育行政に関する「第10条」(現行法)は、どのように改悪されてしまうのか。

 「小泉内閣の教育基本法改悪案」の第16条案には、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」と書かれています。現行法の第10条は、「(1項)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきものである。(2項)教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」です。両者の相違点は、現行法が「国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきもの」としているのに対し、政府・改悪案が「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」に変わっていることです。現行法の場合、教師による教育は、父母の期待や子どもの願いに対し、直接的に応えながら、「国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきもの」となっていました。しかし、政府・改悪案の場合、教師による教育は、父母や子どもの期待や願いに直接的に応えるのではなく、「この法律〔改定後の教育基本法〕及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」にされています。国民全体に対する「直接責任性」ではなく、「法律〔改定後の教育基本法〕の定めるところによる」、国民全体に対する「間接責任性」に変えられてしまうのです。これは、教師の教育活動が「この法律〔改定後の教育基本法〕及び他の法律の定めるところに」よってがんじがらめに縛られてしまうことを意味しています。国民全体に対する「直接責任性」の場合、教師は自主的に教育活動をすすめ、地域の人々や子どもの願いに責任をとるという関係でした。しかし、法律〔改定後の教育基本法〕を通じた「間接責任性」の場合、教師は法律〔改定後の教育基本法〕の規定どおりの教育活動をすすめなければならなくなってしまうのです。ですから、「教育は、不当な支配に服することなく」という文言はあるものの、この箇所は、完全に死文化(空文化)してしまうのです。この点に関してですが、06年5月21日のNHK政治討論会「教育基本法改正を問う」において、公明党の太田昭宏議員は、「教育は、不当な支配に服することなく」を残した意義について力説していますが、これは明らかに偽りの言説なのです。

 一方、文部科学省は、教育基本法改悪案が「国策教育の組織法」になっていることを熟知しており、小坂文科相は、衆議院本会議で次のように回答しています(06年5月16日)。

 「不当な支配に関するお尋ねですが、現行法では『教育は、不当な支配に服することなく』と規定し、教育が、国民全体の意思とは言えない一部の勢力によって不当に介入されることを排除し、教育の中立性、不偏不党性を求めており、今後とも重要な理念であります。なお、一部の教育関係者等により、現行法第10条をもって、教育行政は教育内容や方法にかかわることができない旨の主張が展開されてきましたが、このことに関しては昭和51年の最高裁判決において、法令の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為は不当な支配とはなりえないとされ、また、国は、必要かつ相当と認められる範囲内において、教育内容についても、これを決定する権能を有することが明らかにされております。今回の改正においては、最高裁判決の趣旨を踏まえ、不当な支配に服してはならない旨の理念を揚げつつ、教育は、法律の定めるところにより行われるべきと新たに規定し、国会において制定される法律の定めるところにより行われる教育が、不当な支配に服するものではないことを明確にしたものであります」(「衆院議事録」、「教育基本法『改正』情報センター」のHP)。

 小坂文科相の答弁には、少しわかりづらい面もあります。それは、小坂文科相が「昭和51年の最高裁判決(『旭川学力テスト事件』判決)」のどの文面を使っているのか、法律や教育法の専門家でないとすぐにはわからないからです。しかし、小坂文科相の答弁は、要するに「改定された教育基本法が定めるところにより行われる教育〔=国策教育〕は、不当な支配に服してはならない」という趣旨の回答です。つまり、「教育行政は、不当な支配に服することなく教育内容に介入してよい」ということです。そして、教職員組合や教育に関する市民団体の主張が「国民全体の意思とは言えない一部の勢力」の主張にされてしまい、それらの勢力「によって不当に介入されることを排除」する、ということになってしまっています。本来、教育行政は「教育内容に介入すべきものではなく、教育の外にあって、教育を守り育てるための諸条件を整えることによってその目標を置くべき」ものであり(教育法令研究会編『教育基本法の解説』国立書院)、小坂文科相の答弁は、明らかに現行法の第10条を歪曲したものであり、誤った解釈です。しかし、政府・改悪案が成立してしまえば、そうした誤った解釈が法定化されることになってしまうのです。言い換えれば、政府・改悪案の第16条にある「教育は、不当な支配に服することなく」という箇所は、本来の意味が死文化してしまうだけではなく、内容的にいって「国策教育は、不当な支配に服することなく」、あるいは「法律にもとづき行われる、国及び地方公共団体の教育は、不当な支配に服することなく」という意味の規定へと大きく変わってしまうのです。以上、学校教育を中心に考察してきましたが、教育基本法改悪案には、生涯教育や家庭教育、社会教育や地域における教育の規定もあります。そして、生涯教育や家庭教育、社会教育や地域における教育も「この法律〔改定後の教育基本法〕及び他の法律の定めるところにより行われるべき」であり、これらの分野における「国策教育も、不当な支配に服することなく推進していく」ということなのです。

〔事例2〕「教師の労働者性」や「教師の諸権利」を奪っていく中身。

 もう一つの例ですが、「小泉内閣の教育基本法改悪案」の第9条案には、「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」とある問題です。「小泉内閣の教育基本法改悪案」の基本的性格は、「国策教育の組織法」「国家による教育統制法」ですので、この箇所も、「国策教育を進めていく教員は、自己の崇高な使命を深く自覚しなければならない」という意味になってしまうのです。これは、戦前における、教育勅語体制下の教員政策と全く同じ仕組みであり、国家が、教師に対して「崇高な使命を深く自覚する」ことを求めるものです。結局、「教師の諸権利」や「教師の労働者性」を、強く抑制し否定していく規定になっているわけです。言い換えれば、教師は、〈自ら進んで国策に服従する人づくり〉をすすめていく、そうした「自己の崇高な使命を深く自覚」しなければならない、ということなのです。

〔事例3〕時々の為政者が期待する「人格の完成」、「政治教育」への変質。

 「小泉内閣の教育基本法改悪案」と現行法を比較すると、「人格の完成をめざし」という規定や「政治教育についての条項」など、文言的には、ほとんど変わっていないことがわかります。しかし、「小泉内閣の教育基本法改悪案」全体の性格・本質は、「国策教育の組織法」であり、「国家による教育統制法」です。従って、現行法の「人格の完成」が子どもの人格の全面的発達のことであったのに対し、改悪案の「人格の完成」は、国策や国家に従順な「人格の完成」を意味することになってしまうのです。また、「良識ある公民として必要な政治的教養」の中身も変化し、現行法では、憲法の平和主義や基本的人権の尊重(民主主義)でしたが、改悪案では、それが「公共(国家・社会)の精神」や「我が国と郷土を愛する態度」(愛国心)、国が求める「豊かな情操や道徳心」になってしまうのです。ですから、基本法が改悪されてしまうと、民主主義社会の担い手(主権者)の育成を重視している「政治教育」(現行法)から、特定の「愛国心や公共心」、特定の「道徳心」の育成を重視する「政治教育」になってしまうのです。簡単にいえば、時々の為政者が期待する「人格の完成」や時々の為政者が期待する「政治教育」へ変質してしまうのです。

〔事例4〕国家による「国策教育振興計画」の策定問題。

 「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、第17条案に「教育振興基本計画」という条項を置いています。この条項は、教育のあり方を、国家が直接的に計画・決定し、それをトップダウン方式で全国の地方、全ての学校、全ての教員、そして全国民に徹底するものに変えてしまう条項です。国家が直接的に国策教育の方向性を決めてしまい、それを押し付けようとしているのです。この条項によって、〈国家は、制限なしに教育に介入し、教育のあり方(教育課程などの教育内容や方法)を決定し、誘導できる〉ということになってしまうのです。
 これまでの文教政策は、文部科学省が「中央教育審議会」に諮問し、中教審で審議した結論をうけて作られていました。ただ、最近の文教政策の作られ方をみると、「経済財政諮問会議」(内閣府に設置された合議制機関で、議長は内閣総理大臣)に文部科学大臣が臨時委員として出席し、そこで文教政策について審議し、その上で中教審に諮問するという方式を採用しています(「義務教育の構造改革」など)。また、政府じしんが文教政策(国策教育振興計画)を策定する場合、既に設置されている「経済財政諮問会議」で審議するのかもしれませんし、あるいは内閣府のもとに「教育振興基本計画策定会議」のようなものを設置するのかもしれません。いずれにせよ、「小泉内閣の教育基本法改悪案」が成立してしまえば、政府(統治機構の本体)じしんが「教育振興基本計画」なるものを策定し(「国策教育基本計画」の策定)、それをトップダウンで全ての地方、全ての学校、全ての教員、そして全国民に徹底する、という流れになってしまうのです。

 なお、教育の「地方分権」化と「政府・改悪案」との関係ですが、自民党関係者から「地方分権化が進むほど、手綱部分を文部科学省がきちんと引っ張っていかなければ、教育が混乱していく懸念がある」という指摘がだされていました(清和政策研究会『人づくりは国の根幹です』)。今後、教育分野でも「地方分権」化が進むことになるわけですが、政府・改悪案の制定によって、国家(文部科学省)が手綱部分をきちんと引っ張っていけるようになる、ということなのです。

【2節】特定の「愛国心」など、多くの徳目を規定している「21世紀日本の徳育基本法」(平成の教育勅語)。子ども、青年の〈内面形成の自由〉を侵害し、特定の「愛国心」など、国定の徳目(国定人間像の鋳型、国家公認道徳)を注入していく「国策教育」へ。
 
(1)特定の「道徳心」や「公共心」、特定の「愛国心」を教え込み、注入していく「教育」へ。

 「小泉内閣の教育基本法改悪案」の特徴は、特定の「愛国心」など、多くの徳目を規定し、子ども、青年をはじめ全国民の人格のあり方を、国家が事細かに定めている問題です(教育を通じた人格の国家統制法)。その点、「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、「21世紀日本の徳育基本法」になっています。かつて、河村建夫元文科相は、「平成の教育勅語を念頭に教育基本法を改正したい」と語っていましたが、「小泉内閣の教育基本法改悪案」は「平成の教育勅語」といえるものなのです。「小泉内閣の教育基本法改悪案」の第1条案にある「人格の完成を目指す」という表現は、現行法と同じものです(「めざす」が「目指す」に変わっているだけです)。しかし、「小泉内閣の改悪案」は、「国策教育の組織法」「国家による教育統制法」になっていますので、国策や国家に従う「人格の完成を目指す」ための徳育基本法になっているのです。そして、「第2条・教育の目標」案で、国が求める「愛国心や公共心」、国が求める「道徳心や自律心」など、人格のあり方が、細かく決められてしまっているのです。ですから、「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、〈子どもの内面形成の自由〉を否定し、〈子どもの声〔意見表明権〕〉を潰していく代物なのです。

 政府・改悪案の「人格の完成」の場合は、〈道徳主義的解釈ともいうべき人格のとらえ方〉を前面にだしています。つまり、国家が〈人格の完成像を一定の道徳律をもとにして設定し、それに近づくことをめざす『人格者』の形成を企図する考え方〉を採用しているといえるのです。そして、道徳主義的な「人格の完成」論は、戦前の「教育勅語」や戦後の「期待される人間像」と同じように、〈国家主義的な国民的人格像の上からの規制〉につながっていくわけです。

