学労ネット

休憩時間訴訟 高裁判決報告

2009年5月6日掲載

【こちらもご覧ください。】
>>>「休憩時間訴訟上告受理申立書」はこちら。<pdf書類>


休憩時間訴訟高裁判決/残念ながら敗訴
最高裁に上告受理申立をしました。
控訴人 松岡勲

 4月16日、休憩時間訴訟高裁判決がありました。遠方からの傍聴者をふくめ15名の方に参加していただけ、大変ありがたく感じました。以下、報告とします。
 高裁判決は残念ながら、敗訴でした。「本件各控訴をいずれも棄却する。」
 地裁判決と高裁判決をざっと読み比べてみると、基本的に地裁判決と高裁判決は同じ骨格で、高裁で裁判長から救釈明のあった休憩時間中の職員会議開催に関わって、その振り替えを行っているかどうかの箇所は、双方の主張と被控訴人側高槻市の意見を採用した裁判所の判断を挿入したものでした。何のための求釈明だったのかと思います。
 「これらの事実に照らせば、各校長は、教職員の同意の下に休憩時間の振替取得を教職員の判断に委ねていたと考えられる。そして、このような措置は、すでに説示した教育職員の職務と勤務の特性に鑑みれば合理性を有しているものと認められるから、相当でないということはできないし、また、校長が必ず教育職員に対して個別具体的に振替時間を指示しなければならないとまで断じることもできない。そして、かかる場合において、控訴人らが、結果として休憩時間の振替取得を行わなかったとしても、その不作為が、控訴人らの各自の自由意志を極めて強く拘束するような形態でなされていたということもできないというべきである。」(高裁判決58ページ)
 そして、労基法34条(休憩)1項の趣旨は「勤務開始後6時間を超えるまでに」休憩時間を設定すべきであり、放課後に休憩時間を設定しているのは労基法違反であるという我々の主張は、一切取り上げられていません。これは非常に残念です。
 また、給特法に関する記述は、萬井鑑定書が出ているので、用心深く補強している感じがします。この点は、もう一度、注意して読み直そうと考えます。(高裁判決52ページ中段~54ページ2行目)
 結局、70ページにもなる長々しい高裁判決でしたが、結果は、見るべきものは一切なく、不当判決です。控訴人らに少しでも勝たしたら、「全国的な影響」(たとえば損害賠償請求等)が続出するので、控訴人らの主張を封殺した、裁判所は「低い鞍部」を越える仕事しかしなかったと言えます。この国の裁判所はこの体たらくなのか!とほんとうに腹立たしい限りです。「このままでは引けない」というのが、控訴人の全員の心境でした。
 早速、判決2日後の4月18日の原告会議で、最高裁に上告受理申立をすることに決定しました。(憲法判断を求めていないので、「上告」ではなく、「上告受理申立」になります。)そして、4月30日に上告受理申立の手続きを完了し、引き続き、上告受理申立理由書の作成作業に入っています。作業の期間は50日間の厳守になっています。只今、必死にその作業に入っていますので、今後ともご支援をよろしくお願いします。  



