学校の外から

続・日本ユング派河合隼雄批判

2006年1月21日掲載

林  功 三

その後の京都の事情ともう一つのユング批判

 その後、この半年間に京都の事情は大きく変わった。2005年までは市の教育委員会が全国に先駆けて「教育改革」の口火を切ってきたが、2005年の春以降、府教委も「心の教育」に乗り出してきた。府教委はいま独自に「心のノート教科書」(「教科書」に「ノート」というルビが振られている!)をつくろうとしている)。府教委は「道徳教育をはじめ全教育活動に活用できる、京都府の独自性を生かした『心の教科書(ノート)』を作成し、府内小・中学校における『心の教育』の充実に役立てる」といっている。「心のノート教科書」の作成委員会が設けられ、その長に山折哲雄が就任した。かれは最近まで河合の後を継いで京都の国際文化研究所の所長をしていたが、昨年春、定年退職を機に、河合の後継者になったらしい。実質的には、河合が完全に引退したというわけではない。「心のノート教科書」という構想はまさに河合隼雄の意図に沿うものである。さらに上記の作成委員会のほかに「作成助言者委員会」という委員会が設けられた。そのメンバーには、河合隼雄の兄で1924年生まれの河合雅雄(サルの学者)が就任している。河合隼雄は息子をじぶんの出身である京大教育学部のスタッフにしている。京都の社会学者のなかには河合一家は湯川秀樹博士一家と並んで郷土の誇る名門であるとおべんちゃらをいう連中まで出てきた。京都府教委もむろんそれを自慢している。
 ついでに河合雅雄以外の、助言者委員の顔ぶれを紹介しておこう。上田正昭、梅原猛、瀬戸内寂聴、千玄室である。かれらは「心のノート」というのが何であるかあまりよく知らないまま、名士・有識者といわれて助言者委員を引き受けたのだろう。このメンバーを見ると、わたしは高橋哲哉のいう「地金が出てきた」という印象をぬぐうことができない。

 京都の状況は以上の通りで困ったものであるが、ここで報告しておきたいことがある。わたしはその後、ユングの先の発言をきびしく批判しているもうひとつの有力な論説を見つけた。アレクサンダー・ミッチャーリヒが『罪と心』というタイトルで、1945年11月11日付でベルリンの「アルゲマイネ・ツァイツング」紙に載せた論説である(現在は10巻本のミッチャーリヒ著作集の第7巻に所収されている)。ミッチャーリヒはこの論文で、C.G.ユングが「ヴェルトヴォッヘ」紙でおこなったインタヴューを問題にしている。ケストナーの批判したのと同じユングの論説である。この論文を読むと、なぜ戦後ドイツやヨーロッパでユングが受容されないようになったかがわかる。ユングは徹底的に批判されているからである。

 ユングはミッチャーリヒにもケストナーにも反論していない。反論できるはずがなかった。そのかわりに、ユングは後にこのインタヴューについて何もいわないようになった。「新聞がかれの執筆記事を見せないまま印刷したから」というのがそのいいわけだった。(「新聞事件についての論説」チューリヒ1946年、137ページ)