 現行法の場合は、「人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめる」人間教育を重視していますが、政府・改悪案どおりに基本法が変えられてしまうと、教育という営みが、子ども、青年の心を〈国家主義的国民像の鋳型〉にはめ込んでいく営みに変えられてしまうのです(国が求める「愛国心」や「公共心」、国が求める「道徳心や自律心」を備えた「人格の完成」論への変質)。それは、子ども、青年の〈内面形成の自由〉を侵害し、子ども、青年の〈声〉を潰しながら、子ども、青年の内面に、国定の徳目=国家公認道徳を注入していくことを意味しています。

 例えば、森前首相は、「改正案には『道徳心』や『公共の精神』が盛り込まれた。規範が入ることで、国旗掲揚とか国歌斉唱の時の立ち振る舞いを含め、先生は子どもたちの心身の発達過程に応じて教え込んでいけるようになる」とし、「規範教え込み、社会を作り変えたい」と力説しています(「朝日新聞」06年5月11日付)。つまり、政府・改悪案どおりに基本法がかわってしまえば、子ども、青年に様々な「規範」を「教え込む」教育が常態化してしまうのです。
森前首相は、「心のノート」の作成・配布を決定したときの首相ですが、森氏の〈学校における徳育を強化し、それによって家庭や地域社会も含め、日本社会全体を作り変えたい〉という考えは、「心のノート」の場合とまったく同じものです。「心のノート」は、単に学校で活用するものではなく、家庭教育や地域における教育でも活用していく道徳教材です。そして、「心のノート」を作成した元文部官僚は、たびたび「『心のノート』によって学校発信の社会変革を実現したい」と述べていますが、このような考えは、森前首相が力説する「規範教え込み、社会を作り変えたい」という考えと全く同じものなのです。

 2002年以降、「心のノート」的な現代風の徳育路線が、学校現場に持ち込まれつつありますが、「小泉内閣の教育基本法改悪案」が成立してしまえば、「心のノート」的道徳教育が本格的かつ抜本的に強化されてしまうのです。

(2)憲法・教育基本法における民主性、「政府・改悪案」の非民主性――「個人の尊厳性」と「人間関係の民主性」、それらを根本からひっくり返そうとしている「政府・改悪案」。

 〔1〕「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、子ども、青年の〈内面形成の自由〉を侵害し、特定の「愛国心」など、国定の徳目=国家公認道徳を注入するための徳育推進法です。子ども、青年の「良心の自由」は、大人の場合とは異なり、「内面形成の自由」や「内面、良心の育ち」という視点も踏まえ、それだけ丁寧に論じなければなりませんが、「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、憲法第19条(思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)や子どもの権利条約第14条(思想、良心及び宗教の自由についての子どもの権利)に反しています。逆に言えば、現行教育基本法は、憲法第19条(思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)を踏まえて作られており、子どもの権利条約第14条(思想、良心及び宗教の自由についての子どもの権利)にも合致している法律です。例えば、現行法の「人格の完成の理念」(第1条、教育の目的)は、「人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめる」という意味のものであり(文部省訓令第4号「教育基本法に関する要旨」、1947年5月3日)、しかも、現行法の「人格の完成」は、「個人の価値と尊厳性」や「自主的精神に充ちた人間性」を重視しています。ですから、現行法の場合、仮に、「愛国」的な先生がいて、その「愛国的な先生」から、「愛国心を持ちましょう」「愛国心を持ちなさい」と言われても、子ども、青年は「自主的精神に充ちた人間性」を発揮し、自らの〈内面形成の自由〉を守ることができたのです。あるいは、「愛国的な先生」から〈国家の一員としての自覚を持ちなさい〉と言われても、子ども、青年は〈別の先生から憲法のことを教わったけど、個人の価値の方が大切なんだよ、先生〉と回答し、自らの〈内面形成の自由〉を守ることができたのです。現行の憲法は、「個人の尊厳性」原理を重視しており、現行教育基本法も、「個人の尊厳性」原理に立脚した教育を重視していますので(現行法の前文)、「愛国心」の押し付けに対し、子ども・青年は、自らの思いや気持ち(広い意味での意見表明)を対置することができるのです。このように、現行教育基本法は、子どもの「声」(=子どもの権利条約第12条の意見表明権)を尊重している、たいへん民主主義的な法律なのです。しかし、「小泉内閣の教育基本法改悪案」の「第1条、教育の目的」案には、「自主的精神に充ちた人間性」も、「個人の価値と尊厳性」に関する記述もなくなっています。ですから、「愛国心」等の押し付けに対し、子ども、青年は反発できなくなってしまうのです。

 小泉首相は国会審議の中で、野党議員(保坂議員)から〈政府・改悪案と子どもの権利条約との関係〉について尋ねられ、「(政府案は)児童の権利に関する条約の精神とも合致するものと考えております」と答弁しています(06年5月16日)。しかし、政府・基本法改悪案は、子どもの権利条約の「第3条(子どもの最善の利益の尊重)、第12条(子どもの意見表明権の尊重)、第14条(思想、良心及び宗教の自由についての子どもの権利の尊重)、第28条(教育についての権利の尊重)、第29条(教育の目的)」等に明確に反しており、こうした法案の提出は、子どもの権利を蔑ろにする反民主的な行為にほかなりません。

 〔2〕もともと、現行教育基本法の「背景をなす思想的立場は、真理と自由と平和とを愛する近代民主主義の精神」です(文部省『日本における教育改革の進展』1950年8月)。言い換えれば「近代民主主義の精神」が、現行法第1条の「自主的精神に充ちた」と「個人の価値を尊び」の2つの語句等に込められているわけです。政府・改悪案は、現行法における極めて重要な「近代民主主義の精神」に関する記述を亡きものにするかわりに、現行法の「平和的な国家及び社会」を「平和で民主的な国家及び社会」にしており、「民主的な」という形容詞をつけています。日本教育法学会教育基本法研究特別委員会によれば、このように「修正しているのは、民主主義を、国民代表の選出に限定し、いったん国民代表を選出してしまった以上、国民代表から構成されている国会が制定した法律に従うのが民主主義であるとの考え方を反映」させるため、ということです(同研究会編『教育の国家統制法-新教育基本法案逐条批判』母と子社)。この場合、「国会が制定した法律に従う民主主義」とは、例えば「改定後の教育基本法に従う民主主義」のことであり、「武力攻撃事態対処法(有事法制)の発動に従う民主主義」のことです。そして、同委員会は、改定後の教育基本法や戦争法などの「制定法に歯止めを掛けようとすることは、非民主的な行動と位置づけられるのであろう」と分析しています。結局、近代民主主義を支えている「自主的精神に充ちた人間性」等に替えて、教育の自由や人間の自由を否定するような〈形骸化した民主主義〉にかえてしまっているのです。

 〔3〕そもそも、戦後日本の「新憲法は単なる法律ではない、人間尊重の精神と民主主義の原則の上にたって、古い天皇制に変革を加え、主権在民を高唱し、戦争放棄を誓って、侵略主義、軍国主義の復活をおさえ、国際平和への道を明らかにしている。新しい社会関係、人間関係の基礎となるべき多くの要素をもっている」ものです(文部省『解説・児童憲章』1951年)。そして、現行教育基本法は、こうした日本国憲法の諸原理に立脚している法律です。言い換えれば、教育基本法も、子どもと子ども、子どもと教員(教育を担う人々、親)との「新しい人間関係の基礎となるべき多くの要素をもっている」法律なのです。その象徴が「男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならない」(現行法第5条)や「自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献する」という規定です(現行法第2条)。つまり、教育という営みは、教師と子ども、子どもと子ども、男性と女性、子どもと父母とが「自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献する」営みなのであって、だからこそ、国家が教育の世界に介入してはならないのです。このように現行教育基本法は、〈教育の自由〉を保障している「教育の根本法」です。しかし、小泉内閣は、戦後教育の根本理念を180度改変し、「国家による教育統制法」を成立させようとしているのです。

 〔4〕現行憲法が発布されたときに11歳だったという作家の大江健三郎氏は、雑誌『世界』に掲載された対談の中で(03年1月号)、『あたらしい憲法のはなし』にふれ、「新制中学で『憲法』の教科書を読んで、自分の世界がひっくり返るぐらい感動した」と発言し、「憲法で(中略)びっくりしたのは、自分の個人の権利がその中心にあることでした」「これからは民主主義の時代で、個人の人権が何よりも尊重される、と知った」と回顧しています。そして、大江氏は、教育基本法改定問題にふれ、「ところが、いま日本で行われていることは、教育基本法の見直しにしても、個人より『公』が大切だということですね。それは戦後出発した憲法に基づく日本の民主主義の根本にあったものをひっくり返そうという考えです。いま天皇制の問題を表に出さないで、子どもたちを『公』『国家』、特別に方向づけられた『社会』、あるいは『愛国心』で教育しなければならないと言い始めるのは、隠れ蓑を着ての憲法違反です」と、的確に批判しています。小泉内閣の教育基本法改悪案は、「憲法に基づく日本の民主主義の根本にあったものをひっくり返そうという考え」で、21世紀・日本の教育を支配し、統制しようとしているのです(「国民精神」の大改造計画)。

(3)「国家主義的国民像の鋳型」へのはめ込み、「国定道徳」の注入。

 全国の子ども達を「国家主義的国民像の鋳型」にはめ込み、国定道徳を子どもの内面に注入しようとする動きは、すでに文部科学省による「心のノート」事業によって本格的に進められています。「心のノート」は、子どもの〈内面形成の自由〉を侵害し、子どもの内面(内心)に国定道徳を注入するための国定教科書です。ですから、その意味で、文部科学省は、子どもの内心にまで立ち入って、国定道徳を注入しようとしているのであり、一人一人の子ども達の心を「国家主義的国民像の鋳型」にはめ込もうとしているのです。 

 「心のノート」における「国家主義的国民像の鋳型」は、学習指導要領道徳編で規定されているものです。周知のように、学習指導要領道徳編は、「4つの視点」で「国家主義的国民像」(国が期待する人格像)を規定しています。一方、「小泉内閣の教育基本法改悪案」は、「第2条・教育の目標」で、「5つの視点」で「国家主義的国民像」(国が期待する人格像)を規定しています。この両者は、たいへん似ており、「小泉内閣の教育基本法改悪案」の「第2条・教育の目標」は、学習指導要領道徳編をそのままスライドしたもの、とみなすことも可能です。そこで、少し、両者を比較しておきます(前掲『教育の国家統制法』参照)。

◇第2条「教育の目標」案(5つの視点で「国家主義的な国民像」を規定)。

 1 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
 2 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
 3 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
 4 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
 5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

◇学習指導要領道徳編(4つの視点で「国家主義的な国民像」を規定)。

 1 主として自分自身にかんすること(政府改悪案の第2条、1項と2項)。
 2 主として他者とのかかわりに関すること(政府改悪案の第2条、3項)。
 3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること(政府改悪案の第2条、4項)。
 4 主として集団や社会とのかかわりに関すること(政府改悪案の第2条、5項)。

