学校の外から

「ふるさと」「仰げば尊し」「我は海の子
文部省唱歌と愛国心のすりこみ

2004年1月22日掲載

~本庄豊と野崎優子とのメールによる意見交換~

(その1)

本庄です。「ふるさと」は長野オリンピックの閉会式で歌われた歌という印象でしたが、北朝鮮拉致被害者の会で歌う歌でもあり、また君が代反対運動をされている方が、「『ふるさと』こそ国歌にふさわしい」と述べいることなど、非常に複雑な背景を持つようです。

作詞者は高野辰之、作曲者は岡野貞一。高野は明治九年生まれで、アジア・太平洋戦争の終戦を知り、昭和二十二年になっくなっています。長野県下水内郡豊田町出身の国文学者で、東京音楽学校(現,東京芸術大学音楽学部)教授のとき、同じ学校の声楽の助教授だった岡野貞一とともに、文部省唱歌をつくることを命じられたそうです。

高野の経歴を追ってみると、長野師範卒。26歳で文部省国語科教科書編纂委員となり、33歳から文部省小学校唱歌教科書編纂委員を務めたそうです。100校以上の校歌の作詩をしたといわれています。その後、東京音楽学校に行ったということなのでしょうか。

この二人は、「紅葉」(秋の夕日の 照る山もみじ・・・)、「春の小川」(春の小川は さらさらいくよ・・・)、「朧(おぼろ)月夜」(菜の花ばたけに入り日うすれ・・・)、「春が来た」(春が来た 春が来た・・・)、「日の丸のはた」(白地に赤く 日の丸染めて・・・)もつくっています。すべて文部省唱歌。

さて、「日の丸のはた」の歌詞は……。

1 白地(しろじ)に 赤(あか)く
  日(ひ)の丸(まる) そめて
  ああ うつくしい
  日本(にほん)の 旗(はた)は
 
2 朝日(あさひ)の 昇(のぼ)る
  いきおい 見せて
  ああ いさましい
  日本の 旗は

と、かなり危ない歌です。「ふるさと」には、それがないのでしょうか。歌詞は以下の通りです。

1 うさぎ追(お)いし かの山(やま)
  小(こ)ぶなつりし かの川(かわ)
  夢(ゆめ)はいまも めぐりて
  忘(わす)れがたき ふるさと
 
2 いかにいます 父(ちち) 母(はは)
  つつがなしや 友(とも)がき
  雨(あめ)に風(かぜ)に つけても
  思(おも)いいずる ふるさと
 
3 こころざしを はたして
  いつの日(ひ)にか 帰(かえ)らん
  山はあおき ふるさと
  水(みず)は清(きよ)き ふるさと

この歌に北海道のアイヌ、沖縄の人々の心は歌ってあるのかと問われれば、大いに疑問でしょう。ふるさとを温帯モンスーン的里山に限定しているのも問題です。しかし、わたしが一番まずいと思うのは、三番の歌詞です。典型的な立身出世主義ではないかと感じます。「故郷に錦を飾る」という意味でしょう。間違いなく。

高野が結婚する時、妻の母から「将来、人力車に乗って(出世して)帰ってくるなら」という条件を付けられたそうです。貧しい農家出身の高野が選んだ道は、師範学校に入り、そこから文部省へ。国語教科書編纂委員となり、最後には文学博士となって故郷に錦を飾ったのです。(実際に人力車に乗って故郷に戻ったという記録もあるそうです)

同じく立身出世主義の歌に「仰げば尊し」があります。「身を立て 名を上げやよ励めよ」と「こころざしを はたして」とは同じ意味です。農村を破壊して都会に出る。都会で真っ黒になるまで働いて、成功せよという歌に聞こえてきませんか。

高野が文部省国語教科書編纂委員のときどのような編纂をしたのかについても、調べてみたいと思います。これを全教教研の全体会で歌ったという事実について、私たちは何を考えるべきでしょうか。少し、この場で議論したいと思います。いかがでしょうか。

(その2)

関連投稿です。かなりまじめに追いかけています。いかがですか。
唱歌によるふるさとイメージの定着と、修身による固定化という、当時の構図が見えてこないでしょうか。

「心のノート」によるイメージ化とつくる会教科書による思想の固定化、日の丸・君が代をつかった、異端の排除など、共通するものを感じているのはわたしだけでしょうか。(野崎)

