学労ネット

休憩時間訴訟 第3回控訴審傍聴記

2008年12月21日掲載

高槻・休憩裁判第3回控訴審を傍聴して思うこと

 労基法は、憲法11条、13条、18条、25条、27条等を淵源として、使用者を縛るために制定された強行法規であり、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべき最低の労働条件等を定めたものである。それは、法的段階としては異なるが、近代立憲主義国家における権力者を拘束するための憲法の位置に似ている。
 しかし、給特法下の教員は、校長の命令があればいくら長時間の時間外労働であってもそれに従わざるを得ないという立場にありながら、「教職調整額」以外には何らの対価も保障されないという、労働時間法制の枠組みから外れた制度の下にある。給特法制定当時の文部省は、法の施行に当たって、教職調整額は「時間外労働手当の一律支給という性格」のものではなく、教員の「職務と勤務態様の特殊性に基づいて、勤務時間の内外を問わず、包括的に評価して支給される俸給相当の性格」をもつものと説明していた。しかし、労働の特殊性の故をもって特殊な賃金を支給する「専門職」賃金論は、全ての労働は特殊性をもつものであるから、労働者性と両立しにくい。もともと、時間外労働は個別に把握され、割増賃金もそれに応じて個別に支給されるべきものであるから、定量的ではないものを定量的な教職調整額の支給によって労基法37条を適用除外とすることは、労基法の立法趣旨に反し、憲法18条、25条に抵触する可能性すらある。
 仮に給特法が労基法の立法趣旨に反するものではないとするのであれば、教員の労働時間制の運用は給特法の趣旨を厳格に解釈した上で適用されなければならない。給特法は限定4項目以外の時間外労働はさせないのが原則であって、その原則に沿う限りにおいて労基法37条の適用除外を定める給特法3条2項が有効とされるのであり、教職調整額は条例で定める限定された職務についてだけ時間外労働手当を支払わないこととする「調整」でしかなく、それ以外の時間外労働については労基法37条が適用されなければならない。(しかし、限定4項目についても、労働時間は規制されておらず、教員は無限定・無定量の労働義務を負うという問題を内包している。)
 当局や裁判所の言うように、教員の限定4項目以外の時間外労働を「自主的労働・任意労働」と見なすことは、教員の犠牲を当然とする考え方であり、裏面として教職の「聖職」性を元にするものである。私的生活まで犠牲にせざるを得ない仕事の忙しさなのに子どもたちと向き合える時間はかえって減っている現在、私たちは、自主的労働・任意労働という名の時間外労働を組み込まなければ成り立たない「学校」とは何か、ということを問い続けていかなければならない。時間外労働を教職の「聖職」性に還元させることは、憲法が保障している基本的人権や労働者の権利を否定するものである。
 過労死認定基準にすら達している教員の時間外労働を減少させ、定員増によって定時間労働で成り立つ学校にするために、そしてそのことが非正規雇用労働者の正規雇用化の運動にも繋がっていくために、今後、給特法を廃止し、労基法の原則適用を図っていくことが必要である。教員の労働基本権を保障することは結果的には子どもの学習権をより充足していくことにもなるのであって、そのためにもこの裁判は重要である。

 東京では2003年の「10.23通達」に基づく各種の「日の丸・君が代」裁判が地裁・高裁段階にあり、既にいくつかの相反する判決も出ている。アイム組合員が提訴した懲戒処分取消等請求訴訟の一つは11月に結審し、2009年2月19日(木)16時30分から東京地裁705法廷で判決言い渡しとなる。高槻の超勤裁判も「日の丸・君が代」裁判もその根っこは繋がっている。久しぶりに開廷時の起立がまったく行われない裁判に出会った。そして、本人訴訟のすごみとおもしろさも味わうことができた。教員の職務の特殊性に逃げ込んでは問題は解決されない。ともに勝訴を目指しましょう。

(元)アイム'89・東京教育労働者組合 小橋奉天



「労働者は人間である」と高槻市は考えていないのではないか!