 政府・改悪案の第2条の1項と2項は、「主として自分自身にかんすること」です。また、政府・改悪案の第2条の3項は、「主として他者とのかかわりに関すること」です。同じように、政府・改悪案の第2条の4項は、「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」です。さらに、政府・改悪案の第2条の5項は、「主として集団や社会とのかかわりに関すること」です。

 このように比較すれば明らかなように、学習指導要領道徳編が「4つの視点」で「国家主義的国民像」を規定していることと、「小泉内閣の教育基本法改悪案」の「第2条・教育の目標」が、「5つの視点」で「国家主義的国民像」を規定していることとは、たいへん似ているのです。

 結局、「4つの視点」で「国家主義的国民像」を規定している「心のノート」の内容そのものが、「改悪後の教育基本法」で正当化されてしまうのであり、「改悪後の教育基本法」は、子どもの〈内面形成の自由〉を剥奪していき、国家による〈内面形成〉を開始し、促進するための「徳育基本法」になっているのです。ようするに、文部科学省は、「心のノート」によって「児童生徒の内心にまで立ち入って、国定の道徳心を持つように強制しよう」としているのであり、「改悪後の教育基本法」は、「心のノート」事業(国家的規模で進められている、戦後最大の道徳教育改革事業)を合理化・正当化し、推進していく代物なのです。

(4)小坂文部科学大臣の回答の問題点。
 
 こうした認識をふまえれば明らかになることですが、5月16日の衆院における小坂文科相の答弁は、たいへん欺瞞にみちたものです。小坂文科相は、野党議員(石井議員)の質問に対し、以下のように答弁しています。「(小坂):教育の目標に関する評価についてのお尋ねであります。教育の目標は、中央教育審議会答申などを踏まえ、教育の目的を実現するために、今日重要と考えられる資質を規定しているものであります。これらの事項については現行の学習指導要領に規定され、各教科や道徳などにおいて実際に指導が行われており、今後、その指導の充実を図ろうとするものであります。これらの評価につきましては、現在も各教科等の学習内容に応じて、評価がなされているところであり、内心の自由にかかわって評価するものではありません。次に、内心の自由についてのお尋ねですが、今回、目標に掲げられた資質については、教育上の目標として規定しているものであり、もとより、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとするものではありません。従いまして、内心の自由が侵害される恐れがある、という議員のご懸念については当たらないものと考えます」。

 小坂文科相の答弁をみて、唖然としてしまいます。なぜなら、文部科学省は、子どもが備えるべき「資質」を国定の道徳教材「心のノート」にし、子どもの〈内面形成の自由〉を著しく侵害し、国定道徳を「児童生徒の内心にまで立ち入って強制」しているのにもかかわらず、それも含め、「子どもの内心の自由が侵害される事態ではない」と言っているからです。そして、文部科学省は、「教育の目標」条項の法定化を梃子にして、子どもの〈内面形成の自由〉を、国家公認道徳の教育によって侵害し、「児童生徒の内心」に国定道徳を注入していく営みを全面化していこうとしているのです。つまり、〈今後、「心のノート」を使った道徳指導の充実を本格的に推進しよう〉としているのです。

 重大な問題は、今後、子どもが備えるべき「資質」なるものを、国家が設定し(「愛国心や公共心」、「道徳心や自律心」)、その「資質」を育成できたかどうか(成果や達成度)について、国家が点検し、検証しはじめるということなのです。

(5)「人間の力を超えた畏敬の念」教育(宗教的情操教育)の重視。

 「小泉内閣の教育基本法改悪案」には、「宗教的情操教育」という言葉はないものの、「豊かな情操と道徳心」という言葉があります。これは、自民、公明両党の間で、「宗教的情操教育」について合意に至らなかったために、「宗教的情操と道徳心」という記述にならなかっただけのことです。既に、学習指導要領道徳編には、「人間の力を超えたものへの畏敬の念」が位置づけられており、「心のノート」にも、「畏敬の念を持とう」というテーマのページがあります(小学校高学年用)。ですから、「小泉内閣の教育基本法改悪案」に「宗教的情操教育」という言葉がなくても、「畏敬の念」教育を推進することは可能なのです。というより、「小泉内閣の教育基本法改悪案」に「豊かな情操と道徳心」という言葉があるので、この改悪案が成立してしまえば、「畏敬の念」教育は、強化されることになってしまうのです。

 この問題に関わって、5月16日の衆院本会議で安倍官房長官は、自民党議員(下村議員)の質問に対し答弁し、「宗教的情操教育についてのお尋ねがありました。私は、この件について自説を曲げたということはありません。宗教的情操については、その内容が多義的であることから、教育基本法には想定しておりません。もとより、宇宙や生命の神秘、自然などに対する敬虔の念については、現在でも、学校において、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めること等を通じて育んでいるところであり、このような取り組みは今後とも重要であると考えております。なお、今回新たに、宗教に関する一般的教養を想定しており、今後、宗教に関する教育が適切に実施されるものと期待しております」と述べています。安倍官房長官の答弁は、「畏敬の念」教育の重要性と「宗教に関する教育の実施」を力説するものです。つまり、基本法が改悪されれば、「心のノート」による「畏敬の念」教育や「宗教に関する教育」が学校現場に押し付けられることになってしまうのです。

 教育基本法改悪勢力が、「宗教的情操」教育を重視しているのは、子ども、青年が〈超現実的な世界=人間の力を超越した世界〉にひざまずけば、無批判的で実直な人間に変るはずと考えているからなのであり、同時に「宗教的情操」を備えた人間は、それだけ深遠な「愛国心」を持つことが可能になると考えているからです。また、日本的な道徳心を内面で実感している子ども・青年は、〈日本的、東洋的な宗教性〉を備えることによって、真に〈日本人らしい日本人〉になれるはずと考えているからなのです(ナショナリズムの注入との関連)。

(第2章)、政府提出「教育基本法改悪」案の源流――「21世紀懇」と「教育改革国民会議」。

 小泉内閣の「教育基本法改悪案」を批判、分析する上で、小渕内閣のときの「21世紀日本の構想」懇談会(座長・河合隼雄)の最終報告や小渕内閣と森内閣のときの私的諮問機関「教育改革国民会議」にまで戻って考察する必要があります。

【その1】、「21世紀日本の構想」懇談会と、支配層が考える「新しい時代にふさわしい教育基本法」論。

 小泉内閣は、「教育基本法改悪案」について「新しい時代にふさわしい教育基本法を作成する」と説明しています。そこで、小泉内閣の「新しい時代」論を分析するために、「21世紀日本の構想」懇談会の最終報告(2000年1月)をとりあげることにします。「21世紀日本の構想」懇談会は、一内閣の方針ではなく、いくつかの内閣を通じて実現する中長期ビジョンを検討した懇談会です(内閣総理大臣のもとに設けられた懇談会)。そして、小泉内閣の「新しい時代」論も、「21世紀懇」が検討した「21世紀日本の社会像」と重なっているのです。

 例えば、21世紀懇は「来世紀に世界全体をまきこんで生じようとしている、グローバリゼーションの力の強さを見るとき、日本がこのままでよいとは決して思われない」とし、大競争時代における「日本の構想」を重視しています。つまり、21世紀懇の「新しい時代」論とは、「グローバル化時代」論のことなのです。また、21世紀懇は、「日本は国際安全保障のための軍事活動への参加について徐々に政策方針や原則を形成していかねばならないであろう」「憲法の問題や集団的自衛権の問題を含め、安全保障について国民的論議が必要である」としています(「最終報告」)。
 このように、21世紀懇の「新しい時代」とは、「グローバル化時代」論のことなのであり、「(海外での)軍事活動への参加について徐々に政策方針や原則を形成していかねばならない」時代論なのです。そして、戦争放棄と戦力不保持(憲法9条)を継承する近未来像ではなく、「憲法の問題や集団的自衛権の問題を含め、安全保障について国民的論議が必要」になる時代論のことなのです。そして、教育基本法も支配層が考える「新しい時代にふさわしい」ものに改定するべき、ということなのです。
 また、21世紀懇は、「法と制度を厳正に維持し、社会の秩序と安全を保証し、世界化する市場に適切な補正を加える国家の重要性は自明であり、生徒に対してそれを敬愛することを教えるのは義務教育の範囲の中にある」としています。つまり、21世紀懇は、「愛国心」教育について「国家を敬愛することを教えることは義務教育の範囲の中にある」と提言していたのです。21世紀懇は、「教育の均質化と画一性の打破が必要。必要な知識や能力を身につけることを義務づける『義務として強制する教育』と、自由な個人が自己実現の手段を身につけることへの『サービスとして行う教育』を峻別し、前者は最小限のものとして厳正かつ強力に行う一方、後者は市場の役割に委ね、国は間接支援に(する)」 としています。そして、小泉内閣の「教育基本法改悪案」も、21世紀懇が打ち出した方向に忠実につくられており、例えば、「教育基本法改悪案」は、「義務として強制する教育」について法的に、細かく規定しているのです。
 
【その2】、教育改革国民会議の最終報告と「教育基本法見直し」論。

 政府レベルで、教育基本法の見直しを打ち出したのは小渕内閣ですが、その流れは、森内閣に引き継がれ、2000年12月に「教育改革国民会議」は最終報告をだします。そのうち、17の提言が特に有名ですが、それは以下のような提言です。

(1)人間性豊かな日本人を育成する/教育の原点は家庭であることを自覚する/学校は道徳を教えることをためらわない/奉仕活動を全員が行うようにする/問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない/有害情報等から子どもを守る。
(2)一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する/一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する/記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する/リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する/大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する/職業観、勤労観を育む教育を推進する。
(3)新しい時代に新しい学校づくりを/教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる/地域の信頼に応える学校づくりを進める/学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる/授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする/新しいタイプの学校(コミュニティ・スクール等)の設置を促進する。
(4)教育振興基本計画と教育基本法/教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を/新しい時代にふさわしい教育基本法を。

 上記の「17の提案」は、4つのブロックに分けられていますが、「人間性豊かな日本人を育成する」というブロックで道徳教育を重視しており、「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する」というブロックで、いわゆる「エリートの育成」を重視しています。小泉内閣の教育基本法改悪案の前文(案)をみると、「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成」という語句がありますが、これは、教育改革国民会議の「人間性豊かな日本人を育成する」(徳育の重視)と「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する」(エリートの育成)を短くまとめたものにすぎないのです。つまり、小泉内閣の教育基本法改悪案は、教育改革国民会議が期待した人間像を、その前文(案)で明記しているわけです(国定の人間像)。
 教育基本法改定案を審議している国会において、小坂文科相は「今後とも、教育改革国民会議の御提案を踏まえ、教育改革にしっかりと取り組んでまいりたい」と答弁しています(06年5月16日、「衆議院速記録」)。既に、「学校は道徳を教えることをためらわない」という提言に基づき、「心のノート」という国定教科書まで作られていますが(2002年)、教育改革国民会議が打ち出した提案の中で、まだ具体化されていないものもあります。それが、「道徳の教科化」です。教育改革国民会議の最終報告(2000年12月)には、「小学校に『道徳』、中学校に『人間科』、高校に『人生科』などの教科を設け、専門の教師や人生経験豊かな社会人が教えられるようにする」とありますが、小泉内閣の基本法・改悪案が成立してしまえば、道徳教育を教科に格上げする政策が具体化されてしまうでしょう。なお、教育改革国民会議の「道徳の教科化」構想は、上寺久雄編『「新しい道徳教育」への提言』(世界平和教授アカデミー、2000年1月刊)にヒントを得たものです。世界平和教授アカデミーは、「『道徳』は教科ではなく、『領域』というあいまいな位置づけになっており、教科書も存在していない。まず、『道徳』を教科に格上げすべきである」とし、「例えば、小学校では『道徳科』、中学校では『人間科』、高校では『人生科』とする。人間としてのあり方、生き方の一貫した教育を行わなければ、本当の意味での人間教育はできない」と提言していたのです。そして、教育改革国民会議の審議の中で、『「新しい道徳教育」への提言』に共鳴した人々が、教育改革国民会議の最終報告の中に、道徳の教科への格上げを盛り込んだわけです。
 日本教育法学会教育基本法研究特別委員会は、小泉内閣の教育基本法改悪案の特徴について、「国家道徳強制法とでもいうべき実質を備えている」と書いています(同研究会編『教育の国家統制法-新教育基本法案逐条批判』)。ですから、「国家道徳強制法とでもいうべき実質を備えている」「21世紀日本の徳育基本法」ができてしまえば、「『道徳』の教科への格上げ」という事態になってしまうのです。