本庄です。高野辰之の年譜がありました。かなり苦労した人のようです。小学校教員のとき、近くの真宗寺に下宿し、住職の娘と大恋愛の末に結婚しましたが、後に島崎藤村が「破戒」でこの寺をモデルにし、住職を生臭坊主として描いたため、高野は怒ったそうです。典型的な下からのはい上がり組のようです。『心のノート』で有名になった、京都市教委出身の文部科学省官僚も似た面を持っています。(蛇足)

<高野辰之 略年譜>
1876(明 9) 0歳 4月13日長野県下水内郡永田村(現豊田村)に、父高野仲右衛門、母いし、の長男として生まれる。
1887(明20)11歳 永江学佼(現永田小学)卒業。
1891(明24)15歳 下水内高等小学校卒業。永江学校へ代用職員として勤務。
1897(明30)21歳 長野県師範学校卒業。下水内高等小学校訓導となる。
1898(明31)22歳 中等教員国語科検定試験に合格する。東京帝国大学教授上田万年について、国語・国文学の研究を始める。つる枝と結婚。
1900(明33)24歳 長野県師範学校教諭兼訓導となる。
1902(明35)26歳 「国文学史」教科書出版。文部省国語教科書編纂委員となる。
1904(明37)28歳 文部省国語教科書編纂委員となる。
1906(明39)30歳 このころから、日本各地に伝わる童話を調査し、再話作品を発表する。
1908(明41)32歳 東京音楽学校邦楽調査係嘱託となる。
1909(明42)33歳 文部省小学校唱歌教科書編纂委員を嘱託される。
1910(明43)34歳 東京音楽学校教授となる。
1911(明44)35歳 尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」を掲載。尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」を掲載。
1912(明45)36歳 尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」を掲載。尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」を掲載。
1914(大 3)37歳 尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載。
1920(大 9)44歳 このころから、古書画類の購入に力を注ぐ。
1922(大11)46歳 「近松門左衛門全集」出版。
1923(大12)47歳 国学院大字講師兼ねる。
1925(大14)49歳 論文「日本歌謡史」により東京帝国大学から文学博士の学位を授与される。
1926(大15)50歳 「日本歌謡史」出版。東京帝国大学講師となる。大正大学教授を兼ねる。
1928(昭 3)52歳 「日本歌謡史」に帝国学士院賞を授与される。天皇皇后両陛下に「日本歌謡史」を御進講申し上げる。斑山文庫を建てる。
1930(昭 5)54歳 皇太后陛下に「道成寺」を御進講申し上げる。
1934(昭 9)58歳 野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求める。
1935(昭10)59歳 勲三等瑞宝章を受ける。「江戸文学史」出版。
1936(昭11)60歳 東京音楽学校に、念願の邦楽科が新設される。
1945(昭20)69歳 斑山文庫は土蔵造りのため東京大空襲による戦災を免れた。
1947(昭22)71歳 1月25日、野沢温泉村対雲山荘で永眠する。

高野を文部省に引っぱったのが、吉丸一昌という男です。

吉丸は大分県出身。明治41年東京音楽学校教授となり、文部省から『尋常小学校唱歌』(全6冊)の編纂委員(作詞)を嘱託されました。社会矛盾の激化した明治末期、文部省は国民思想の統一をはかるべく、唱歌についても、準国定の教科書出版をはかったのです。白羽の矢を、若い高野に立てたのです。
そしてできたのが唱歌「ふるさと」。ヤマトのふるさとイメージのすり込みにどんなにこの歌が貢献したでしょうか。ふるさとから、愛国心までは、意外と近道かもしれません。いかがでしょう。


(その3)

本庄さん、野崎です。問題提起を興味深く拝見していました。
実は、諫早市のワースト1位2位を争う小学校長が、いきなり14年度の卒業式に「仰げば尊し」を導入し、卒業生に歌わせました。

道徳では「郷土愛」から「愛国心」にもっていくのだと開示請求をした結果(中学校全校14年度・15年度)確信しました。それに家族愛もセットになっています。愛する家族の為に、ふるさとの為に国を守るのだというプロパガンダに使われます。(防衛庁の無料ビデオも)

音楽の歴史を専攻している方から、「我は海の子」にも立身出世の意味があると伺いました。音楽の歴史にも、国のコントロールを見る思いです。以下に音楽の歴史の興味深い話しをご紹介します。

<Tさんから>

以前ある国際学会に参加した時、日本の唱歌がいかに日本人の音感を破壊したかと嘆くドイツ人がいました。伝統伝統で培われてきた日本人の音色や旋律の作り方に対する考え方を大きく変えたのが学校唱歌だったからです。