高裁判決に対して
控訴人  志摩覚

 裁判長の「本件各控訴をいずれも棄却する・・・」との主文読み上げ後、何事もできず唖然となっていましたが、傍聴席や原告後方席から聞こえてきた、「ナンセンス!」との小さくも心強い言葉に、労働者を守らない司法行政への怒りが沸々と煮えたぎっていきました。
 といいながら判決文のどこかで地裁判決よりも教職員の休憩時間保障に対して現場で有効な言葉があるかもとか、前裁判長が求釈明した職員会議の休憩時間中開催に関して被控訴人らの手落ちに警告めいた言及があるかもとか(リップサービスに過ぎないが)、一縷の希望をだいてもいました。
 職員会議の休憩時間中開催に関して、「休憩時間の振替えについて①きっちり時間指定していたのか②各自の判断で取る様に指示していたのか③一般的に言ってあとは取っているだろうということだったのか」明確にすべきであると問題提起したのは高裁自身でした。
 しかし高裁判決では『被控訴人高浜は,休憩時間の振替については各教職員がその判断で取得していると認識していた』『被控訴人大西は,休憩時間の振替を別の時間帯に行うものと認識し,その扱いを各教職員に委ねていたことが認められ』『各校長は,教職員の同意の下に休憩時間の振替取得を教職員の判断に委ねていたと考えられ』『教育職員の職務と勤務の態様の特性(前記(1)ア)に鑑みれば合理性を有しているものと認められる』,『校長が必ず教育職員に対して個別具体的に振替時間を指示しなければならないとまで断じることもできない』『控訴人らが,結果として休憩時間の振替取得を行わなかったとしても,その不作為が,控訴人らの各自の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされていたということもできない』と被控訴人の主張を全面的に容認し、地裁判決を踏襲するだけでなく、更に踏み込んで私たちの休憩時間を奪う労働形態を黙認し、行政権力に加担する酷い判決である事が分かるにつけ怒髪天を衝く想いです。
 全国に及ぼす影響を考えると、給特法のみならず休憩時間に関しても、国家権力にとって小さな蟻の一穴を防ぐ為には「まず全面棄却ありき」なんだろう。だからこそ小さな穴を開け続けていく闘いを各現場でやらねばと思います。 今後ともご協力・お力添えお願いします。



ちがうやろ!休憩時間なんか
取れていないぞ~!!
控訴人 末廣淑子

 高裁の判決がでた。ちがうやろ!長い間裁判所にかよって来たというのにいつまでたっても裁判素人の私は、「不当判決」と唸りながら「休憩時間なんか取れていないぞ~!裁判長は、なんでこんなことがわからんのや。」と感情任せの怒りだけでいっぱいでした。一審の判決を覆すことはないにしても、少しはこちらの主張をみとめるような色がつくんじゃないかという期待が心のどこかにあったのでしょうね。その後、プロボノセンターで、傍聴して下さった方々の意見や感想を聞き、この裁判の持つ意味ややって良かったという思いを振り返ると共に、被告を追い詰めることのできる証拠固め(証拠となるデータ集め)の難しさを実感しました。「休憩時間は全く取れていない」という事実は確かにあるのに、それを立証するためのデータがなかったという悔しさやもどかしさ。府や市・校長らの「振替の申し出がなかった(ので、取れていると思った)」「振り替えられたと認識している」という全くデータもない証言が採用されてしまう腹立たしさ。けれども「休憩時間は保証されていない」という事実は厳然としてあり、それは「労基法違反」だということ。「労基法違反」は違法で、罰せられるべきこと。こんな違法状態を認めるわけにはいきません。高裁の判決は認められない!ので上告します。多くの方からの指摘があった「この運動をどう広げていくのか」という視点を持って、上告に進んでいきたいと思います。出来る日には(これがちょっと日和っている…)休憩時間は休憩し、5時15分になったら「倒れるで、早よ帰りや。お先に。」と言って、職場を後にしようっと。
最後になりましたが、原告会議で多くのアドバイスを下さったみなさん、傍聴に来て下さったみなさん、カンパを下さったみなさん、本当にありがとうございました。     



たたかいの始まり
控訴人 長谷川洋子

 あっけらかんとした判決文のおかげで落ちこむこともなかった。冷たく大きな怒りがあるだけだった。
 集会の横断幕を二枚用意していた。「一部勝訴」と「不当判決抗議・司法は行政の手先か・われわれに死ねというのか」だったが、こんな判決文を押しつけられて、「ナメんなよ!こんなケチくさい判決で死んでたまるか!」というのが今の気持ちだ。 
全くいいとこなしの判決文だが、「貴方達、これから職場でこんな風に動いて斗えばいいのよ」と言外に諭されているような気もする。

 たとえば・・
◆控訴人らの休憩時間が使用者(被控訴人校長ら)の指揮命令下における手待ち時間であったということはできない。(59頁14行)
「だから、アナタ達、休憩時間に仕事する時、校長にいちいち確認を取ってから仕事すればいいの。」

◆ 放課後に行う勤務のうちどのような作業を、休憩時間に従事していたかを具体的に特定することは困難である。(62頁17行)
「記録をとりなさい!記録は強いわよ。」

◆職員会議が休憩時間に行われる場合、事前に推進会議で決定され(中略)、推進委員が提案し教職員の了承を得ていた。 (58頁)
「だから、校長が提案した時にもめればいいのよ。」