(第3章)、財界〔=日本経団連〕の「教育基本法改定」要求と「小泉内閣の基本法改悪案」。

 小泉内閣の教育基本法改悪案の源流を探るために、財界による「教育基本法改定」要求についても知っておく必要があります。例えば、「義務教育の構造改革」も、「日本経団連」の会長が参加している「経済財政諮問会議」(議長は小泉首相)で審議されたものであり、政府・文科省が進めている教育「改革」や文教政策には、財界の意向が強く反映しており、教育基本法改定問題にも財界の意向が反映しているのです。財界による「教育改革」論についての文献は様々あり、その全てを分析することはできません。しかし、「日本経団連」が2005年1月18日に発表した「これからの教育の方向性に関する提言」は、財界の教育基本法改定への要求をダイレクトに書いていますので、取り上げておくべき文献といえます。この提言では、教育基本法のどこをどのように変えるべきかについて、財界としての具体的な要望を明記しており、その箇所に下線を引いています。この箇所をとりあげれば、財界の教育基本法「改定」論がはっきりします。小泉内閣の基本法改悪案のどこと関係しているのか、コメントしなくても、両者の関連は明確です。
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《日本経団連「これからの教育の方向性に関する提言」からの抜粋》

◇「教育基本法に示された教育理念の中に、伝統、文化、歴史を教えることを通じて、国や郷土を誇り、諸外国の人々にとっても魅力のある国をつくろうとする気持ちを育むことを盛り込むべきである」。
◇「教育基本法に示された教育理念の中に、社会の構成員としての責任と義務を教えることを追記すべきである」。
◇「教育基本法第9条2項にあるように、公立学校では、『特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない』という基本原則は尊重すべきである。しかし、現状を見ると、歴史的に有名な神社仏閣などの見学が宗教教育に該当するおそれがあるとして、修学旅行のコースから外されるなど極端な運用がなされることもある。自然や生命に対する畏敬の念や宗教的情操心を養うためにも、また日本の伝統・文化・歴史を伝える意味でも、社会生活において宗教がどのような役割を果たしてきたかを考えさせることは重要である」。
◇「教育基本法9条1項の規定に、社会生活における宗教の持つ意味を理解することの重要性をより明確に示すべきである」。
◇「教育基本法第10条(教育行政)は第1項で、『教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである』と規定している。この中の『不当な支配に服することなく』の表現が、一部教員による教科書や学習指導要領の無視や、校長など管理職の管理を拒む根拠となったことに鑑み、国が教育内容の方向を示すことについての正当性を明らかにすることが必要であり、長年にわたる条文解釈をめぐる教育現場での混乱を解消することが望まれる」。
◇「生涯学習の時代における高等教育機関の教育機能の重要性を教育基本法に新たに規定すべきである」。
◇「教育基本法に、教員の自己研鑽の必要性を明らかにすべきである。現行の教育基本法第6条2項には、学校の教員について『自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない』とだけしか規定されておらず、教員の自己研鑽の努力義務についても踏み込んで規定する必要がある」。
◇「現行の教育基本法では、家庭教育は社会教育の一部として奨励されるだけの位置づけになっている。生涯教育の中の重要な要素として、家庭教育を位置づける必要がある」。
◇「規律を遵守することなど、教育サービスを受ける側の責務を教育基本法に規定すべきである」。
◇「教育力の向上に向けて、学校、家庭、社会が交流・連携することの重要性についても、教育基本法に規定する必要がある」。
◇「学校の設置・運営主体にかかわる現行の基本的枠組み(教育基本法第6条1項、学校教育法2条)を改正し、多様な主体の教育への参入を促進すべきである。教育基本法第6条1項について、『法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる』という規定から、『公の性質をもつもの』という部分を削除するなど、株式会社やNPOによる学校設置・運営ができるようにする必要がある」(教育機関間の競争促進)
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 小泉内閣の教育基本法改悪案が、「生涯学習の理念」や「大学」、「家庭教育」、や「学校、家庭、地域社会の連携協力」などの条項を新設していること、「愛国心」に関する規定や「伝統文化」についての記述を明記していること、「宗教に関する一般的教養」を追加していること、「規律の遵守」を学校教育の条項に加筆していること、教員の条項を新設し、「研修や養成」などを重視していることなど等、すべて財界からの要望でもあったことがはっきりします。特に、教育行政について、財界は「国が教育内容の方向を示すことについての正当性を明らかにすることが必要」としていたのです。そして、小泉内閣の教育基本法改悪案では、国家が教育内容や方法に関して無制限に介入できるようになっているのです。
少し分析が必要な点は、財界が「学校の設置・運営主体にかかわる現行の基本的枠組み(教育基本法第6条1項、学校教育法2条)を改正し、多様な主体の教育への参入を促進すべき」と要求している問題と、「小泉内閣の教育基本法改悪案」との関係です。現行法は「法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる」ですが、政府の改悪案は「法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる」になっています。現行法の場合、「国又は地方公共団体」が主な学校設置者であるとしながら、「その外」にも「法律に定める法人」が学校設置者になれる、という構造になっています。言い換えれば「国又は地方公共団体」と「法律に定める法人」との間にレベルの差を設けていたわけです。しかし、改悪案では「国、地方公共団体及び法律に定める法人」となっており、「国又は地方公共団体」と「法律に定める法人」との間にレベルの差がなくなっています。この点について、日本教育法学会教育基本法研究特別委員会は、「現在、構造改革特別区域において株式会社及びNPO法人による学校設置が認められていることを踏まえると、今後、『法律に定める法人』の範囲を営利企業にまで拡大し、公教育の私営化が進められる可能性もある」と指摘しています(前掲『教育の国家統制法』)。言い換えれば、基本法が変われば、財界の要求にそって、株式会社が公教育の主体になっていける、ということなのです。
 日本経団連は、先の提言の中で「多様な教育を実現し、教育の質を向上させるためには、新規参入者を増やし、学校間の競争を促進しなければならない。公立・私立を問わず、相互に競い合うことが必要である」とし、「具体的には、まず義務教育は公立学校が担うという考えから脱却し、私立学校の設置を進めるべきである。また、私立学校のみならず、株式会社立学校やNPO立学校など、多様な主体による学校設置も認める必要がある。さらに、公立学校の運営を学校法人だけでなく、株式会社やNPOに委託する公設民営の手法も活用していくべきである」としています。つまり、日本経団連の「教育改革」論は、教育を「多様化」し、「学校間の競争」を促進すべき、というものなのであり、公教育の世界に〈格差拡大社会の原理〉を持ち込むべき、というものなのです。


(第4章)、「自民党森派の教育基本法改正への提言」、及び「超党派改正議連の新教育基本法案」の問題――政府・改悪案と比較する。

【第1節】、自民党森派の「教育基本法改正への提言」と政府改悪案。

 2006年4月12日に、与党協議会がとりまとめた与党「最終報告」は、もともと、文部科学省作成の「教育基本法改正・仮要綱案(非公開)」(05年5月11日)を下に、自民・公明の検討委員が密室で審議した結果です。与党「最終報告」がだされたときの文部科学大臣は、小坂文科相でしたが、文科省が「教育基本法改正・仮要綱案(非公開)」を作成したときの文部科学大臣は、中山文科相でした。中山文科相(当時)は、「教育基本法改正」によって「新しい時代の日本人像」を明記したい、としていたのです(「甦れ、日本」04年11月4日)。ですから、「教育基本法改正・仮要綱案(非公開)」には、中山文科相(当時)の思いが反映しているはずです。そして中山文科相は、文科相になる前に、清和政策研究会の政策委員長として自民党森派の「教育基本法改正への5つの提言」をとりまとめた人物です(02年5月)。従って、「教育基本法改正・仮要綱案(非公開)」には、自民党森派(清和政策研究会)の「教育基本法改正への提言」が反映しているはずなのです。そこで、自民党森派の「教育基本法改正への提言」と「政府・教育基本法改悪案」とを比較することにします。

【1】自民党森派の「教育基本法改正への提言」には、現行法の前文を敵視する文章があり、「教育基本法の前文には『この(憲法の)理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである』と記述されている。そこから、憲法の改正をしなければ、教育基本法の改正も行なうべきではないという考えが強く形成され、教育基本法の改正もタブー化されてしまったのだ」と書かれています(清和政策研究会『人づくりは国の根幹です』中経出版)。結局、「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」という記述があると、改憲する前に教育基本法を改定することができないので、この記述を削除することにした、ということなのです。憲法改定に先立って、教育基本法改定を目論む勢力にとって、現行法の「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」という一行は、大きな障害物だったのです。本来の順序を踏まえれば、「教育基本法は、歴史的にも内容的にも憲法改正をしてから改正するべきもの」です(括弧内は、民主党の代表質問からの引用、5月16日)。しかし、憲法と異なり、改正手続き上、教育基本法の「改正」では国民投票などが不必要なため、中曽根元総理や森前総理らは、教育基本法の先行「改定」論を主張してきたのです。そして、国会審議において、小泉首相は「教育基本法は、日本国憲法と密接に関連しているものの、憲法改正を待たなければ改正できないという関係にはないものと考えております」と答弁しているわけです(5月16日)。しかし、小泉首相のような理屈が成り立つのであれば、「憲法改定を待たずして、教育基本法(準憲法)に明記されている憲法理念を改定できる」ということになってしまうのです。つまり、改憲に先立ち、教育基本法(準憲法)の改悪を実現し、〈憲法理念に反する新教育基本法を制定する〉ことによって、現行憲法の基本理念を根本的に改変し、その内容を実際の憲法改悪に反映させていく、ということになってしまうのです。

