学校の外から

冬のエッセイ
大学非常勤講師最後の年の出会い 

2019年1月2日掲載

 定年退職後、大学の非常勤講師を勤めて15年になった。今年度が最後の年だ。担当している科目は社会科授業研究。前期授業のことだった。授業中「私の父は中国で戦死した」と話した所、後でY君が来て、「今年の三月に一〇一歳で亡くなった私の祖父(後で分かったことだが「曾祖父」だった)はシベリヤ抑留の体験があったと聞いています」と教えてくれた。私は「詳しい戦歴を知りたいのなら、兵籍簿を取り寄せるといい」と言い、翌週「兵籍簿の取り寄せ方」を教えた。兵籍簿の申請をすると、実際に来るのが一ヶ月ぐらいかかる。待っている間、父親がシベリア抑留からの帰還者である僕の友人、Iさんと連絡をとった。彼の父は彼の18歳の時に死亡し、定年後、父のシベリア抑留体験を調べている。「もし学生の兵籍簿が来たら、私はシベリア抑留について詳しくは知らないので、兵籍簿を見てほしい」と依頼した。
 前期の最終日にY君はにっこり微笑みながら「曾祖父の兵籍簿が手に入りました」と言い、そのコピーをくれた。私は「僕の友人でシベリア抑留について詳しい人がいるので、兵籍簿を見てもらってもいいか」と了解をとった。しかし帰って兵籍簿のコピーを見ると、「これはシベリアではない!インドネシアだ」と驚いた。Y君にインドネシアの間違いであると連絡した。「曽祖父が私に太平洋戦争の話をよくしてくれたのですが、高齢の記憶違いでそう私に伝えてしまったのかも知れません」と彼は言う。Iさんにもその旨を伝えると、「若い世代がなぜ曾祖父の戦争体験に興味を持ったのか知りたいので、できたら三人で会えないか」と言う。九月中旬に三人で高槻市内で会うことになった。
 Y君は20歳の大学生、Iさんは高校時代にベトナム反戦市民運動に関わった世代で66歳。私は父が中国戦線で戦死し、戦後母の手で育だった世代で74歳。3世代がY君の曾祖父の戦争体験について語り合うというめったにない機会だった。曾祖父は今年3月に亡くなった。Y君が持参した100歳の祝いの会場入り口で撮った正装した写真はかくしゃくとしてダンディーだった。曾祖父の家系は女系家族。曾祖父の戦争体験を誰も聞きたがらなかった。やっと曾孫の代に男子(Y君)に恵まれた。曾祖父はY君の家族と同居だったので、Y君に自身の戦争体験を話して聞かせた。Y君は曾祖父が大好きで、自然と曾祖父の戦争体験に興味を持った。私たちが知りたかったのは「どうして曾祖父の戦争体験に今も興味を持ち続けているのか」だった。彼は「私が曾祖父の戦争体験を引き継がなかったら、僕の所でそれが途絶えてしまうから」と答えた。きわめて印象深い言葉だった。Y君の持参した曾祖父の原稿(戦友会誌に掲載されたものだろう)がある。いくつもの修正や補足が加えられ、丁寧な文字で書かれた、几帳面な人柄を感じさせられる文章だった。Y君の曾祖父は1939年9月熊本教導学校(下士官を養成する日本陸軍の教育機関)を卒業、陸軍の航空整備関係の部署を担当した。1943年8月広島県宇品港出帆から1946年5月帰還まで、中国(上海、武昌、海南島)、サイゴン、タイ、シンガポール、インドネシア(ジャカルタ、東ジャワ、チモール島、スラバヤ、フローレス島等)を転戦した。3人で遅くまで彼の曾祖父の戦争体験について語り合った。今回のY君との出会いは大変楽しかった。
(松 岡)