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教師の「良心」を亡ぼして、教育がたちゆくか

2018年6月5日掲載

(元)高槻市立小学校教員 山田 肇

 2018年3月28日、大阪高裁・稲葉重子裁判長は、「君が代」不起立を唯一の理由とした再任用合格取消の撤回を求める訴え等を、すべて「棄却」、あるいは「却下」しました。その「判決」の内容たるや、一審の大阪地裁・内藤判決(2017年5月10日)以上の“ひどい”もので、またまた、「裁判所の門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ!」という『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著、講談社現代新書)そのものを見せつけられました。

1「反省」せず、「君が代」の踏み絵を踏まないとクビとした一審内藤判決

 一審大阪地裁・内藤判決は、私の処分は人事委員会で取り消されているのに、しかし、処分は取り消されても「職務命令に違反した事実」が「存在しなかったこと」にはならない、また、「職務命令違反」について「反省の態度を示しているとは認めがたい」から再任用取消は当然だ、と「判決」に書きました。
 また、府教委の言う「意向確認書」、しかし実際は「君が代」の踏み絵によって再任用を決める府教委のやり口を「争点」の眼目には入れず、卑劣なことに、「今後、卒業式・入学式等の国歌斉唱時の起立斉唱を含む上司の」という文言をわざと意識的に削って、「意向確認書は、職務命令に従うことの確認を求めるもの」だ、「教職員が職務命令に従うことは当然」と書き、府教委がやっている「君が代」の踏み絵を踏んだ者だけを再任用する、しかし踏まない者はクビにするという、この思想・良心を踏みにじる再任用採否のやり方を認めました。
 さらに、体罰や飲酒運転事例等で「停職6ヶ月」の者は再任用されているのに、なぜ私たちは「君が代」不起立による「戒告」で、しかも「君が代」の踏み絵を踏まないと再任用されないのか、こんなことが許されるのか?これも、この裁判の大きな「争点」でした。しかし、驚くべきことに、この事実に、大阪地裁・内藤判決は一言半句も言及せず、ほおかむりして、この再任用の採否に関する平等原則違反、比例原則違反の府教委のやり方を認めました。

2「君が代」不起立者を「異なる基準」=「君が代」の踏み絵でクビにしても平等原則違反・「思想・良心の自由」の制約でないとした高裁・稲葉判決

 私たちは1月26日(金)の高裁・第3回公判で、早稲田大学の岡田正則教授に執筆いただいた「教育公務員の再任用の法的性質およびその裁量の許容範囲」という「鑑定意見書」を提出しました。
 この岡田「意見書」は、再任用制度の趣旨からいっても、また、10以上も上げられた最高裁判決等の提示からいっても、府教委が再任用採否の「具体的審査基準」も、その「適用」も明らかにすることなく、「再任用合格の判定を受けた後の非違行為」だけをもって合格判定を取り消すという判断は、「総合的に判断し、合否を判定する」という再任用要綱5条の規定からも逸脱した、「不合理な判断」であることを明らかにするものでした。だから、日本の裁判所が“まとも”ならば、この岡田「意見書」の提出や私たちの「準備書面」によって、高裁での私たちの逆転勝訴は間違いなしと考えていました。
 ところが、大阪高裁・稲葉重子裁判長の「判決」なるものは、岡田「意見書」を一顧だにせず、内藤判決のごとく、「意向確認書」から姑息に「君が代」の部分を削ることもなく、わざわざ「意向確認書について」の項をもうけて、府教委の言う「意向確認書」、実際は「君が代」の踏み絵を真正面から取り上げ、「君が代」の踏み絵を「重視」し、この踏み絵を踏まない者は「問題」であり、それに「重きを置いて勤務実績を判断」して再任用を決めることは当然だとしました。そして、「君が代」の起立斉唱は「具体的遵守事項」だ、「今後同様の職務命令に従う意向があるか否かを確認すること」、つまり、「君が代」の踏み絵には「必要性、合理性がある」として、「判決」の名で踏み絵を認めました。
 さらに、大阪高裁・稲葉判決は、「君が代」不起立は飲酒運転や体罰事例とは「過去の非違行為に対する評価」が違う。「君が代」の踏み絵を踏まない者は「自らの主義主張を優先」し、法令や職務命令「遵守」が「期待できず」、「違反行為のおそれが高い」から「学校の規律や秩序の保持の観点から問題がある」、「君が代」不起立者だけを「異なる基準」で、つまり、「君が代」の踏み絵を踏まない者はクビにしても平等原則違反ではないし、「思想・良心の自由」の「制約」ではないとしました!何と恐るべき判決か!
 また、個別山田については、「実体上」処分が取り消されても、職務命令違反は消えないから、再任用取消は当然としました。しかも、この部分の「判決」文は一審内藤判決をコピペしたものです!(怒、怒、怒)
 岡田「意見書」は、私の「戒告処分は存在せず、かつ、この処分がなされたことを前提とする資質向上研修と意向確認書提出は山田氏とはまったく無関係」であるとして、私の再任用合格取消は、「重要な事実の基礎を欠く」「平等原則違反」「適正比例の原則に違反」しているから「裁量権の逸脱・濫用であって、違法である」としたにもかかわらず、稲葉「判決」は、ただただ、私が「君が代」の「踏み絵」を踏まないから、再任用取消=クビは当然としました。

