LA SIESTA

沖縄・ひとり旅・ひとりごと(その2)

2018年4月7日掲載

 二日目。ゆっくりとした朝の時間がうれしい。小鳥の鳴き声を聴き、残波の海を眺める。午前中、読谷平和ガイドをしてもらえることになった。改めて読谷を見つめなおすことができそうだ。朝食後、出発。
 まず向かったのは、残波岬。雄大な海と海岸、白亜の灯台。岩の隙間にできた天然の塩をなめてみると残波の海の味がする!読谷の人にとって“こころのふるさと”ともいえる海であると同時に、米軍上陸の海でもある残波。私にとっては、母が亡くなる数年前に一緒に来た思い出の海。さまざまな想いが迫ってくる場所でした。
 次は、『さとうきび畑』(寺島尚彦 作詞・作曲)の歌碑。作者が摩文仁のさとうきび畑を訪れた時、「あなたが歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったまま」と聞かされたことをきっかけに出来たそうだ。碑の棒の数は、66回繰り返される「ざわわ」の数。碑の向こうにさとうきび畑が広がり、その向こうに米軍上陸の海が広がっている。「海の向こうから いくさがやってきた」この穏やかな海が戦艦で真っ黒に埋め尽くされたのだ。

 チビチリガマ。沖縄戦で多くの避難住民が亡くなったガマです。初めて来たときはまだガマの中に入れ、茶碗などが散らかっている様を目の当たりにした。今は中には入れない。三十三回忌を前にしてやっと語られ始めたという真実の重さに、言葉が見つからない。なぜ母が子を、身内同士が、殺し殺されなければいけなかったのか…。ガマの前でオーナーが、『チビチリガマの歌』(金城 実作詞・小室 等作曲)を静かに歌ってくれました。『艦砲ぬ喰ぇー残さー』(比嘉恒敏作詞・作曲)の歌碑。ここも米軍上陸の海が目の前に広がっている。沖縄のリズミカルな曲にのるウチナーグチ(沖縄口・沖縄語)の歌詞には、凄みがある。沖縄戦で生き残った自分たちを「艦砲の食い残し」と言い切り、「生まれ変わっても忘れられようか、誰があのざまをはじめたのだ」と迫る。私は、唄三線でこの曲を唄いたいと思っていた。近くでゆんたく(おしゃべり)していたおじいたちが、「役場に行ったら、工工四(三線の楽譜)くれるよ~。」と教えてくれた。作者の思いを受けとめて、頑張って練習しよう!

 読谷村役場。元米軍基地(読谷補助飛行場)の中にあり、それも基地が返還される前に建てられた。強引にではなく、日米地位協定の条文に則って。日米地位協定第2条4(a)「合衆国軍隊が施設及び区域を一時的に使用していないときは、日本国政府は、臨時にそのような施設及び区域をみずから使用し、又は日本国民に使用させることができる。ただし、この使用が、合衆国軍隊による当該施設及び区域の正規の使用目的にとって有害でないことが合同委員会を通じて両政府間に合意された場合に限る。」という規定(後日調べました)だ。基地があるために多くの被害を受ける状況にありながら、知恵を絞り、粘り強く行動してきた読谷の人たちの力を強く感じた。

 役場の入り口には、憲法九条の刻まれた碑が立ち、庁舎の壁には、オスプレイに抗議する看板が大きく設置されている。この読谷の人たちの平和を求める行動や思いが、これからも続いていき、広がっていくために私に出来ることは何なのか、考えさせられました。
 ここでオーナーさんとさようなら。あの国道58号をバスで那覇に向かう。何事もなく那覇に着きますように。しばらくして、運転席から「みなさん、バスに故障が起きました。次で下りて後からきたバスに乗り換えて下さい。」来たぁ~!!どこかのベルトが切れたらしい。ベルトの役目はわからないが、大事になる前に下ろしてくれた事に感謝か…。
 何とか那覇着。街宣車がうるさいと思ったら、今日は「天皇誕生日」だった。

 午後は桜坂劇場(主にミニシアター向きの作品を中心に上映)で、映画『米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー』を観た。瀬長亀次郎の闘いをドキュメンタリー風に仕上げた映画だった。彼の記念館『不屈館』でみたものを、生で感じられる映画でした。
 長い一日だった。薄暗くなった国際通りには、たくさんの観光客が行きかっている。その中のひとりである私は、店をひやかし、お土産を買う。民謡酒場もいいけど、今日は疲れたなぁ。ビールと紅芋天ぷら、沖縄おでんを買ってホテルに帰った。ひとりで酒盛り(?)、至福の時間。
(末廣)