◆控訴人らは(略)所定終業時刻までの数時間に年次休暇を取得することが少なくなかったこと(略)が認められるから、控訴人らが休憩時間を取得することが極めて困難であるような状況であったとまでは未だ認めがたい。(57頁6行)
「年次休暇をとったら、ヒマ人と思われます。年次休暇でなく、必ず休憩時間振替を使いましょう。」

「これで校長が時間を取られ困っても、職朝が紛糾しても、あなたが悪いのではありません。私たちがこの判決を下したのだから。」
と、高裁から檄をもらったと考えれば、次の斗い方が鮮明に見えてくる。
 もしかして、一時的に校長以外のひとも敵に回すことになるかもしれない。ひとりで斗うって辛い。
 でも、「なるべく誰も敵にまわしたくない」というひとの心のゆらめきが、日本の労働運動を弱めたのかもしれない。そんな要素がきっとあると五年間の斗いで学んだ。それをはねとばしていく者はつらいけど、斗い続ければきっと私の見えない所で後を継ぐひと達が出てくる。思いつめないであきらめないで変人扱いされながら斗い続けよう。
 五年間、大きな支援を頂きました大勢の皆様に厚く御礼申し上げます。どうかこれからもよろしくお願いします。

さらに跳ねあがれ!
横浜学校労働者組合
森下秀子

「本件各控訴をいずれも棄却する。」という裁判長の声と、直後の「不当判決!」という声。高槻学労ネットの組合員の顔には怒りや悔しさがあふれている。私は声も出ず、もう一度無表情な裁判長の顔を眺めて席を立った。
 去年、第2回弁論を傍聴してなかなかおもしろい展開という印象を持った縁もあり、今回の判決時には行きたいと執行委員会に申し出ていた。何らかの主張が認められているといいなという期待は裏切られた。地裁よりもさらに念入りに仕立てられた判決ということが、終了後の検討会でわかった。 弁護人なしでこの日まで継続してきたエネルギーの量。駅地下の店で少しビールを飲んだ位では埋められないだろうが、悔しさをバネにさらに跳ねあがれ。

先駆者の一歩
北九州がっこうユニオン・うい
竹森真紀

「休憩時間を保障しろ」という至極当たり前の要求を裁判沙汰をなしてまで請求し続けなければならず、その結果裁判所は「自主的勤務」「特殊な職種」といった言葉でいいごまかし、最低限の労働法である労基法はないがしろにされてしまう。という、またしても情けない司法の「我が身かわいさ」だけの馬鹿丁寧判決だった。そして、これが高等裁判所という階段を昇った結果であり、さらにまた最高裁判所という「最低」の裁判所へ異議を申し立てなければならないという「拷問」のような闘いだ。 にもかかわらず、必死で職場で何とか仕事をこなして年休とって裁判所へ駆けつけ、休日も打ち合わせだ、準備書面だと学習会したりしていることも、「世間」からは「悪魔」呼ばわりである。
 と、無茶苦茶悲観的な感想を述べてしまいましたが、本裁判は、「果たして人はどこまで奴隷に成り下がるのか」ということに耐えられないものたちの「自由」を求める闘いである。たった5人の本人訴訟で、全国の学校労働者の休憩時間を当たり前に保障させることを真正面から裁判所へ切り込んだ「先駆者」としての大きな一歩こそが、大きな希望でなくてなんだろうか。 この5人が本気で向かった結果は、裁判所が「我が身かわいさ」だけでは決して取り繕えないところまで追い詰められ、一審判決を馬鹿丁寧に焼き直すことに汲々とした跡が見えた。汲々とさせたこと、このことこそが一歩である。
 今度は最高裁、あんまり素人を舐めたらいかんですよ!