ミッチャーリヒとはだれか

 ミッチャーリヒといってもピントこない読者が多いかもしれないので、かれの伝記を簡単に紹介しておきたい。アレクサンダー・ミッチャーリヒ(1908ー1982)は心理分析医で社会心理学者。青年時代に歴史・哲学を学び、1932年に博士論文を書きミュンヘン大学に提出したが、受け入れを拒否された。1933年、政権をとったナチスによって最初の逮捕。33年からミッチャーリヒは医学を学んだ。35年チューリヒへ亡命、医学研究を続けた。37年に非合法でドイツへ入国してゲシュタポに逮捕され、8か月間ニュルンベルクの監獄にいた。1938年ハイデルベルク大学で医学国家試験に合格。戦後、46年に、教授資格をとり、49年までチューリヒの病院で働いていた。47年から"Psyche"という雑誌を刊行。49年、ハイデルベルク大学に「精神・身体医学」科をつくり、それを後に拡大し、自身の病院をつくった。60年に、かれはフランクフルトアム・マインに「ジークムント・フロイト研究所」をつくり、76年まで、そこで戦後西ドイツで活躍した。
 かれの仕事でわたしたちがとりわけ忘れることができないのは、戦後すぐに、かれがひとつのドキュメンテーションを示したことである。かれはこのドキュメンテーションで、かつて輝かしい歴史的伝統をもっていたドイツの医学者たちが強制収容所の人体実験や人種殺戮に手を貸すようになった事情を克明に報告した。これはドイツ医学の歴史を、赤裸々に明らかにした衝撃的な報告である。この報告はすでにニュルンベルク医師裁判にも参照されたという。このドキュメンテーションはドイツでは1960年にはじめて『人間蔑視の命令』というタイトルで書物として公刊された(現在は『人間性なき医学』というタイトルで刊行されている)。この書物によって、ミッチャーリヒは西ドイツの「過去の克服」に大きく貢献した。医学・医療の分野だけでなく、一般にもかれは大きな影響を与えた。このドキュメンテーションの歴史的意義については後述するが、ミッチャーリヒの「過去の克服」はユングの世界に真っ向から対立するものだった。
 つぎにミッチャーリヒの仕事としては、かれがその妻のマルガレーテと共著で出した『失われた悲哀(1967)』も忘れることができない。これは、ドイツ人自身がナチスの凶行に、気持の上で、もしくは実際に、関与し、ユダヤ人の殺戮に手を貸した歴史的事実をどう受け止めるべきかを論じた重要な著書である。ナチスの時代に生きていたわれわれは良心を麻痺させていた。その事実を記憶すること、それを記憶を感情の上でもよみがえらせ、自分たちの罪責感に耐え、その罪責感とともに生きることを学ぶこと以外にわれわれの生き方はない、というのがこの書物の主旨であった。夫妻は、当時のドイツ人の、ナチズムの過去に対する「悲哀能力の欠如」を指摘し、それに全面的に対決することを求めた。
 戦後50年代に、年配のドイツ市民が経済復興に現を抜かして、過去と社会構造に対する批判的検討をまったく忘れていたとき、かれらとはちがって、ナチスドイツの過去を問題にする68年世代の若者たちが突如かれらの前に出現した。反乱を起こした若者たちにとっては、ナチズムの過去に対決する『失われた悲哀』とその著者はいわば導きの星のような存在だったろう。
 周知のように、68年には世界中で若者の反乱が起こった。アメリカのベトナム反戦と公民権運動、フランスの反ドゴール主義、東でもプラハの春などがあった。西ドイツの若者たちの運動にあってほかの国にはないテーマがあった。それは、かれらがナチズムの過去を問い糾したことであった。しかもかれらは親の世代を糾弾するだけでなく、それを自分たちの責任としてとらえたのである。

 66年から73年までミッチャーリヒはフランクフルト大学の心理学の教授だった。ミッチャーリヒはフロイトに関する多くの論文を書いている。
 これ以上ここでミッチャーリヒの学者としての仕事を紹介することは控えるが、以上の略伝からも、ミッチャーリヒはユングとは対照的な学者であったことがわかっていただけるだろう。ナチスに協力したユングとは反対に、ミッチャーリヒは初めから反ナチの学者だった。戦中ナチスに協力しながら戦後には居直って居丈高にドイツ人を糾弾したユングとは正反対に、自らはナチスに迫害されたミッチャーリヒは真っ先に「過去の克服」に取り組んだ。
 こういう科学者や思想家が日本にはどれだけいたろうか?

ミッチャーリヒのユング批判

 ミッチャーリヒのユング批判は、精神分析医・社会心理学者の立場からの専門的批判である。先のわたしの小論ではロコットの専門家としての立場からのユング批判を不十分にしか紹介できなかった憾みがある。ロコットはフロイトとユングの歴史的・理論的・思想的対立を述べ、ユングを批判していた。かの女はフロイトとユングの対立を歴史的にとらえている。ロコットのユング批判は80年代のものである。しかし、ミッチャーリヒはすでに45年11月、ユングのインタビュー論説が発表された時点で、ケストナーと同様、直ちに批判をおこなった。しかもそれは生半可なものではなかった。