今日我々が「日本の叙情」として考える音楽が往々にして《六段の調べ》ではなくて《ふるさと》なのには、こういった明治政府による学校唱歌の普及があります。

また唱歌というものがしばしば「国民統合」に使われたことに関しては音楽学者の方も調査を進めています。『ExMusica』という雑誌のプレ創刊号には西島央さんによる「国家としての『にっぽん』、故郷としての『にっぽん』」という論考がありました。ここでも「ふるさと」や「我は海の子」の最終コーラス(今日ではほとんど歌われなくなった部分)に露骨な立身出世主義の歌詞があり、これらの唱歌が本来持っていたナショナリズム/軍国主義的側面があからさまに指摘されています。

※《我は海の子》の第7コーラスの歌詞です。

 いで大船を乗だして
 我は拾はん海の富。
 いで軍艦に乗組みて
 我は護らん海の国。

つまり学校唱歌というのは、各地の民謡や伝統芸能にあった日本古来の音楽習慣を、「和洋折衷」という、表向きは東西融合、内実は欧風帝国主義に染めたのですね。これは音楽に限らず生活のあらゆる面で進行した明治以来の文化の流れではないかと思います。

(その4)

さて、唱歌に関して、それが国民統合に使われただけでなく、植民地支配にも使われた例として、わたしの友人が別のMLに投稿した一部分を転送します。(本庄)

<本庄の友人から>

田村志津枝『悲情城市の人びと』(晶文社 1992年)より

「台湾では・・・思わぬところで日本の歌に出くわすことがある。・・・(撮影中の)ある日、山肌のどこかから、鼓笛隊に中国の伝統的な楽器、哨吶(スオナ)や銅鑼をまじえて、ブンチャカブンチャカというマーチふうの音楽が聞こえてきたこともある。合間には台湾の歌も日本の歌も入っているようだ。きけば葬式の楽隊で、霊柩車とともに行進をしているのだという。・・・音楽はしだいに山を降りてきた。『しょうじょう寺の狸囃し』を演奏しながら山肌沿いのカーブを曲がり、一行が撮影現場に姿をあらわした。・・・
 このタヌキの歌は、台湾では『白ウサギ』という童謡になっていて、いまでも子どもたちにうたわれている。『むすんでひらいて』は『かくれんぼ』になっているし、「いまは山なか、いまは浜」の『汽車』は『田舎のネズミ』だ。・・・考えてみれば不思議なことだ。戦後、台湾の政府は日本の植民地支配の名残を払拭しようとさまざまな試みをしたと聞くが、文化政策の根幹である教育の場に、こんなに堂々と日本の童謡がたくさん残ってしまったのはなぜだろう。小学校の卒業式では、侯孝賢の『冬冬の夏休み』の冒頭にあったように、いまでも『あおげば尊し』がうたわれているという。」

(その5)

諫早市北諫早小学校の津田龍一アホ校長は「仰げば尊し」と「螢の光」を卒業式に強行導入しました。こいつは、確信犯だったのですね。こんな意味を保護者は知らないんじゃないでしょうか?今回、本庄さんから歌の歴史を教えて頂いたので、全国で「螢の光」と「仰げば尊し」の歌を復活させる動きがあればすごく参考になりますね。このバカ校長の裏は「校長会」なのか、日本会議のような右翼組織の入れ知恵なのか、気になります。(野崎)

本庄です。蛇足をします。

「ふるさと」よりかなり古い唱歌として知られているのが「蛍の光」です。周知のように、歌詞三番と四番が大き> な問題となっています。

わたしは以前、李香蘭の講演を聴きに行ったことがあります。当時は山口淑子という本名で参議院議員となっていました。もちろん自民党です。彼女が、卒業式で「蛍の光」を歌うなら、三番・四番こそが大事だといっていました。

【作詞】ロバート・バーンズ
【作曲】スコットランド民謡
【訳詞】稲垣千穎(ちかい)
【MIDIデータ作成協力】Iwakichsky

1.蛍の光 窓の雪
  書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
  いつしか年も すぎの戸を
  あけてぞ今朝は 別れゆく

2.とまるも行くも 限りとて
  かたみに思う 千(ち)よろずの
  心のはしを ひとことに 
  さきくとばかり 歌(うと)うなり

3.筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 
  海山遠く へだつとも
  その真心は へだてなく
  ひとえにつくせ 国のため

4.千島のおくも おきなわも
  やしまのうちの まもりなり
  いたらんくにに いさおしく
  つとめよわがせ つつがなく

「蛍の光」ですが、その4番の冒頭は日露戦争後、台湾の果ても、樺太もと変わっています。日本の支配地域が広がっていくのがよくわかります。