【2】自民党森派の「教育基本法改正への提言」には、「新しい教育理念の制定を目指そう」とあり、「教育勅語に相当する教育理念の制定をめざすべき」としています。そして「具体的には、社会を構成する個人としての義務や責任をより明確に謳うと同時に、公徳心や愛国心の尊重も織り込むべきだと考える」としています。この点、政府・教育基本法改悪案でも、公共心や愛国心の尊重が織り込まれています。例えば、自民党森派の町村信孝元文科相は、5月24日の「教育基本法に関する特別委員会」で質疑に立ち、文部科学省作成の道徳教材「心のノート」(中学校版)を示し、「心のノート」を「非常に素晴らしく、よくできている」と賛美しながら、「我が国を愛し、その発展を願う」など「なかなかいい事が書いてある」と述べ、「こうしたことがやはり自然に身につくように、教えるということなくして身につかないことというのは、やはり沢山ある」と力説しています(「衆議院速記録」)。もともと、「心のノート」の作成・配布を決めたのは、町村信孝文科相(当時)です(「21世紀教育新生プラン」2001年1月)。ですから、町村氏は、自画自賛していることになるわけですが、同氏は、特に「心のノート」による「愛国心」教育を取り上げながら、「愛国心」を教え込むべきと主張し、教育基本法改定必要論を展開しているのです。

【3】自民党森派の「教育基本法改正への提言」は、「現行の教育基本法には、『民族の文化・伝統の継承』という視点が欠落している」「教育基本法第1条に『民族の文化・伝統の継承』の大切さを謳う文言を加えるべきだと考える」と力説しています。この提言は、「日本社会に脈々と流れる(日本民族の)命の尊さを謳おう」というものであり、〈我が国に独自な伝統文化を重視する〉という主張ですが、政府・教育基本法改悪案も、前文案と第2条案で「伝統文化の継承」を明記しています。

【4】自民党森派の「教育基本法改正への提言」は、改定後の「教育基本法に、新しい生涯学習の理念も、もっと明確に書き入れるべき」としていますが、政府・教育基本法改悪案にも「第3条・生涯学習の理念」という条文案があります(「生涯学習の理念」という言い方が同じ)。自民党森派の「教育基本法改正への提言」は、「生涯を通じ、人生の目的を持てる教育を創出しよう」となっていますが、同提言は、教育勅語で「謳いあげられている教育理念は、現代にも通じる徳育の指針」としているのです。つまり、自民党森派の提言は、道徳重視の生涯学習論になっているわけです。政府・教育基本法改悪案の「第3条・生涯学習の理念」案は、「国民一人一人が、自己の人格を磨き」という言葉で始まっていますが、中山文科相(当時)は「人間性を磨き」という言い方を多用しており、この点でも類似しているのです(中山文科相へのインタビュー、『教職課程』04年12月号、協同出版)。

【5】自民党森派の「教育基本法改正への提言」は、「新しい時代の変化の中で、学校教育のみならず、家庭教育、地域教育においても、新しい環境が生まれている。その変化に適切に対応すべく、教師の自己学習努力、地方自治体や国の積極的取り組み義務等も、教育基本法の中に書き込むべきものである」としています。そして、政府・教育基本法改悪案も「家庭教育」や「家庭・学校・地域社会等の連携協力」、あるいは「教員」条項案を置いているのです。なお、自民党森派の町村信孝元文科相は、5月24日の「教育基本法に関する特別委員会」において「今こそ、道徳、倫理というものを、これは何も学校だけではなくて、家庭でも社会でもそれを重視するということをやらなければいけない」と力説しています(「衆議院速記録」)。つまり、町村氏は、「家庭教育」と「家庭・学校・地域社会等の連携協力」の中で「道徳、倫理というものを重視」していくべき、と強調しているのです。

【6】自民党森派の「教育基本法改正への提言」は、「自国の歴史、伝統、文化をよく理解し、礼儀をわきまえ、そして世界に貢献する志を持つ青少年を育成することも、教育基本法に謳っておきたいことである」としています。政府・教育基本法改悪案は、「伝統文化」の尊重ともに、「正義を希求し、公共の精神を尊び」と明記していますが、これは〈自国の伝統文化をよく理解し、日本と世界の秩序を守る人間の育成〉という意味ですから、自民党森派の「教育基本法改正への提言」と照応しています。

【7】自民党森派の人々にとって、「人格の完成」は「教育の目標」(達成目標)になっています(「教育の目標を達成するのは教師」「教育の目標は『人格の完成』にある」=『人づくりは国の根幹です』48頁)。そして森前首相は、教育勅語的な「道徳理念を欠いた教育基本法」という言い方で現行法を批判しながら、教育勅語的な「道徳教育を通じて初めて人格は完成し、崇高な尊厳が身に備わる」と力説しています(『人づくりは国の根幹です』)。このように森前首相の教育論は、〈道徳主義的な人格の完成〉論の典型ですが、自民党森派の人々は、〈日本の教師は、子どもが、日本社会に脈々と流れる伝統文化を実感し、「公徳心と愛国心」を備えた人間になるよう、国家が求める「人格の完成」を目指さなければならない〉と考えているのです。言い換えれば、自民党森派の人々は、自らを「人格の完成像」と考えており、〈日本の教師は、自民党森派の人々のような「人格の完成像」を目指し、子どもたちの「人格の完成」を達成しなければならない〉ということなのです。この点、政府・改悪案も、「人格の完成」(「第一条・教育の目的」案)の内容を、「第2条・教育の目標」案で細かく規定しており、そこに「公共心」や「愛国心」の涵養を位置づけているわけです。

【8】自民党森派の人々は、「幼児期の家庭教育」をたいへん重視しており、町村文部大臣(当時、1999年)が作成・配布を決定した、国定の家庭教育手帳について「今やすっかり教育力を失ってしまった親たちに向けて、家庭で子どもをどう躾ければいいのかをマンガを使ってわかりやすく解説したもの」と高く評価しています(『人づくりは国の根幹です』)。そして、政府・改悪案にも、「家庭教育」と「幼児期の教育」の条項があるわけです。また、自民党森派の人々は、「幼児期の人格形成」という言い方をしています(『政策の森』ナンバー2)。この点、保育所保育指針や幼稚園学習指導要領は「生涯にわたる人間形成の基礎」という表現を採用しており、違いがあります。こうした違いがある中で、政府改悪案は「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」という表現になっているのです。

【9】以上、自民党森派の「教育基本法改正への提言」をみてきましたが、この分析は、国会における審議と密接に関連しています。なぜなら、文部科学省が省内に設置した「教育基本法改正推進本部」の本部長代理の馳浩副大臣と副本部長の吉野政務官は、ともに自民党森派の議員だからです。また、「教育基本法に関する特別委員会」の筆頭理事(委員長代理)である町村信孝元文科相も、自民党森派の人物です。町村元文科相の主張は、「今次教育改革の最大のポイントは、何といっても、戦後間もなく制定された教育基本法の改正(というよりは新法の制定)である。『自然、文化、伝統の尊重、家庭、郷土、国家の視点、宗教的情操の重視』など、取り入れるべき要素は数多くある」というものです(『人づくりは国の根幹です』)。また、町村元文科相は、民間教育臨調が開催した「今こそ教育基本法の改正を、緊急集会」で、「自民党教育基本法検討特命委員会の顧問」として挨拶し(03年6月25日)、「橋本内閣での文部大臣のときから、この教育基本法を変えなければいけないと思ってきた。それは、自由・権利主義、平等主義、平和主義という戦後の基本的なコンセプトを変えるというところからやらなければ、今日の国家、社会、教育現場の混乱は直せない」と力説しています(民間教育臨調のHP)。町村元文科相は、現行憲法における「自由・権利主義、平等主義、平和主義という戦後の基本的なコンセプト」をひっくり返し、これからの日本の基本的なコンセプト(概念)を〈義務・責任先行主義、不平等主義、非平和主義〉にかえるために、憲法改悪に先立って教育基本法を改悪しようとしているのです(なお、義務・責任先行主義の中には、市民や国民が〈有事の際に非常時の義務を果たすこと〉が含まれています)。

 町村元文科相は、06年5月21日のNHK討論会「教育基本法改正を問う」の中で、現行法を批判し、「現行法には個人と普遍的人類の観点しかなく、その中間のものが抜け落ちている」等と発言しています。また、町村元文科相は、5月24日の「教育基本法に関する特別委員会」においても、「現行の教育基本法は、個人というものがあり、それから普遍的な人類というものがあり、その中間をつなぐ、国家でありますとか、あるいは家庭でありますとか、郷土、こういったものがすとんと抜け落ちている」「あるいは伝統というものも抜け落ちており」「余りにも個人中心主義というものが表に出すぎている」等と述べ、現行法の理念を歪曲しながら、現行法を批判し、そして政府案を評価しています(「衆議院速記録」)。これらの町村発言は、森喜朗前首相の教育基本法改定論と全く同じ主張なのであり、森前首相は「教育基本法の理念に欠けていたものは、『国家』『郷土』『文化』『家族』『自然の尊重』であり、その理念で過度に強調されたものは、『個人』と『普遍的人類』であった」等と述べているのです(『人づくりは国の根幹です』02年5月)。しかし、現行教育基本法は、憲法の理想を実現するために作られたものです。そして現行憲法は、単なる法律なのではなく、「個人の尊厳性」原理を大前提にしながら、個人と国家との新しい社会関係、あるいは新しい家族関係をはじめ、新しい人間関係の土台になる要素をたくさん示しているのです。ですから、「現行教育基本法」に対し、「個人と普遍的人類の観点しかなく、その中間のものが抜け落ちている」等と批判することはできないのです。

【第2節】、超党派改正議連の「新教育基本法案」(議連案)と政府・改悪案。

 既に指摘しておいたように、超党派改正議連(教育基本法改正促進委員会)は、小泉内閣が改悪案を上程した翌日(4月29日)に『教育激変』という本を刊行し〔明成社〕、政府案とは異なる、超党派改正議連の「新教育基本法案」(議連案)の意義や内容を力説しています。超党派改正議連の「新教育基本法案」(議連案)は、政府案よりも復古的なものであり、国家主義的色彩の強いものですが、この超党派改正議連の「新教育基本法案」(議連案)の分析を通じて、政府・基本法改悪案の問題点も明らかになると思います。そこで以下、いくつかのテーマにそって、政府案と議連案との比較をおこなうことにします。なお、民主党の「日本国教育基本法案」を分析する上でも、超党派改正議連案の考察は不可欠です。