 ミッチャーリヒの『罪と心』はわずか5ページにすぎない論文である。専門的な論文であり(門外漢のわたしにどこまでできるかわからないが、精神分析の専門的議論を避けるわけにはいかないので)できるだけわかりやすく紹介してみたい。
ミッチャーリヒはユング批判を次のように始めている。C.G.ユングは、現代の心理治療の学問領域で、偉大なウイーンの医師であるジークムント・フロイトと並んで、最も有名な人物である。ユングの関心は個々の病気の治療にとどまらず、歴史形成における異常性は何を意味するかという問題に向けられている。1937年にイェール大学でおこなった講演で、ユングは、じぶんの考えでは「心理的障害は疫病や地震よりもはるかに危険なものである」と語っていた。(「心理的障害」というのはナチズムのことではなく、むしろ、ナチズムに同化できない「異常性」であり、「障害」であったことは明らかであろう。ユングははっきりナチズムに与していたことをミッチャーリヒはこの短い引用で指摘している)。

 ヨーロッパの戦争が終わった後、ユングは、ドイツの破局の心的な面についてのかれの見解を示した。ヴェルトヴォッヘ紙のインタヴューには、かれの見解の一端が示されているにすぎないが、これにはユングの考え方を示す二つの主要なテーゼが述べられている、とミッチャーリヒはいう。
 第一のテーゼ。ユングは「ナチスとナチの体制に敵対した者を、かれらの思考によって区別することはできない」という。つまり意識的・思想的に反ナチである人物であっても、かれらを反ナチとみることはできない。そのことは心理を研究する学者にとっては自明のことである、とユングは断言している。
 (このユングの考えに対して、心理研究者であるじぶんは異を唱えないわけにはいかない、とミッチャーリヒはまず抗議している)。
 第二テーゼ。「すべてのドイツ人が、意識的にもしくは無意識的に、積極的にもしくは受動的に、凶行に関与していた。多くのドイツ人は凶行について具体的内容を何一つ知らなかったが、いわば密かな《生まれながらの契約》によってそれを知っていた。政治家たちはいま<集団責任>を問題にしており、今後も問題にするだろうが、この集団責任という問題は心理学者にとっては自明のものだった」とユングはいう。ユングは集団責任論という、占領軍が提唱したドイツ国民のための政治教育をだれよりも先にすすんで受け入れていた。
 さらにユングはこういっている。心理治療に係わる者にとっては、まず「ドイツ人にこの罪を認めさせる」ことが心理治療の最も重要な課題である、なぜなら、これこそがかれらを治癒する第一歩であるからだと。(罪を認めなければならないのはそもそもだれだったろうか?ナチスに協力したのはだれだったろうか?)
 ミッチャーリヒはユングのテーゼを以上のように紹介し、第一のテーゼに戻ってユング批判をはじめている。ユングは「明白な反ナチス」であるかれの二人の患者の心理を研究している。ユングは、たとえばかれらの夢を研究して、「かれらのきわめて上品な態度の奥に、ナチスの暴力と残忍性をもった、明白なナチ心理が生きている」のを観察したといっている。