 「労働者は人間である」と高槻市は考えていないのではないか。労働者が人間であるかぎり、休憩もなく働き続けることはできない。労働基準法に休憩時間の規定をおき、その違反に対して罰則を設けているのは、長時間の連続労働で疲れきって、病気になり、ひどい場合は死にいたる労働者が続発する労働現場の状態を、労働基準法は、「労働者は人間である」ことを、その違反者に対して罰則まで設けて、労働者を消耗品のように使い捨てにする雇用者に対して徹底するため制定された。もちろん、8時間労働規制はもちろん、休憩時間規定を法律に明記させるまでに、どれだけの労働者が体を傷め、無念の死を遂げたことだろう。そして、どれだけの労働者がそれを獲得するため、「労働者は人間である。道具ではない」と叫んで、闘いのなかで、政府や企業による弾圧の中で殺されてきただろう。法律には、当然にその法律が前提とする労働者の闘いの歴史がある。
 しかし、一旦規定された法律は、その本来の立法主旨が解釈でもってゆがめられる。今度は、法律の条文を都合のよいように解釈し、その中に人間を押し込めるのだ。「権利は闘いで勝ち取る」というのは、政府や企業に法律を作らせるまでのことではなく、何とかして権利の剥奪や法律の条文を空文化しようとしているものたちに、そうはさせないと、権利の行使を断固として行う労働者の日々の営みによってのみ権利は実質化されるのだ。高槻学労ネットの休憩時間本人訴訟の意義もそこにある。高槻市に「労働者は人間である」ということを、裁判で、そして日々の権利行使によって思い知らせてやろうではないか。

 ここまで、書いてきて労働基準法が、労働者が闘いとった最低基準の「憲法」であるとすれば、「もう戦争はこりごりだ」「戦争をしてはいけない」と考える日本人民にとって、いや世界の人民にとって日本国憲法の空文化から、さらに憲法そのものを変えようとする動きが急な現実に突き当たる。労働基準法も、日本国憲法の日本人民が人権の主体であるとする精神の上に構築されている。日本人民の300万人を超える死と、2000万人とも3000万人にともいわれるアジア人民の死の総括の上にかろうじて勝ち取った憲法9条はもちろん、政教分離を規定した20条、国民の生存権を規定した25条、その他もろもろの条項がいかにないがしろにされているか。そして、すでに教育基本法も改悪された。
 天皇が政治や軍事に絡んで行った「大東亜戦争」がいかに悲惨で無惨なものであったかを真正面から見つめ、そこから物事を出発させるのでなく、歴史的な事実さえなかったことにしようとする歴史修正主義の潮流が自衛隊の中に浸透していることが、はしなくも田母神問題で暴露された。しかも、田母神は航空幕僚張であった。一線を踏み外すと他国の領土で、今現在アメリカが行っている空爆を行うことのできる「実力」を統括していたのである。そして、靖国神社に「みんな揃って」参拝している超党派の議員がぞろぞろいる政府や国会には、田母神と同じ歴史観をもった者たちもぞろぞろいるのだ。マスコミがかろうじて問題にしているのは「文民統制」だが、その「文民」そのものが危ういのだ。
 そして、天皇だ。自民・公明・民主党の天皇主義右翼、財界、日本会議、神社本庁など歴史修正主義者たち、右翼勢力がアキヒト天皇在位20年を祝賀する運動を立ち上げ、この1年間、祝賀運動を推進すると決め、すでに動き出している。来年11月12日を休日にする法案を出す準備も進めている議員連盟の会長は、「神の国」発言の森喜朗だ。労働者の血と汗で闘い、勝ち取ってきた権利としての労働する権利が天皇の名によって奪われようとしているのだ。労働時間規制も休憩時間確保も、人民の労働する権利を確実にするために雇用者の横暴を規制する規定である。「天皇から賜る恩恵としての休日」とは対極にある。
 自衛隊は、一旦切り離されたかに見える天皇とのつながりをもとめ続けてきた。国体会場への道で天皇をト列で迎えてみたり、ヒロヒトの即位・大嘗祭で登場したりして、である。しかし、アキヒトは、一歩踏み込んで、イラクに派兵された自衛隊員を部隊毎、制服のまま皇居に呼んで慰労するというとんでもない行為を行っている。自衛隊が天皇と結びつきつつあるのだ。このニュースに接した時、関東軍が引き起こした中国大陸への侵略を、侵略占領の「成果」があがるや、ヒロヒトが勅語を出して褒め称えた事実を、私は思い出した。

大阪教育合同労働者組合 吉田文枝