【1】、「愛国心」と「伝統文化」の重視。そして「道徳性」の涵養、そして「人格の陶冶」:超党派改正議連の「第1条・教育の目的」は、「教育の目的は、各個人に内在する可能性と価値を開花させ、心豊かな個人を育成するとともに、共同体とのかかわりで人格を陶冶し、家庭、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成をはかることである。この目的を達成するため、あらゆる段階において、伝統と文化の尊重、愛国心の涵養および道徳性の育成を図るものとする」になっています。「人格の陶冶」とは、「生まれついた性質や才能を鍛えて練り上げる」ことで(三省堂『大辞林』)、子ども、若者の「人格」を鍛錬し、訓練することです。これは、明らかに修身教育的な発想の言葉です。政府・改悪案の場合は、「人格の完成」という表現を残しているものの、その内容は、超党派改正議連案の「人格の陶冶」に類似したものになっているのです。超党派改正議連の基本法改悪案の場合は、教育の目的の中に、ダイレクトに「伝統と文化の尊重、愛国心の涵養および道徳性の育成」が入っています。その点、政府・改悪案の場合は、「教育の目的」でなく、「教育の目標」という条項を別に設定し、その中に、伝統文化の尊重と愛国心、そして道徳性の育成を入れているわけです。超党派改正議連の人々は、「我が国の豊かな伝統と文化に立脚する」ことがなによりも重要であり、共同体とのかかわりで「家庭、地域社会、国家という日本人自らの足元をしっかりさせる」べき、と強調しています(『教育激変』9、10頁、「高市早苗」発言)。つまり、「『愛国心』などと言うと、右翼や軍国主義者のように見られてしまう」が、そうした「『古臭い』といわれる価値観が崩壊してしまったことが、家庭の崩壊や犯罪の増加につながっている」という理屈です(10頁、「高市」発言)。そして、教育基本法に「伝統の尊重」を入れ、「伝統の尊重」という教育方針がきちんと定まれば、もともと自分たちがもっていた伝統・文化なのですから、十年もたたないうちに伝統は甦ってくる」はず、と力説しています(24頁)。ここで言われている「伝統文化」とは、日本古来より受け継がれてきた「伝統文化」のことです(農耕民族としての相互扶助や忘己利他の精神)。そして、超党派改正議連のメンバーは、「愛国心とは、『国家があっての自分』を自覚すること」であると、あからさまに論じているのです(28頁)。また、超党派改正議連のメンバーが力説している「道徳性」なるものは、結局のところ、「忘己利他」や「滅私奉公」、あるいは「自己犠牲」というものに通じる国民精神です。例えば、超党派改正議連のメンバーは、「消防団」を「究極のボランティア」と高く評価し、「公民教育のモデルとしての消防団」論を展開しています(34頁)。そして、教育勅語の一節も引用しながら、「『一旦緩急あれば義勇公に奉じ』ではないですが、火事がおこれば、自分の仕事を放り投げてでも消化活動を行う」という事例をあげています(40頁、「古川禎久」発言)。既に、「消防団員」や「消防署員」を道徳教材として高く評価している教育学者もいます(「民間教育臨調」第1部会長の金井肇氏〔元文部省視学官〕、『道徳教育の基本構造』明治図書)。そして、その教材を扱う狙いを、「自己犠牲的精神の育成」としているのであり、その点、超党派改正議連の人々の発想とまったく同じなのです。

【2】、「生涯学習」と「生涯学習の理念」:超党派改正議連の基本法改悪案も、政府・改悪案と同じように、「生涯学習」という条文案を設けています。超党派改正議連の「生涯学習」案は、「国及び地方公共団体は、国民が生涯にわたってあまねく学習の機会を得ることができるよう、教育機会の整備拡充に努めるものとする」というもので、政府・改悪案の「第3条・生涯学習の理念」案は、「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない」というものです。超党派改正議連のメンバーは、「そもそも何のための生涯学習かと言えば、私達議連案の第1条で教育の目的を『家族、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成を図ることにある』と謳っているように、国民が自ら属する共同体の維持、発展に寄与するためなのです」と解説しています(110頁、「萩生田光一」発言)。言い換えれば、古い共同体の維持・発展のために、地域活動を展開することが、一人ひとりの国民による「生涯学習」の内容になっているわけです。これは、戦前の「思想善導」と同じような、国家・社会のための生涯学習論です。政府・改悪案の場合は、少し工夫した表現を選んでいるものの、その内容・中身は、超党派改正議連案の「生涯学習」論と類似した側面をもっています。つまり、政府・改悪案の場合も、何のための生涯学習なのかと言えば、「第2条・教育の目標」案で「愛国心や公共心」「道徳心や自律心」を謳っているように、一人一人の国民が、その目標を指針に「自己の人格を磨き」、そして公共(=国家)の精神を涵養し、進んで国家・社会に寄与するため、ということなのです。

【3】、「道徳心の涵養」と「公共の精神」:超党派改正議連の基本法改悪案も、政府・改悪案と同じように、道徳心や公共心を大変重視しています。超党派改正議連のメンバーは、「公と私とのバランスをとる伝統的価値観」という理屈を持ち出していますが、これは政府・改悪案の場合と類似した理屈です。超党派改正議連のメンバーは言います――戦前は、「愛国心や道徳が過度に強調され、公(おおやけ)が肥大化して、私(わたくし)を押しつぶしていくという面があったのは否めない」が「そうした行き過ぎを正そうという趣旨で、昭和22年に教育基本法が制定された」ものの、「戦後は逆に私(わたくし)ばかりが肥大化して、公(おおやけ)がどんどん突き崩されただけでなく、私(わたくし)と私(わたくし)の関係もおかしくなってしまった」。だから、「『公』と『私』とのバランスをとり、『私』と『私』との間をつなぐ役割を果たしてきた」「伝統的価値観」(長い歴史の中で育まれてきた文化や道徳、宗教心といったもの)を復活させなければならない(52頁、「岩屋毅」発言)、と。こうした議論を読んで、以前、中教審委員の梶田叡一氏(教育学者)が、〈戦前の「滅私奉公」に戻すわけではないけれども、戦後は「滅公奉私」になってしまったので、それを是正する必要がある〉と論じていたことを思い出します。結局、基本法改悪勢力の人々は、教育基本法を改悪することで、戦後日本の民主主義的な価値観をひっくり返そうとしているのです。そして、こうした点で、超党派改正議連の基本法改悪案と政府・基本法改悪案は、まったく同じ性格のものといえるのです。とくに、超党派改正議連のメンバーは、戦後直後の国会で教育勅語の失効・排除決議が行われてしまったことを問題視し、「このため、教育の場において教育勅語に代表される道徳律が否定される一方で、『個人』があまりにも重視されるようになってしまった」と嘆いています(54頁、「鷲尾英一郎」発言)。そして、超党派改正議連のメンバーは、教育勅語に代表される「伝統や習慣、道徳律というものをしっかり身につけ、共同体の一員としていかに価値ある生き方をするのかを懸命に求めようとするところに、『人間としての尊厳』があるのであって、そうした努力をしない人に対しても無条件に『尊厳』を認めてしまうという考え方は、少なくとも教育の場においてはなじまない」等と論じているのです(54頁、「鷲尾」発言)。そして、〈教育勅語のような道徳律がなくなったため、「学級崩壊」のような事態も起きている〉と論じているのです(54頁)。結局、超党派改正議連のメンバーは、現行教育基本法が、戦前の教育勅語を否定し、戦前との連続性を断ち切ってしまったことを、特に問題にしているわけです。例えば、超党派改正議連のメンバーは、「現行の教育基本法『前文』は『さあ、ここから日本をつくるぞ』という形で、敗戦がスタートラインになっている」「つまり、歴史的な重み、深みがありません。歴史や伝統を継承する、という視点が欠落している」等と述べ、現行法を批判しているのです(58頁、「有村治子」発言)。

 超党派改正議連のメンバーは、「(戦後の日本で)『道徳』が形骸化した原因の一つに、教育基本法で謳われた『自主性の尊重』という考え方の影響がある」等とし(62頁)、「現行教育基本法の『自主性の尊重』という理念が、『伝統文化の継承』や『道徳性の育成』という理念を伴っていなかった結果、学級崩壊という形で子どもたちに大きな犠牲を強いている」とまで論じています(63、64頁、「鷲尾」発言)。これは、「学級崩壊」現象を、どうしても現行教育基本法のせいにしたいがための詭弁です。結局、超党派改正議連の人々は、〈自主的精神に充ちた人間性の育成が民主主義社会を形成していく流れ〉を嫌悪し、それに反発しているだけなのです。また、現行教育基本法には、「道徳」という文言はないものの、「人格の完成の理念」の中には、「道徳教育の原理、科学教育の原理、芸術教育の原理」が含まれています(教育法令研究会『教育基本法の解説』国立書院)。従って「教育基本法は『道徳性の育成』という理念を伴っていなかった」等と言う言説は、明らかに事実に反するものなのです。なお、政府・基本法改悪案の場合も、現行法にある「自主的精神に充ちた」人間性の育成に関する規定を消し、そして「道徳」という言葉を書き込んでいます。ですから、政府・基本法改悪案と超党派改正議連の改悪案は、酷似した改悪案なのです。

【4】、「宗教的情操教育」と「宗教に関する一般的な教養」:超党派改正議連の基本法改悪案には、「宗教的情操教育」についての規定があり、「宗教的情操の涵養は、道徳の根底を支える人格形成の基礎となるものであることにかんがみ、教育上特に重視するものとする」としています。超党派改正議連のメンバーは、「実際に、『宗教的情操教育』をするとなると、『道徳』の時間となると思いますが、その際、戦前の『修身』の教科書のように、素晴らしい生き方をした世界の宗教家たちのエピソードを教えるというやり方は大いに参考にしたらいい」と語っています(79頁、「鷲尾」発言)。政府・基本法改悪案の場合は、「宗教的情操教育」という言葉は入っていませんが、「宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」となっています。ですから、「宗教に関する一般的な教養」(政府・改悪案)として「戦前の『修身』の教科書のように、素晴らしい生き方をした世界の宗教家たちのエピソード」を教材にすることも可能になってしまうのです。超党派改正議連のメンバーは、「伊勢神宮」への修学旅行が激減していることを問題視したり(72、73頁、「山谷えり子」発言)、「靖国神社参拝の問題と、宗教的情操教育をどうしていくのか、というのは密接に関係してくる」等と論じたりしています(82、83頁、「鷲尾」発言)。政府・改悪案の場合も、「宗教に関する一般的な教養」とありますので、その中で「伊勢神宮」や「靖国神社参拝の問題」をとりあげ、「我が国の宗教的伝統(国家儀式としての神道形式)」(83頁)にふれる、ということも可能になってしまうのです。

【5】、「学校、家庭、地域の連携と協力」:超党派改正議連の基本法改悪案にも、政府・改悪案と同じように、「学校、家庭、地域社会の連携と協力」や「家庭教育」に関する条文案があります(政府案の場合は「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」)。超党派改正議連の亀井郁夫委員長は、「我が国の教育制度には、『地域社会との連携』という視点も、『親が我が子にとって人生最初の教師である』という視点もない、子どもの教育は学校に『丸投げ』になっている」、それは現行の「教育基本法に、『地域社会との連携』や『子どもの教育に対する親の責任』という視点が欠落しているからなのである」と力説しています(6頁)。現行法は、「第7条・社会教育」で「家庭教育」に言及していますので、亀井議員の批判・攻撃は、事実に反する、意図的なものです。ただ、亀井氏の指摘から、超党派改正議連の改悪案(あるいは、政府・改悪案)の中に、なぜ、「学校、家庭、地域社会との連携」や「家庭教育」についての条文案があるのかはっきりすると思います。それは、超党派改正議連が(そして政府与党が)「5年後、10年後の学校、地域、家庭のあり方に大きな影響を与える教育基本法の改正」という見方をふまえ(8頁、「亀井」発言)、教育基本法を改悪しようとしているからです。