3教師は命令に従うアイヒマンたれと、裁判所が言う!
 
 この「判決」の論理・・「国歌斉唱時の起立斉唱に係る職務命令に従う意向を有し」ない者、すなわち、「君が代」の踏み絵を踏まない者は、まだ先の卒・入学式で「君が代」不起立の「おそれ」がある(「おそれ」だけで判断してクビにするこの恐ろしさ!)から、「勤務実績を判断する上でこれを重視」してクビは当然・・・というこの「判決」の論理でいくと、職員基本条例の「君が代」不起立「3回でクビ」という規定すら超えて、「意向確認」ができない者、すなわち「君が代」の踏まない者は、直ちにクビ!というところに帰結します。なんという恐ろしいことでしょう。「君が代」の起立斉唱を誓約しない者はクビ!という将来を、この「判決」は先取りし、そこへ道を開こうとしていると言えます。
 この「判決」には、最高裁が言った「君が代」不起立は、教員の「歴史観」「世界観」という認識もありません。裁判所みずからが、「思想・良心の自由」を踏みにじって、「君が代」の踏み絵で再任用を決めていいんだ、教員は、ただただ、何も考えず「命令に従え」という国家の意思を体現したこの「判決」に、唖然、呆然を通りこして、満腔の怒りで腸(はらわた)が煮えくりかえっています。
これが裁判所か!これが「判決」か!思想・良心の自由は認めない、教師は命令に従うアイヒマンたれと、裁判所が言う。それでは教育は死んでしまう!
命令で教育は成り立たない! と大きな声で叫びたい。

4「君が代」不起立は「大逆」なのか 

 「教え子を戦場に送らない」という立場と、また、子どもたちに何が正しいか、何が間違っているか、自分で考えて行動するようにと言ってきた教師としての「良心」から、「君が代」は歌えませんと、私は静かに座りました。職務命令だから何でも従うということは「奴隷」の道であり、教師がただ命令に従うアイヒマンになっては教育は成り立たないと考えたからです。「君が代」で座ったのは、教育労働者として、また、子どもたちの前に立ってきた教師として、これだけは絶対に譲ることができないという、ささやかな抵抗でした。
 このささやかな抵抗でしかない「君が代」不起立を行った私を、高裁・稲葉判決は、法令や命令遵守が「期待できず」、その「反復、継続が予想され得る」から「問題」がある、「軽視できない」として、「君が代」を立って歌えという職務命令に従うと宣誓しないと、つまり、「君が代」の踏み絵を踏まないから、クビだとしました。ささやかな抵抗でしかない「君が代」不起立を、まるで国家に対する反逆、天皇制に対する大逆だと決めつけて、クビにしろと裁判所が叫んでいるかのようです。もはや、「思想・良心の自由」も憲法も民主主義も、そして、教育もこの国にはないのか、と思います。
 内村鑑三の「不敬事件」を思い出します。1890年10月30日に教育勅語が発布されて3ヶ月足らずの後の1991年1月9日、第一高等中学校で「明治天皇睦仁の署名入りの勅語謄本」への最敬礼を「キリスト教徒の嘱託講師内村鑑三がこの偶像崇拝の儀礼を拒んだために諭旨免官となった」(『福沢諭吉と丸山眞男』安川寿之助)事件です。       また、大逆事件をも思い起こさせます。「宮下太吉の爆裂弾製造を手かがりに、天皇暗殺を企てたとみなされた幸徳秋水ら26人が『大逆罪』で公判にふされ」大審院は1911年1月18日、24人に死刑、2人に爆発物取締罰則違反で有期刑の判決を言い渡した。死刑判決を受けた幸徳秋水や管野須賀子ら12人は、判決から1週間後の1月24日、25日に縊(くび)られてしまった。残りの12人は天皇の『恩命』で無期に減刑された」(田中伸尚著『大逆事件』)あの大逆事件です。この大逆事件で平沼騏一郎(当時、大審院の次席検事)は「動機は信念なり。その信念を遂行するため大逆を謀った」と「信念」を「大逆」としました。
「君が代」の「踏み絵」を踏まないからといって死刑にされませんが、「君が代」不起立の「世界観」「歴史観」、あるいは「信念」が「大逆」とされ、「不敬」とされる時代に私たちは生きているのでしょうか。内村鑑三や幸徳秋水が生きた時代から100年以上たった今も、何も変わっていないということでしょうか。