このたたかいは
  必ず引き継がれる!
京都市教職員組合
中野宏之

 裁判長の無味乾燥な「控訴を棄却する」との主文が朗読されました。初めての傍聴だったせいもあり、法廷では裁判長の人間性が全く伝わりませんでした。
 しかし、その後、判決文を読んで怒りがこみ上げてきました。全く教職員の置かれている状況に思いを寄せず、すべての労働者に最低保障しなければならない「休憩時間」すら、保障しなくてもいいという判決。行政の無法をただすのが司法の役割ではないのでしょうか。労働者を救済する視点がひとかけらもない判決。このたたかいは、将来必ず全国で引継ぎたたかわれる大きな課題であることに違いはありません。
 原告及び支援のみなさんのたたかいに心から敬意を表します。引き続きがんばってください。私たちも、超過勤務是正裁判の大阪高裁での更なる前進のために奮闘する決意です。



五秒の傍聴記
いしはらびん

5人・5年・5秒螂の斧・・・いやいや、目のつけどころがシャープです。おつかれさまです。

 5秒の傍聴記・・・難問です。どのようにふくらませるか。自身の「元号裁判」をはじめ、刑事、労働、民事・・・と何度か、こういう場面に出会ってきましたが、ムナシイものです。ニホン語にもなっていない判決文を読んで、そのムナシサは倍増します。
 先生の休憩時間に目をつけるなんて、さすが、シャープなみなさんです。当事者にとっては深刻なことなんですが、なかなかきりこむのは躊躇するものです。70年代、「聖職者」か「労働者」かの論争がありましたが、判決文は「教育職員」「特殊性」「自発性」「創造性」の羅列で、先生個人にゲタをあずけてしまうあいかわらずのシロモノです。そして使用者の「仕事」放棄は是認します。昨年8月29日の控訴審での裁判長の訴訟指揮は、思ったとうり、定年退職前のリップサービスにすぎなかった。シナリオどうり?とは思いたくはないものの姑息です。
 先生を反面教師として、今がある私でさえ、小学校のとき、1~2年、3~4年、5~6年、それぞれの担任は「いつオシッコにいってるんや?」と思うほど、教室にべったりいてはりました。3人の裁判官たちも、経験したであろう昔を思い出して見れば、少しは原告の気持ちがわかることだとおもうのですが。
 非正規、正規を問わない解雇、ワーキングプア、官製ワーキングプア・・・生きつづけるために、抗しつづける。「タブー」に挑戦したみなさんの当たり前の視線はそこにつながっています。         

現場の命を守る斗いに連帯
一色若夫(堺自主教組)

 5年間にわたる「本人訴訟」の斗い、御苦労様でした。労基法に基づく休憩を取りたいというささやかな要求が何故認められないのか不思議でなりません。
 文科省の調査(2006年)でも、休憩時間は1日10分足らず、時間外勤務2時間強、残業・持ち帰り仕事月60時間超という現場の実態。そして過労・ストレスにより心の病の急増。この現実を少しでも改善したいという訴えが通らない。本当に腹が立ちます。
 思えば、第4回弁論の時、証人申請を却下した理由が「萬井先生の説は承知している(今さら・・)」という素気ないものでした。その場の大方の感想は「判決の結論(敗訴)は出来ているな」というものでした。
 学校現場の労働実態を知ろうとしない司法、改善しようとしない行政に対して、今後も現場での命を守る斗いに連帯していきたいと思います。

種は必ず芽吹く!
鶴保英記(大阪市民)

 われわれ原告側は、1、2審を通して5人中2人のガン患者を出すという正に壮烈としか言いようのない裁判の末、漠然とした一定の予想は予め持っていたとはいうものの、未定の第3審を残して「棄却」という結果に終わった。しかし、原告5人が蒔いた種は確実に、芽を吹くと私は確信できる。弁護人に誘導され、その路線をのみ走るというのではなく、自分たちで考え、自分たちで裁判を進める本人訴訟は、いまの教育現場での現状を理不尽・不合理と思いつつも、現状に妥協し目を背けざるを得ないと考えている圧倒的に大多数の教員に多大の励ましになろう。その本人訴訟と関係があるかどうかは不明だが、被告側のある弁護人の、法廷における尊大な態度がとても気になった。それは今までの私の全く経験のないことであり、印象的には裁判官の立場をも超えた言動のようにも感じられた。
 原告の皆さん、ご苦労さまでした。



これはひどい 高裁判決
家保達雄(控訴人)