 しかしユングの患者は、精神分析医のじぶんにいわせると、いわゆるノイローゼ患者である。フロイト以来、わたしたちはヒステリー、強迫症、病的欲求などのあらゆる形態のノイローゼが本質的に個人的罹病であること、つまりそれが個人の心的な起源をもっていることを、知っている。心理分析は、個々人が共同体に適応するために幼年時代の初期からどれほど努力しなければならないかを明らかにした。これは、心理分析学が成し遂げたおそらく最大の認識であった。個人の「エゴ=Ich」はいたるところで「エス」が課している禁止と限界に突き当たる。「エス」、それは親族、階級、民族、国家、最終的には人類のような普遍性をもった、共同体である。一人の人間は、かれの内部に性格が前提として示されると、また教育が役に立たなくなると、共同体に対する緊張が鬱積し、危険な状態におかれる。かれ自身はそのことを長い間、認知せず、理解しない。かれがそれを痛みをもって感知すればするほど、かれのエゴ=衝動と、自己保存への原始的な欲求は、慣習や法によって抑制され、個人とかれの世界との敵対関係はますます強いものになる。
 しかしこれだけではまだ本当の病気は発生しない。だれもが、じぶんのなかに、環境に対して、エゴ的人間が、「エゴイスト」がいることを知っている。「エゴイスト」は、よくみれば、かれ自身が苦しんでいる。自己を超えて「他者=Du」に達することができないからである。しかしエゴイズムは、エゴの内部の痙攣が―つまり共同体に対する強い敵対関係や、激しい攻撃的意志が―ある限度を超えると、危険なものになるため、個人はもはやそれを容認することができず、抑圧せざるをえない。それは密かに心の変化の中でふたたび病気の兆候をとって―麻痺、強迫、不眠などとなって―現れる。犯罪者の、法を犯しても生き延びようとする攻撃的意志は、ノイローゼ患者のばあい、自分に向けられ、病気として現れる。じっさいには、この成行きはもっと複雑であり、病気は環境が最終的従属をおこなわせるための強制手段であるが、そのことを今はこれ以上論じない。ただ、ここで確認しておかなければならないのは、すべてのノイローゼはきわめて緊張した攻撃性の産物であるということである。
 ユングの二人の患者がかれらのファンタジーの中で残酷な、暴力的イメージに没頭しているということは、かれらが本物のノーローゼ患者であることを証明している、とミッチャーリヒはみる。ノイローゼ患者たちが、ある環境―その環境の中で、ほかの人びとは別の、犯罪の道を歩み、かれらのエゴイズムは共同体に対立する―に対立して、その環境から生まれた心的言語(夢はそのひとつであろう)を表現手段として使うことは、理解できることであり、精神治療をおこなうわたしたちにも納得できることである、とミッチャーリヒはいう。ユングとはちがう診断である。
 しかし、ここで付言しておかなければならないのは―とミッチャーリヒはいう―ナチズムの栄光と没落の時代のドイツで、自分は多くの精神病患者を―ナチスと「上品なドイツ人」を―しばしば警報のサイレンや爆撃の大きな騒音のために中断を余儀なくさせられながら、治療してきた。そのわたしの経験からすれば、実際におこなわれた凶行がいつも人びとの心の表層にとどまっているにすぎないのをみることは、むしろ驚きであった。そうミッチャーリヒは自身の治療経験を語っている。