5大阪高裁は、そして日本の裁判所は、ナチスの「民族裁判所」なのか

 池田浩士さんが3月に『“増補新版”抵抗者たち―反ナチス運動の記録』という本を出されました。この本に、ナチスが政権を獲得した1933年1月30日直後の「1933年4月24日には、〈民族裁判所〉が設置された。従来の州裁判所や帝国裁判所とは別に設けられたこの法廷は、大逆罪及び反逆罪を裁くための特別の法廷で、もっぱら反ナチスの抵抗者たちを刑場や強制収容所に送り込むことを任務とした」(P173)。そして、1942年8月23日から、この〈民族裁判所〉の裁判長にローラント・フライスラーがなった。フライスラーは、「国賊たちに対する憎悪と冷酷さ」をむき出しにしたと書かれています。(P225)
 未だこの国には〈民族裁判所〉はないが、3・28大阪高裁・稲葉判決を読むと、大阪高裁は(大阪地裁も、また、日本の裁判所も)、「日の丸」「君が代」にささやかに抵抗する私たちを「大逆罪及び反逆罪」として裁くための法廷に化したのか!と思います。そして、さしずめ、大阪高裁・稲葉裁判長は、今やローラント・フライスラーと言うべきか!
 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の被告の一人、「62歳の陸軍元帥エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン」が、フライスラー裁判長に言ったことばに倣って、大阪高裁・稲葉重子裁判長に私は言おう!「あなたは『君が代』の踏み絵を踏まない私たちをクビにすることができるかもしれない。だが、いずれ、私たちと激昂した教育労働者が、あなたに借りを返し、あなたを正義と真理の歴史の法廷に立たせ、憲法を殺した裁判官として断罪するだろう」と。

6『亡国にいたるを知らざれば、これすなわち亡国』の現実

 田中正造が言った『亡国にいたるを知らざれば、これすなわち亡国』ということが、目の前で起こっています。かつて1990年代、6年生の国語の教科書下(教育出版)に『田中正造』が出ていました。その中に、田中正造が国会で、時の総理大臣・山県有朋に向かって、次のように言うところがあります。
「関東平野のまん中を不毛のさばくとし、そこの人間が助けてくれと請願に出るとなぐりつけ、しかも、犯罪人だと言って引っぱっていく。人間の生きる土地をほろぼして、国家が立ちゆくか。今や、日本は亡国となった。政府には、それがわからないのである」
 福島原発の事故と原発の存在も「亡国にいたる」ものです。さらに、この間の森友・加計問題です。一国の首相がウソを平気で言う、公文書を改ざんする、事実を隠ぺいする、そして、お気に入りとお友だちに便宜を図り、この国を自分のものとする安倍政権のやり方は「亡国にいたる」ものです。そして、高裁・稲葉判決が「亡国」の現実を示しました。もはやこの国に憲法も裁判所もありません。田中正造のことばに倣うと、「人間の生きる『義』を亡ぼして、国家がたちゆくか。」「教師の『良心』を亡ぼして、教育がたちゆくか」という「亡国にいたる」現実が目の前にあります。しかし、私たちはこの国が「亡国にいたる」のを黙って見ているわけにはいきません。「ささやかな抵抗」から、この国の根底的変革へ、「正義が直ちに通じる国」へと進まねば未来はありません。