 4月16日、高裁での判決が出された日、体調不良で出廷できず自宅で気を揉んでおりました。自分なりの期待としては、勝訴には程遠いまでも判決文中に、被告に対する注意喚起・努力義務ぐらいの言及があれば良しと思っていたのですが甘かったですね、見事に裏切られた結果となりました。
'06年4月提訴以来、一審弁論16回・二審弁論4回と、5年間にわたる弁論を維持していくために、多くの方々の知見を得ながら原告として随分と学習を重ね、休憩時間の完全保障に向け、現状より一歩でも二歩でも前進していくことを眼目として、取り組んできたところです。
 今までのことに思いを馳せるにつけ、この不当判決は誠に残念であり、また無性に腹立たしく思います。人間関係の軋轢・公判維持のための物理的な時間の消費・訴訟費用等考えれば、余程の現実(私たちにとっては社会生活あるいは命に関わる健康問題、労働条件)が無い限り、そもそも提訴するわけが無いのです。原告の置かれている立場としては、社会的背景や挙証責任も含め、極めて不利な地点からの提訴なのです。司法当局の提訴趣旨の無理解にやるせなさを覚えると共に、この一連の裁判を通して行政訴訟の限界を垣間見た気がします。司法と行政の癒着体質をどう切り崩せるか、これが一番のネックではなかったかと思うのです。
 一審・二審の不当判決に共通することは、書証の軽視と現場の実情を知ろうとしない司法の、手抜きと怠慢です。また傍証としての、文科省の実態調査結果・各新聞報道に見られる教育現場の労働実態等を意図的に無視しているとしか思えません。つまり、この訴訟を取り巻く全体像に目を背け、現場からの具体的な書証をおろそかにする司法当局のありようは、行政との癒着体質を根底とした体のいい判断回避と言えるでしょう。何はともあれ、特に一審判決には憤りと言うより怒りを覚えます。綿密な証拠調べがされるべき場であったにも拘わらず、終始、木で鼻をくくったような対応に終わらせてしまったことは、かえすがえすも残念でなりません。
 しかしながら、司法が拠って立つべき真実は一つです。私たちの「休憩時間」は保障されていなかったという事実を覆すことはできません。これから舞台は最高裁に移るのでしょうか。いずれにしても原告としての思いは変わりません。自分たちの命と健康を守るために、そして当たり前の労働者の権利が行使できるように、一歩一歩踏みしめながら、この歩みを続けて行きたいと思っています。
 最後になりましたが、今までさまざまな形で支えてくださった皆様に心より感謝の意を表すると共に、今後とも力強いご支援を賜りますようよろしくお願い致します。



大阪高裁判決「核心部分」の根本的な誤謬
増田賢治(全学労組代表)

はじめに

 判決の「核心部分」と判決の根本的な誤りは、控訴人等の休憩時間中の職務行為について、校長が、①「休憩時間中に職務に従事するように明示して命令した事実(又は黙示の命令の事実)は認められない(50頁17行~18行・高裁判決)。」、②「職員会議への出席を除くと、(校長から)これらを遂行する時間帯までの指示があったとは認められず(したがって、これらの職務を休憩時間に遂行するよう指示があったとも認められない。)」、即ち「控訴人等は、定められた職務担当につき、各自の判断から、都合のよい時間帯にその職務を遂行していたと認めるのが相当である(51頁10行~14行・高裁判決)」と述べる。さらに、③「本来の終業時刻までに全ての職務を終わらせることができない場合もあることが推定されるが、これを休憩時間内に遂行するか、所定終業時刻後の残業として遂行するかは、各自の判断ということになる(51頁15行~18行・高裁判決)。」これらの判示に端的に現れている。そして、この判決は労働基準法に違反するばかりか、法解釈に根本的な誤謬がある。