 これに対してユングはどうか。ユングの心理学ではすべてが太古の役割によって演じられている。ユング心理学の心の舞台では、現実に何が起ころうと、すべての人間存在は無時間性の中にあるから、ナチズムは、そして人間の罪もまた、一時的な影のようなものにすぎない。

 ユングの第一テーゼに対しては、こう応えることができる、とミッチャーリヒはいう。かれのノイローゼ患者が攻撃的であるからといって、すべての人間の心的状態をそうだと結論することはできない。患者たちは、その人格の中に、エゴイズム利己主義とアルトゥリズム利他主義を現実にたいして未解決の状態におくことができる。ことによれば、患者は「父親」殺しを夢見ているのかもしれない。とはいえ、父親殺しは極端な例外である。ノイローゼ患者たちが夢の中でナチスと同じように振る舞おうとしているというのであれば、それはかれらが共同体を、かれらにとって軽蔑の対象である領域を、外的な、また内的な行為によって、捨て去ることができないからだ。ミッチャーリヒはそう患者たちの心理を分析する。 

 ユングの根本的誤り

 次にミッチャーリヒはユングの第二テーゼの「集団責任」を問題にしている。
 わたしたちはユングの第二テーゼに、恐るべき誤った答があるのをみることができる、とミッチャーリヒはいう。なぜなら、ユングは「すべてのドイツ人」に責任があるといっているからだ。ユングは積極的責任について、また受動的責任について語っている。ユングにとっては、すべてのドイツ人が(ナチとして)犯罪者になるか、もしくは(「上品な」ドイツ人として)ノイローゼ患者になるか、そのどちらかであるという。
 ここで解明されなければならない点が二つある。「すべてのドイツ人」ついて、とユングはいう。ユングの語るのは統計数字の意味でのドイツ人ではなく、個人の意味でのドイツ人であろう。ならば、ドイツ人というのはいったいだれのことか。ドイツ人であるとは何かを、わたしたちは明確にしなければなるまい。近代的な大衆国家の示した「血のカオス」をみたわたしたちが、今再び、ユングのように、ナチスがしたのと同じような人種定義をして、ドイツ人を規定することがどうしてできるだろうか。ドイツ人に近い人種はスカンディナヴィアに、スイスに、イギリスにもいる。
 それでは、わたしたちは、ドイツ人とは1933年から1945年までドイツに住んでいた人のことだと定義すべきだろうか。もしくは、ドイツ人とは、ドイツにいて、法と道義の要求にしたがってナチズムに対抗しなかった人びとのことだと定義すべきだろうか。これは、内容の乏しい、危険な定義であるが、明確な定義であるかもしれない。なぜなら、この定義は、個々人が、かれをとらえた特殊な国家権力にたいしてとった―無力な関係といわないまでも―関係に言及しているからである。ついでにいえば、この定義からは、ナチスに対する警告に耳を傾ける者はいなかったこと、また警告する者には死の運命が与えられたこと、チャーチルのような男の言うことを誰も聞こうとしない時代があったのはなにもドイツだけでなかったことが、聞き取れるからだ。

 いまドイツでは、敗戦という特殊な関係の中で、責任とは何かについて概念規定をすることが必要とされるようになった。古代においても現代においても、戦争で敗北すれば、一つの民族に政治的全責任が問われることを、疑う人はいない。いつの世にも敗北した民族には戦争賠償金が課せられた。その結果、戦争責任が支払われるか、それとも国家の独立が失われるか、そのいずれかであった。今度の戦争の後の新しい事態は、もはや政治的な、支払い可能な全ての責任が問題にされているだけでなく、ひとつの民族に烙印を押す、道義的な統一的責任が問題にされるようになったことである。その外的なきっかけをつくったのは、ナチ党であり、ナチスによっておこなわれた、道徳律の恐るべき破壊である。ドイツ人を一括りにしているユングは、いまも、党と民族と国家が不可分であるというナチスのテーゼを無批判に受け入れている。
 ユングは、秘密裡に結束して犯行を犯したすべてのドイツ人について語り、すべてのドイツ人が道義的な罪の告白をすべきだ、といっている。
 まさにここにはかれの根本的な誤りがある、とミッチャーリヒは指摘する。ユングはドイツ人の秘密裡の関係について語っているが、かれのテーゼの根拠は明かにされておらず、まだ調査されてもいない。個々人の権威主義的国家に対する関係―しかも人びとの意識の次元における関係―がどのようなものであったかを、ユングは少しも明らかにしていない。

 ヨーロッパの法的原則によれば被告は無罪であるというのが出発点である。個々人の罪が証明されてはじめて罰が与えられる。じじつ占領軍はそのように実践している。わたしたちは、歴史上の、非論理的と見られる事件とその結果について、つまり妄想について―魔女妄想であれ、ゴールドフィーバーであれ、ナチズムもしくはそれに似たものであれ―それを解明しようとするのであれば、認識の手続きを怠ることはゆるされない。頭ごなしに罪の告白を求めるようなことをしてはならない。わたしたちは、不幸な歴史の領域に立ち入り、そのすべての関連を調べなければならない。敗者に対し道義的に優位の位置に立つことに満足するよりは、歴史の真実を明らかにすることこそが重要であるとみる。だからわたしたちは、思想と個々人の伝記的データを問題にせざるをえない。わたしたちは、道義の荒廃や社会集団の腐敗と、街の中にいて困窮に苦しんでいる個々人を取り違えるようなことはしないだろう。過去12年間ドイツではユダヤ人がそういう取り違えの対象にされた。今わたしたちがドイツ人について、「反ユダヤ主義」と同じように、野蛮な思考判断をすることは許されない。だれよりも心理学者は、そのような危険な判断を避けなければならない。心理学者は、さまざまな人間の集団的活動のなかに、人間存在の原型、自己実現を求める個人がいることを知っているからである。

こうしてユングはミッチャーリヒによって、ナチズムの歴史から何も学んでいないことが暴露されている。河合が日本ファシズムの歴史から学んでいないで、「日本人」を云々し、愛国心教育を説くのは、ユングに倣えばこそだろう。