【6】、「家庭教育」、「幼児教育」について:超党派改正議連の改悪案にも、政府・改悪案と同じように、「家庭教育」条項や「幼児教育」の条項があります。「家庭教育」についての議連案は、「教育の原点は過程にあり、親は、人生最初の教師であることを自覚し、自らが保護する子どもを教育する第一義的責任を有する。国及び地方公共団体は、家族の絆を育成および強化し、家庭教育の充実を図るため、適切な支援を行う責務を有する」となっています。政府・改悪案も、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」となっています。ですから、国家や行政権力が、家庭教育に介入していく構造はまったく同じなのです。超党派改正議連の改悪案の場合は、「家族の絆を育成および強化し、家庭教育の充実を図る」となっており、「家族の絆」を力説しています。そして、超党派改正議連のメンバーは、この条項が「成立すれば、家庭科教科書の記述も全面的に見直してほしい」と述べ、「家族の絆」を破壊する教科書への攻撃や「ジェンダーフリーに対する攻撃」を強めていく、としているのです(102頁、「萩生田」発言)。そして超党派改正議連のメンバーは「ここで何とか家族の解体、地域社会、ひいては国の崩壊を食い止め、本来の国力を取り戻す方向へ日本の方向性を変えていくべきではないか、これが教育基本法改正の最大の眼目だ」と強調しているのです(120頁。「後藤博子」発言)。また、超党派改正議連の改悪案の場合は、「親は、人生最初の教師である」とし、例えば「乳児については、お母さんがしっかり面倒をみていく、という一線をきちんと守っていくべき」という考えを力説しています(106頁、「後藤」発言、「3歳児未満の乳幼児保育」の否定)。ですから、「家庭教育」と「幼児教育」はワンセットの条項になっているわけです。超党派改正議連の改悪案の「幼児教育」は、「幼児教育が生涯にわたる人間形成の基礎となる重要性にかんがみ、国及び地方公共団体は、その振興に努めるものとする。国は、幼児の心身ともに健やかな発育を期し、幼児教育の大綱的基準を定める。幼児教育は、家庭との緊密な連携を図り、これを助け、かつ補完するものでなければならない」となっています。政府・改悪案の「第11条・幼児期の教育」案は、「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない」です。両者とも、「保育所保育指針」と「幼稚園学習指導要領」にある共通語句「生涯にわたる人間形成の基礎を培う」を利用し、条文案を作成している点など、たいへん似ています。ただし、超党派改正議連の改悪案の場合、「幼児教育の大綱的基準を定める」と踏み込んでおり、「幼児教育はあくまで家庭教育の補完的位置づけ」とし(104頁)。それを義務づけています。そして、「この条文を根拠に、幼児のうちから保育園などに預けるのは当たり前だという社会風潮を作ってはいけない、というのが、起草者としての共通の認識」と解説しています(108頁、「萩生田」発言)。政府・改悪案は、超党派改正議連のような復古的な主張を採用していませんが、乳幼児期からの道徳教育を重視している点は、類似しています(政府・改悪案は、保育所保育指針や幼稚園学習指導要領における「生涯にわたる人間形成」という表現を、わざわざ「生涯にわたる人格形成」という表現になおしており、幼児期の人格教育〔道徳教育〕を重視しています)。

【7】、「教員」条項:超党派改正議連の改悪案にも、政府・改悪案と同じように、「教員」条項があり、「学校の教員は、法令に従い、教育の崇高な使命を自覚して教員としての資質と能力の向上を高め、その職責を遂行して教育の目的達成に努めるものとする」「初等中等教育に携わる教員は、教育活動の全ての領域について、適切な指導と評価を受けるものとする」と書かれています。政府・改悪案は「学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」とありますので、両者とも「崇高な使命を自覚」という表現は共通しています。超党派改正議連のメンバーは、〈現行法には「学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」とだけしか書かれておらず、「使命の中身についての明文規定がなかった」ため、「戦後長らく教員は『聖職者』か『労働者』かとういう論争」に決着がつかなかった〉と総括しています(142頁、「中川義雄」発言)。そして「労働者としての権利を主張する組合幹部ばかりが幅を利かす雰囲気では、教育はいつまで経っても良くはならない」等と論じています(143頁、「中川」発言)。結局、「崇高な使命を自覚」等の明文規定をおくことで、「教員は労働者ではなく、聖職者である」と、はっきりさせたいわけです(「教師の労働者性」の否定)。そして、超党派改正議連のメンバーは、「議連案でも、『教員』という項目を新設していますが、その『教員』の項目で、教員自身がまず『国家の一員としての自覚』を持ってもらおう、という精神規定を盛り込むことも必要になってくるのではないか」と主張しています(42頁、「古屋圭司」発言)。これは、全ての「学校の教員」に、国策教育の担い手として自覚してもらう、ということを意味しています。実は、政府・改悪案も、超党派改正議連の「教員」論と同じように、「学校の教員」を、国策教育の担い手にかえる構造をもっているのであり(「教師の労働者性」の否定)、そうした問題に注意する必要があります。

【8】、「国及び地方自治体の役割分担」と「教育行政」。そして「義務教育の構造改革」との関連&「教育振興基本計画」:超党派改正議連の改悪案には「教育行政」という言葉はなく、「国及び地方自治体の役割分担」という表現になっています。その内容は、「国は、教育の機会均等と教育水準の維持向上が図られるよう、地方公共団体との適切な役割分担を行い、これを監督する権限を有する。地方公共団体は、国との緊密な連携を図り、区域内の教育に関する権限を策定し、これを実施する権限と責任を有する」というものです。超党派改正議連の下村博文委員長代理は、「これまでのような、現場『丸投げ』の教育行政の在り方を放置して」はいけない、と述べています。そして「なぜ、国は、学校現場に『丸投げ』していたかと言えば、現行の教育基本法の第10条の『教育は、不当な支配に服することなく』という文言に一因があります。この文言をもって『国は教育内容に関与してはならない』という解釈を日教組側がしきりに喧伝し、下級裁判所がそれを認めたこともあったため、現場の教育内容に対して責任をとることに及び腰になってしまった」と論じています(130頁)。そして「これからの時代は一人一人の能力を高めることが結果的には、社会、ひいては国の豊かさにつながっていく」のだから、日本の国力を保障するため、「議連案には、第8条『義務教育』のところで、『国は義務教育に対する権限と責任を有する』と明記した」と解説しています(131頁、「下村」発言)。つまり、「これからは、国が教育内容に関与してよい」と基本法に明記し、「国は、教育の機会均等と教育水準の維持向上が図られるよう、地方公共団体との適切な役割分担を行い、これを監督する権限を有する」としているのです。政府・改悪案の場合は、「教育行政」という言葉を残し、しかも、「教育は、不当な支配に服することなく」という文言も残しています。しかし、政府・改悪案の場合も、「教育は、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」という明文規定を置いていますので、「国が教育内容に関与してよい」ということになってしまうのです。つまり、政府・改悪案の場合も、国家が学校現場を不当に支配つづけてもよい、ということになってしまうわけです(政府案の「教育は、不当な支配に服することなく」という文言は、本来的な意味が剥奪され、「国策教育は不当な支配に服することなく」という意味に180度変質しています)。また、政府・改悪案の場合も、「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」となっており、〈国と地方との役割分担規定〉は、超党派改正議連の改悪案と同種のものです。超党派改正議連のメンバーは、この問題について「近年、どんどん規制が緩和され、地方分権が進んでいる。この流れを止めて今更、中央集権型の教育行政にすることはできない。ですから、規制緩和や地方分権はどんどん進めていくが、義務教育が法令や学習指導要領に基づいてしっかりと行われているかどうかを事後チェックし、その結果を情報公開するという形で、国は教育に対する責任を果たしていくべき」と主張しています(135頁、「笠浩史」発言)。また、この問題で、下村前文部科学政務官は「国が責任を持ちながら、学校現場には大きな裁量を委ね、学校間の競争の中で義務教育を活性化させていくということです」と説明しています(136頁)。これらの発言は、05年10月に中教審が打ちだした「義務教育の構造改革」そのものの説明です。結局、超党派改正議連の改悪案も、政府・改悪案も、ともに「義務教育の構造改革」を推進していく、という点では全く同じ性格のものなのです。また、超党派改正議連の改悪案も、政府・改悪案も、ともに「教育振興基本計画」の項目を条文案化しています。その点、両者とも、[国策教育振興計画]を根拠づける法律案になっているのです。教育基本法改正促進委員会・起草委員会編の『教育激変』に登場する議員の多くは、共著『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道』(PHP)の執筆者です(亀井郁夫〔国民新党〕、下村博文〔自民党〕、山谷えり子〔自民党〕、古屋圭司〔無所属〕、笠浩史〔民主党〕、松原仁〔民主党〕)。ですから、超党派改正議連の改悪案には、「(教員は)適切な指導と評価を受ける」という規定を置き、「努力をした先生には給与面も含めて報いる一方、努力をしない先生、教員としての適性に欠ける先生には辞めていただく、こうした教員の待遇についてのシステムを導入する」としているのです(144頁、「下村」発言)。

【9】、株式会社としての学校経営を認める方向性:現行教育基本法第6条の第一項は「法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる」ですが、超党派改正議連の改悪案は、「法律に定める学校は、公の性質をもつ」だけになっており、「国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる」という箇所を削除しています。この点について、下村氏は「(後半の文言を削除した)理由は、学校の設置主体に関する制限を取り払うことによって、学校に新規参入を促進し、健全な競争原理を導入し、教育界の活性化を図るとともに、教育を受ける側がより多様な選択肢をもつことができるようにしようという狙いからです」と説明しています(152頁)。下村氏の理屈によれば、株式会社も、学校設置に乗り出せることになります。これは、教育の「商品化」政策であり、学校の「多様化」政策です。既に分析したように、政府・改悪案の場合も、株式会社が学校設置に乗り出せるようになっています。

【10】、国家主義的「公民教育」と、国家主義的「政治教育」:超党派改正議連の改悪案は、現行法の「政治教育」を「公民教育」に変えています。そして、その条項に第1項は、「公民教育は、国民が社会における自己の責任を自覚し、国家社会の発展に積極的役割を担うことを目的にして行わなければならない」となっています。超党派改正議連のメンバーは、この箇所について、〈「『国家の一員としての自覚』の具体的展開として新たに『第15条』に『公民教育』という項目を立て」、「かなり踏み込んで」「公民教育の目的」を規定している〉と説明しています(37頁、「松原仁」発言)。現行法の場合は、「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」ですが、前文で「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」としています。ですので、現行法の場合は、政治教育で憲法学習(平和主義や民主主義、人権の学習)を重視しているといえます。しかし、超党派改正議連の改悪案では、「教育の目的は、(中略)心豊かな個人を育成するとともに、共同体とのかかわりで人格を陶冶し、家庭、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成をはかることである。この目的を達成するため、あらゆる段階において、伝統と文化の尊重、愛国心の涵養および道徳性の育成を図るものとする」となっています。ですから、超党派改正議連は、家族などの私的共同体や国家という公的共同体とのかかわりで、人格を鍛錬するための「公民教育」を重視しているのです。そして「公民教育」を通じて「愛国心や道徳性」を育成しようとしているわけです。政府・改悪案の場合は、「政治教育」という文言を残しており、しかも、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」となっており、これは現行法の文言とほぼ同じものです。しかし、政府・改悪案は、「第2条・教育の目標」案に、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」や「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という規定を入れています。ですから、政府・改悪案の方は、「政治教育」を通じて「公共心や愛国心」を育成しようとしているわけです。以上のように考察すれば明らかなように、政府・改悪案の「政治教育」も、超党派改正議連の「公民教育」と類似した機能を果たしてしまうのです。言い換えれば、国家主義的な「公民教育」、国家主義的な「政治教育」という点で、両者は、非常に似ているものなのです。