1.教員の職務性(労働の内容)とは何か

 「自発的・創造的」な労働が教員に求められる「職務の特殊性」にあるならば、「自発的・創造的」な労働は、まさに教員の職務そのものに外ならない。何故ならば、教員が「自発的・創造的」に職務に専念すればするほど、教員は教員の職務、或いは当然に期待される教員としての職務を行っているとの評価を受けるからである。したがって、それらの職務について校長から逐一指示を受けるものではない。但し、校長がそれらの職務遂行に異を唱えることもなく、或いは黙認している限りは、「使用者」としての校長の暗黙の了解、或いは黙示の命令による職務の遂行だとみなされるのが常識である。
 この点に関して高裁判決では、一審判決の不足部分を補強しいている。
 例えば「教育の仕事に従事する教員の職務はきわめて複雑、困難かつ高度な問題を取り扱うものであり、専門的な知識、技能はもとより、哲学的な理念と確たる信念や責任感を必要とし、また、その困難な勤務に対応できるほどに教育に関する研修、専門的水準の向上を図ることが要求されるという特殊性を持つ。」そして、「その職務の遂行に当たり、教育職員の自覚・自発的意志によることにより多くを期待されているものから、教育職員の自覚・自発的意志によることが望ましいが、同時に校長等からの職務命令により義務としてなさなければならないものまで、種々の性格のものがある。」また、「教育職員の職務は、本来の業務か否か、教育職員の自発的意志に基づいて行われているものか職務命令による義務として行われているものかを明確に画することの困難な側面を有していることも否定し難いところである。」(53頁以降・高裁判決)等々の理由を各処に散りばめ挿入することで一審判決の非論理性を繕おうとしている。
 しかし、高裁判決全体を通しては、教員の職務か否かを被控訴人である使用者の「強制的かつ直接的指揮命令」と控訴人等の「自覚・自発的意思」が対立するか、或いは「二者択一」であるかのような論調になっている。これこそ学校現場の生の実態を何ら知ることなく判示したとしか言いようのないものである。本件に於ける、休憩時間中の控訴人等が遂行した業務は、「自覚・自発的意思」云々ではなく、教員の職務性(労働の内容)として子どもへの教育活動や教育的働きかけとして遂行を「余儀なくされたもの」であると言うべきである。したがって、休憩時間中に為す業務は、子どもたちへの教員の職務性(労働の内容)即ち職業的義務として為しているのであるから、校長からの黙示の命令と考えるのは当然である。

2.教員の職務の特殊性

 原判決は、控訴人等が「休憩時間にも相当時間にわたり、職務に従事していたことは認められる(50頁22行・高裁判決)。」と一応は認めている。しかし、それは単に教員の「職務の特殊性」に基づくものであり、控訴人等が「自発的・創造的」に行ったものに過ぎない。「少なくとも、被控訴人校長らが控訴人に対し、各自の職務を休憩時間にわたり従事することを、黙示に命令したような事実は認められない(50頁25行~51頁1行・高裁判決)。」と断言している。これは、教員が日常的に遂行している本来の「職務性(労働性)」を根底から否定するものである。しかもこの事を理由にして、これら職務の遂行は校長の明示の命令下或いは黙示の命令下ではなかったという事実認定へ誘導しているのである。
 即ち裁判所は、「教員の職務性(労働の内容)」ではなく「職務の特殊性」を際立たせようとするあまり、一審判決を含め終始本件全体を通じて「教育の特殊性」を巡る判断に混乱が生じているのである。換言すれば、「休憩時間にも相当時間にわたり、職務に従事していたことを認める」のであれば、単純に労基法34条で保障されるべき休憩時間の未取得に対して「使用者」である校長の違法性は何も問われないのかという問題が惹起する。
 校長は、単に労基法上の休憩時間を教員に明示し、休憩取得が無理な場合は割り振り変更を申し出るよう指示している。果たして、それだけの措置で休憩時間を与えることができたのかどうか何ら検証されていない。そして、事実上この措置は、労基法で規定する休憩時間取得を教員の自主的判断に委ねることに外ならないのである。
 休憩時間を与えなければならない「使用者」としての校長の監督責任を「教員に委任」、換言すれば「教員の責任」に転嫁してもよいという法的根拠は何処にあるのかという問題になる。これは労基法の解釈として成り立つのかどうかという問題でもある。まさに「教育の特殊性」を巡る判断の混乱こそが、本件の争点である「教員の休憩時間が未取得のままである」という問題を教員の責任のみに転嫁しようとしているのである。したがって、原判決の判断には到底納得できない誤謬があると言わざるを得ないのである。