 ミッチャーリヒははっきり述べている。いまわたしたちが研究しなければならない本来の問題は、そしてわたしたちがユングのテーゼに反対して扱うべき問題は、個人的自由を除去し、国家権力を強化させたのは何かを、研究することである。つまりこの論文の冒頭に述べたように、「エゴ」と「エス」の根本的関係を変えたものが何かを研究することである。
 この問題はきわめて古くからのものである。すでにタキトゥスは、シーザーが恣意的に支配しているかれの時代をみて、それをローマの民主主義の偉大な時代と比較し、はっきりこういっている。「われわれは、いまどれほど人びとが得意になっているか、その証拠をいま実際にみている。そして、昔は自由がどこまで可能であったかを思い起こしている。われわれは、いま奴隷化がどこまで進んでいるかを、監視によって話すことも聞くこともできなくなっていることを、知っている。いまわれわれは、かつてのじぶんたちの声だけでなく、忘却すること、じぶんたちが沈黙できたという記憶までも、失ってしまった」(Klingner 版1943年, 498ページ)。
 しかし―とミッチャーリヒはいう―わたしたちはもう沈黙する必要がない。わたしたちにとっては、体験したことを忘れないこと、歴史の真実を偽造しないことが義務である。それはわたしたち自身を、すべての人びとを、教化するために必要なことである。歴史の下す判決は、わたしたちがどこまで思慮深くなれるかにかかわっているのだ。


ミッチャーリヒの立場

 45年11月、ミッチャーリヒは以上のように述べて、ユングを批判した。1945年11月といえば、まさにミッチャーリヒが、上述の『人間性なき医学』という歴史的ドキュメンテーションで第三帝国のドイツの医師たちが強制収容所の囚人たち、ユダヤ人、戦争捕虜、精神病患者などに医学実験を施した凄惨な事実を、歴史的に一つひとつ明らかにしていた時期である。つまりミッチャーリヒはみずからの実践によってユングを批判していたのである。
 1960年になって初めて書物として刊行されたこのドキュメンテーションの前書きの一つにミッチャーリヒ(と共著者のフレート・ミールケ)は次のように書いていた。
 「過去の償いをすることは、われわれ人間の力をもってしてはほとんどできないことである。しかし、過ちを克服することは、弱者であろうと強者であろうと、もっとも人間にふさわしい行為である。われわれの意図は、努力と恥を惜しまない人、歴史からすべてを学ぼうとする人を助けることであった。そのような人のために、われわれはおびただしい書類と愚行の記録を示し、その中に歩むべき正しい道を切り開こうとした。われわれは個々の人間の罪を暴露するためにそうしたのではない。われわれは、すべての民族を苦しみの中に巻き込んだわれわれの時代のすべての関係の一部を認識できるようにしたのである。われわれの罪を小さいものにすることはわれわれの関心事ではない。なぜなら、罪を知りながら生き延びるときにのみ、われわれは同時代の人びとの尊敬を獲得することができるからである。かれらの尊敬をえられるのでなければ、われわれの人生はもはや生きるに値しないのだ」。
 歴史から何一つ学ぼうとせず、頭ごなしに「ドイツ人」の「集団責任」を説くユングとはちがって、歴史的に、具体的に、責任とは何であるかをミッチャーリヒは明らかにした。

 すでに46年に占領軍の政治教育テーゼの「集団責任」論が誤りであることを指摘した人びとはドイツに少なくはなかった。しかしユングの「集団責任」という考え方がナチズムの考え方を継承するものであることを指摘したのはミッチャーリヒだけではあるまいか。ユングはミッチャーリヒによって完膚無きまでに批判されているといっていい。このユング批判が戦後のドイツの医学者・心理学者に影響を与えなかったとすればむしろ不思議であろう。ドイツだけでなく、ヨーロッパでユングが受容されない理由はそこにある。