【11】、以上、超党派改正議連の「新教育基本法」案(議連案)をみてきましたが、この分析も、国会における審議と密接に関連しています。例えば、「文部科学省・教育基本法改正推進本部」副本部長の有村治子政務官(自民党・高村派)は、超党派改正議連の事務局次長であり、しかも、「新教育基本法」案(議連案)を起草したメンバーです。ですから、有村副本部長は、「議連案」の視点も踏まえながら、「政府の基本法改悪案」を成立させようとしているのです。また、「教育基本法に関する特別委員会」(45名)には、超党派改正議連の「最高顧問」や「顧問」、「委員長代理」や「事務局長」のメンバーも参加しています。そして、この特別委員会において、民主党の「日本国教育基本法案」(議員立法案)を提案したのは、超党派改正議連の事務局次長でもある議員です(5月24日、「笠浩史」議員)。ですから、国会の「特別委員会」における議論において、「超党派改正議連」的な見解も飛び交うことになるわけです。
 すでに指摘しておいたように、文科省の有村副本部長(超党派改正議連・事務局次長)は、現行法の「前文」には「歴史的な重み、深みがない」と批判しています。この主張によれば、政府・改悪案には「歴史的な重み、深みがある」、つまり、政府・改悪案には〈戦前の国家・社会との連続性がある〉ということになります。政府・改悪案の「前文」(案)には、「たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家」という表現がありますが、この表現のうち「民主的で文化的な国家」という語句を――「つくる会」の公民教科書のように――、〈明治期から連続している国家像〉と理解すれば、政府・改悪案には、有村氏がいうような「歴史的な重み、深みがある」(国家の連続性がある)ということになるわけです。


(第5章)、「海外における戦争推進」勢力と教育基本法改悪問題――9条改憲と基本法改悪。

 小泉首相は、教育基本法改定を審議している国会において、「(教育基本法改定は)子ども達を戦争へと追いやるものではない」と答弁し(5月16日の「衆議院速記録」)、「(教職員組合が)戦争に駆り立てようという法案だというのは、誤解というより曲解ではないか」等と答弁しています(5月24日の「衆議院速記録」)。しかし、教育基本法改悪は、憲法9条改悪と連動した動きなのであり、これからの日本の青年達が、海外の危険な地域で戦闘をおこなえるようにするための策動です。例えば、「文科省・教育基本法改正推進本部」の副本部長である吉野正芳文科大臣政務官は、憲法改悪(9条改憲)を強く主張している政治家ですが、例えば、同氏は「イラク支援特措法は、戦闘行為に巻き込まれる可能性が大」だが、「小泉総理も言うように、自衛隊は軍隊」「軍隊が戦闘を恐れていてはどうしようもない」、「命をかけて戦う自衛官に対し、憲法9条の枠内で行えというのは全く政治の無責任」「日本も国際貢献の一翼を担わねばならないならば、政治の責任で憲法改正等の法整備を行わねばならない」等と論じています(吉野正芳「平成維新たけなわ」、同氏のHPより)。「文科省・教育基本法改正推進本部」の吉野正芳副本部長の理屈によると、これからの教育で「軍隊の一員として戦闘を恐れない自衛官」や「命をかけて戦う自衛官」を育てなくてはならなくなるはずです(軍国主義教育の必要性)。つまり、吉野正芳副本部長は、21世紀の子ども達を「命をかけて戦う自衛官」「戦闘を恐れない自衛官」にしていくために、教育基本法改悪をすすめようとしている、ということになるわけです。


 「教育基本法に関する特別委員会」の町村信孝筆頭理事の考え方も、「文科省・教育基本法改正推進本部」の吉野副本部長の考えと同じものです。例えば、町村元外相は、自衛隊のイラク派遣について「『日本の自衛隊ここにあり』と世界に宣言するいいチャンスであったし、戦後の自衛隊が置かれた『不当に低い地位』に別れを告げるいい機会であると考えた」と論じています(町村『保守の論理』PHP研究所、05年刊)。そして「このたびイラクへ派遣された自衛隊諸君の態度は実に立派であります。国民の中には、自衛隊イラク派遣反対の意見を持っておられる方も多いでしょう。しかし自らの危険をかえりみず、日本のためにイラクに赴いた自衛隊員への敬意は失わないでほしい」と、国民に要求しているのです(町村前掲書)。町村信孝元外相の主張は、〈これからの子ども、若者は、自らの危険をかえりみず、海外の危険な地域に赴いた自衛隊員への敬意を持ちなさい〉という理屈です。子どもや青年が、そうした敬意を持ち続ければ、〈わたしも、世界で活躍する「立派な国際人」になりたい〉と考えるだろうということなのかもしれませんが、これは戦争国家の理屈にほかなりません。町村信孝元外務大臣は「このたびの自衛隊派遣は、国家としての大きな意思決定でした。これまでは、安全な地域ばかりに派遣されていた自衛隊が、危険な場所に出かけたのです。いままで実弾が飛んでこない場所にいたのですから、今回の自衛隊員のストレスたるや、想像を絶するものがある。でも、ちょっと考えたら変でしょう。安全な場所ばかり出かける軍隊なんて。自衛隊は、軍隊でないと考えているのは日本人だけで、世界の人々は軍隊と認識している」と論じています(町村前掲書)。このように、町村信孝元文科相(教育基本法に関する特別委員会・筆頭理事)の理屈は、〈自衛隊は現実には軍隊なのだから、日本の軍隊として、世界のどこにでも出かけていくべきだ〉というものなのです。そして、〈憲法9条を改定し、自衛隊を軍隊として認めるべき〉という主張なのです。町村信孝氏(=元・自民党国防部会長)は、〈凛とした日本人らしさ〉を力説していますが、日本が海外での戦争に参戦する国家になるために、〈実弾が飛び交う戦場にいったときのストレスに耐えられる心性や徳性(=凛とした日本人らしさ)を、小さい子どものときから訓練し、鍛え、育てておくべき〉という理屈も登場してくるのです(心の軍事教練)。そこで、教育基本法を改悪し、戦争国家の教育システムを整備しておくことも必要になるわけです。
 小泉内閣の教育基本法改悪案は、現行法(第1条)の「人格の完成の理念」にあった「自主的精神に充ちた人間性」と「個人の価値と尊厳性」に関する規定をなくしました。子ども、青年が、「個人の価値と尊厳性」や「自主的精神に充ちた人間性」を備えた人格に育ってしまうと、「自分の命をかけて戦う人間」「軍隊の一員として戦闘を恐れない人間」にはなれないからです。また、小泉内閣の教育基本法改悪案は、現行法の前文にある「平和を希求する人間の育成」という記述をなくし、「正義を希求し、公共の精神を尊」ぶ「人間の育成」にかえています。この場合の「正義を希求する」とは、「世界と日本の秩序を希求する」という意味であり、「公共の精神を尊ぶ」とは、「国家・社会の精神を尊ぶ」という意味です。ですから、小泉内閣の教育基本法改悪案は、その前文(案)の中で、〈世界と日本の秩序を希求し、国家・社会の精神を尊ぶ人間の育成を期する〉としているのです。つまり、小泉内閣の教育基本法改悪案は、〈海外の危険な地域での戦争行為に参加できる人間の育成〉を否定していないのです。言い換えれば、小泉内閣の教育基本法改悪案は、〈国際貢献としての軍事行動に参加する人間の育成〉を位置づけているものなのです。
もちろん、教育基本法の改悪は、戦争する国づくりだけが狙いではありません(大競争時代を乗り切るエリートの育成や小泉構造改革の教育版の推進など、財界の要求)。しかし、憲法改悪が「海外の危険な地域で戦争する国づくり」をめざしていることを考えると、教育基本法改悪は、「戦争する国」の担い手づくりにつながっていると考えられるのです。ですから、「教え子を再び戦場に送るな」という不滅のスローガンを再確認しつつ、教育基本法改悪法案の成立を阻止しなければないのです。

(おわりに)。

 現行教育基本法は、戦争への深い反省をふまえて誕生した「教育の根本法」です。そして現行教育基本法の「背景をなす思想的立場は、真理と自由と平和とを愛する近代民主主義の精神であり、また、その基底をなしている行為的・実践的立場は、近代民主主義社会を発展せしめてきた進歩的自由主義の原理」です(文部省『日本における教育改革の進展』1950年8月)。
 教育基本法改悪勢力の人々にとって、こうした現行法における民主主義的な理念や進歩的な原則が気にくわないのです。そして教育基本法改悪勢力の人々は、「まず大人が占領政策の洗脳から抜け出し、日本人としての誇りを持つ」べきであるとか(『自由民主』誌上〔04年12月号〕における河村建夫元文科相の発言)、「敗戦後遺症といったような発想を教育界から取り除いていかないと前向きな議論ができない」とか、〈戦後日本の原点を忘却すべき〉という議論を力説しているのです(5月24日の「教育基本法に関する特別委員会」における町村信孝元文科相の発言、「衆議院速記録」)。しかし、第二次世界大戦が終了した1945年は、世界人類にとって絶対に忘れてはならない「歴史的な転換点」です。そして、現行の教育基本法が明示した、平和や自由、平等を踏まえた教育理念は、「21世紀の日本」の未来にも引き継いでいかなければならないものなのです。
 戦後の一時期を除き、文部行政は、「教育基本法」を棚上げにし、そして「教育基本法」に反する文教政策を様々な形で進めてきました。しかし、「日本の教育基本法」は、フィンランドをはじめとする北欧諸国において極めて高く評価され、国際的な学力調査で世界トップになったフィンランドは、早いうちから「日本の教育基本法」を指針・参考にした教育を通じて、子どもと教育を大切にし、そして平和・人権・自由・共生の理念を普及・徹底させる国づくりをすすめています。つまり、「日本の教育基本法」が明示した教育プロジェクトの正しさや値打ちは、諸外国で試され済みなのです。
 ですから、今必要なことは、現行教育基本法を改定したり、改悪したりすることなのではなく、現行教育基本法を意識的かつ全面的に活かし、現代日本の子どもと教育を心から大切にし、その中で「真理と自由と平和とを愛する近代民主主義の精神」を普及・徹底し、そして真に平和で平等な「21世紀の日本」を築いていくことです。仮に、教育基本法が改悪されてしまえば、近未来の日本社会は、戦争によって「平和」が破壊され、〈格差拡大社会の原理〉を教育界に持ち込むことで「平等」が破壊されていく、そうした「21世紀の日本」に大きく変貌してしまうでしょう。どちらの「21世紀の日本」に向かうのか、今、私たちは、その歴史的岐路に立たされています。目の前で展開されている、教育基本法をめぐる問題は、単に教育問題なのではなく、日本の針路を左右する重大な歴史的問題です。力のかぎりをつくし、教育基本法の改悪を止めなければなりません。