おわりに

 「使用者」である校長が教員に休憩時間を与えるためには、それを保障するためにあらゆる方策を考えなければならないのは当然である。そのためには、校長は教員の勤務実態を正確に把握した上で、労基法は休憩時間を与えなければ「6箇月以下の懲役または30万円以下の罰金」という刑事罰を伴う(労基法119条)強行法規であるとの認識を持つと同時に、労基法34条で定める「休憩時間を与える義務」を負っているという確固たる認識と自覚をすることが第一に必要である。第二に、校長たる者、教員が休憩を「取らない」のではなく、「取れない」という風に思いを馳せる必要がある。百歩譲って休憩時間中、教員が「勝手」に仕事をしているとするならば、少なくとも監督責任者としての校長は、その教員の業務が「休憩時間を使ってしか為しえないこと」なのか内容の吟味をすべきである。そして、教員が休憩時間中に業務をやっているとしても、校長はその教員に休憩時間の意義を説くと同時に、その状態が望ましくないと判断するならば、必要な是正措置を執らなければ監督責任を果たしたことにならないのである。





「休憩時間訴訟」~それぞれの大阪高裁判決~
松田浩二(枚方市民)

 5人の教員原告による「休憩時間訴訟」は2009年4月16日の大阪高裁棄却判決(三浦潤裁判長)によって事実上終了しました。原告のみなさん、5年間の裁判活動お疲れさまでした。残る仕事は上告受理申立理由書の提出と、原告一人ひとりが、この裁判の客観的な意義や、それぞれにとっての主観的な意義を捉え直し、これからの取り組みや、それぞれの人生に活かしていくことだろうと思います。2004年4月の提訴いらい、微力ながらも応援団のはしくれとして多少の関わりを持ってきた私にとっても、この5年の歳月は意義深く、そして感慨深いものでした。私もまた、この裁判を通じて学んだことを整理し直すと同時に、判決に集約される形で示されたいくつかの切迫した課題について考えを巡らせなければと思っています。
 しかし、何はともあれ、さしあたって智恵を絞らなければならない急務は上告受理申立理由書(6月30日期限)の中身です。原告のみなさんのラディカルな問題意識と鋭い洞察で、最後の最後まで前向きな意欲とあくなき探求心をもって、最高裁に突きつけるべき最重要のテーマと具体的課題、原判決の是正されるべきいくつかに限定した問題点、その判断の誤謬とそれをただす明解で論理的な主張、そういったやりがいのある仕事に全力を傾けてほしいと思います。ぜひ、強いインパクトと説得力のある理由書に、原告のみなさんが力を合わせて仕上げてほしいと期待しています。
 さて、そういう前置きをしたうえで、原告のみなさんとは従来から(微妙に)見解が異なっているいくつかの点について、あらためて私の意見を3つだけ、ポイントのみを記して、蛇足ながらも私からの最後の応援にしたいと思います。

(1)「管理運営規則上、校長が職員会議を主宰することになっており、校長の責任において、休憩時間に職員会議を入れ、割り振りを変更した訳であるから、振替時間を校長が責任を持って具体的に指示すべきである。」との主張は原審でも原告側からなされたわけですが、これは違うだろうと思います。もし仮に職員会議を主宰するのが教員集団であったとしたら、教員集団が責任をもって休憩時間を振り替えなければならないことになるでしょうか。そうはなりませんよね。職員会議を主宰するのが誰であろうと(管理運営規則とは関係なく)、労基法上の責務として使用者(校長)は休憩時間を与えなければならないわけです。法律的主張としてはそうなるのではないかと思います。管理運営規則はあくまでも教育事務に関する規定にすぎませんから、そこから労働条件に関する責務を導き出すことはできません。関係ないのです。あくまでも労基法上の使用者が「与えなければならない」責務の具体的意味、中身が問題なのですから、原審での議論を超えるためには、その部分に更に切り込んでいく必要があると思います。