戦後のドイツと日本

 むろんすべてのドイツ人医学者がミッチャーリヒを理解したわけではない。ドイツの医学者の中にも頑迷な者、歴史の偽造をおこなう者は少なくなかった。50年代の初め、ドイツ医学会のボスたちはミッチャーリヒを弾劾し、ミッチャーリヒはほとんど亡命の体でオランダに移住したほどである。しかしミッチャーリヒの仕事は着実に理解されていった。一口にいってしまえば、それが戦後60年のドイツの歴史である。ユング派の河合はドイツでどれほどナチズムの反省がおこなわれたかを知らないらしい。1960年に出版されたドキュメント『人間性なき医学』をはじめ、ドイツでは、また世界各国ではナチズムの歴史の徹底的検証が行なわれている。それは医学だけでなく、あらゆる分野においておこなわれている。その結果、社会そのものも大きく変わっている。河合は『人間性なき医学』受容の歴史も―かれは医師ではないが―知らないらしい。
 河合は、あのドキュメントがわたしたちに示唆しているような、日本の歴史を考えたこともないらしい。河合は日本人がアジアで何をしたかを反省する必要がないと思っているらしい。

 かれは口をひらけばすぐに「日本人は」という。またかれは講演などで「私たち」と繰り返してやまない。2年前に京都市教委が主催したある講演会で、かれは日本の道徳に着いて語ったことがある。(かれはプロスペル・メリメの短編小説『マテオ・ファルコーネ』にヨーロッパの「固い道徳」を見て、それに対する日本人の「しなやかな道徳」を提唱した。メリメのあの小説にヨーロッパの道徳を代表させるというのは噴飯ものだが、それについてはいま問題にしない。)かれがあまりに「日本人」を強調するので、会場にいた「心の教育はいらない!市民会議」のメンバーの一人が「私たちとはだれのことですか」と声を上げて訊いた。「えー・・・大多数の日本人のことです。それでいいと思います」とかれは答えた。文字通りかれはそう語った。わたしはこの耳で聞いたのだからまちがいはない。少数の批判的な日本人や在日外国人は無視し、排除してもかまわない、というのである。
 国連によれば今日本は世界中でも最も外国人労働者・難民を受けなければならない国であり、毎年64万7千人を受け入れなければ日本の社会はもはや成り立たないという。流入してくる外国人に「郷土や伝統的文化を尊重せよ」と強要するのが「心のノート」である。これが「しなやかな」道徳教育だというのか!
 また一昨年同志社大学でおこなわれた講演会(講演内容は日本は八百万の神の国の国であるというテーゼと、聞くに堪えないような自慢話であった)で、かれは1時間ほどの時間に100回以上「日本人」ということばを口にしたという。
 ここでもう一度、ミッチャーリヒがユングの「ドイツ人」を批判したことを思い出していただきたい。河合のいう日本人とはだれのことか。河合が日本人というとき、それは永遠に不易の日本人であり、まつろわぬ者は排除してかまわぬというのがかれの日本人規定である。ユングのドイツ人規定と同様、ファシストの日本人もいなければ反ファシストの日本人もいない。アジアの諸国で、また国内で、残虐行為を繰り広げたファシストは、かれにはまったく意識されていない。もしくはかれは意図的にそれを隠蔽している。天皇制ファシズムの歴史については沈黙し、隠蔽し、偽造するのがいい、とかれは考えているのだろう。かれは以前、森巣博に、「愛国心」をもっていた皇軍兵士がアジアで暴虐行為に走った歴史を問われて、<わたしたちの世代はひどい目にあった経験があるから、あの時代の愛国心をいいとは思わない>(「週刊金曜日」)と言う意味のことばを語ったことがある。しかしかれは問い詰められて苦し紛れにそう口走っただけで、自らまともに日本ファシズムの歴史に向かい合ったことがない。向き合おうとさえしたことがない。
 河合がリーダーとなってつくられた「心のノート」は美しい「日本の風土」を讃え、子どもたちに愛国心を鼓吹している。「心のノート」は、衣装は替えても、本質的には戦前の道徳教育を復元する教材である。かれはその「道徳教育」によって歴史偽造をおこなおうとしている。
 河合隼雄の歴史認識は、靖国参拝を是とする小泉首相をはじめ、政府自民党の極右指導者たちのそれと実質的にはまったくかわらない。そもそも河合が教育界に登場した役割の意味がそこにある。こういう人物が文化庁長官となり、教育に介入し、子どもたちに「愛国心」を説くのをわたしたちは許していいのだろうか?

2006年1月