(2)本件で(給特法関係はさしあたり措くとして)、休憩時間問題としてもっとも重要な原判決の判断。休憩時間の振り替えや、それをいつ取得するかは各教員の自主的判断に「委ねてもよい」のかという問題。実は本件全体を通じて、一貫して「ごちゃまぜ」になってしまっている「教育の特殊性をめぐる混乱」が、ここに端的に示されているのではないかという気がします。「教育職員の職務の特殊性」を原判決(一審判決も)は強調します。次の(3)で少し敷衍するように、教育活動は、それ自体が教育というものの本質的要請からくる特殊性を有しています。それゆえ個々の場面においては、「各教員の自主的判断に委ねなければならない教育事務としての特殊性」があり、それを無視してよいものでもありません。しかし本件で争点となっているのは、あくまでも労基法上、保障されるべき休憩時間の未取得です。だとすれば、教育事務としての「特殊性」があるからといって、それを楯に、もしくは隠れ蓑にして、労基法上の休憩時間の履行を各教員の自主的判断に「委ねてもよい」といえるのかどうか。もっとはっきり言えば、休憩時間を与えなければならない使用者としての校長の監督責任を各教員に委ねてもよいという法的根拠はどこにあるのか、という問題に帰することになります。しかし少なくとも教員の休憩時間に対し、労基法第34条がそのような「委任」を許す限定を何ら加えていないことに照らせば、原判決の判断には納得できない誤りがあると言わざるを得ません。

(3)最後に、(2)に関連してのことですが、校長(使用者)の指揮命令下にある職務の労働性の問題と、教育機関としての学校の監督者である校長の教育事務に関する包括的責任下(包括的職務命令下)における教員の職務性とは分けて考えなければならないのではないかと私は思います。教諭は学校教育法によって「(児童・生徒の)教育をつかさどる」権限を直接に付与されています。そこに確かに、子どもたちの学習権に由来する多様な職務の特殊性が反映され、校長の直接的な権限(干渉)からはあるていど独立した裁量を形成することになります。つまり校長の指揮・命令が直射しない教育活動の領域が(教員が自らの職務を「自主的・創造的」に果たせば果たすほど)不可避的に生ずることを肯定的に認めないわけにはいきません。ですから教員の職務すべてが校長の「包括的職務命令下にあった」あるいは個々の職務についても「黙示の命令があった」と捉える枠組みを採用した場合、かえって原告側が、教員の個々の教育活動(教育事務)に関する独立裁量を否定していかなければならなくなります。これは好ましいことではないと思うし、実際、個々の教育活動について校長からいちいち指示や命令が出されるわけではありませんから、「命令があったと認めることはできない」の一言で切り捨てられてしまいます。これを「包括的職務命令」と言い換えたところで、事実としての教育事務に関する教員の裁量や教育活動の特殊性が変わるわけではありませんから、判断そのものが左右されることもないでしょう。むしろ、教育事務に関しては、校長の指揮・命令が直轄しない個々の教員の裁量や多様で柔軟な教育活動の特性、つまり「自主的・創造的な教育職員の職務(労働内容)の特殊性」があることを前提としたうえで、労基法上の休憩時間保障(労働条件)に関する校長(使用者)の責任(監督義務)のあり方そのものを明確化する立論を正面から組み立てていくべきではないかと思うのです。もちろんこれはとても困難な仕事です。現実には、現場でやるべきことをやり尽くし、これでもかというぐらいに証拠を揃えたうえで訴訟に持ち込まなければ、法的にも勝つことは難しいでしょう。

 私は一市民であり、元保護者にすぎません。日々、教育現場の実情に触れているわけではありません。しかし、この国の公教育というものが、ほとんどの教員の「教師としての良心」に依存し、あるいは教師としての良心を人質にして成り立っていることはよく知っているつもりです。それは言い換えるならば、行政権力が子どもを人質にとることで、教師に無償奉仕を強いる所業だと言うこともできるでしょう。だから超勤や休憩時間の未取得は日常化するのであって、これは行政がシステムの問題として解決する以外に道はなく、今後も「教師の良心」で埋め合わせし続けるならば、早晩、公教育そのものが破綻をきたし、教員の健康問題も含めて深刻で取り返しのつかない荒廃に陥ることは目に見えています。そして問題の本質がここにあることは、誰よりも校長自身が「認識して」いることです。原判決の休憩時間問題に対する判断も、このような事情を背景に「給特法」についての従来の拡大解釈を横すべりさせたものにすぎません。行政の怠慢の尻ぬぐいを司法がし続けるという怠慢の悪循環。この連鎖を誰が断ち切るのでしょうか。原告のみなさんの一撃が最高裁にズシッと届くように、また、これからのみなさんのご健闘を心より祈っています。
(2009.5.29)