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休憩時間訴訟 大阪地裁判決批判

2008年2月17日掲載

1・9地裁判決に思う

 提訴以来3年8ヶ月。第16回公判に至るまで、訴状・陳述書・準備書面等を何度も認め、教育現場に於ける休憩時間は取りたくても取れぬという現実をつきつけてきた。また、反論に対しては現場検証をせよと迫った。にも拘わらず、司法当局は一切検証することもなく、無責任で不当な判決を出すに至った。これって司法当局の怠慢ではないか。    判決では休憩時間が取れていない現実を認めてはいるが、「教職とはそういうものだ」という聖職論に依拠し、休憩時間であるにも拘わらず「自主的、創造的」な教育活動に従事していたと強弁する。結果として自らの命を削ることが分かっているのに誰が「自主的、創造的」に働くというのか。断じて「自主的、創造的」に休憩時間勤務をしているのではない。仕事のノルマをこなすため、せざるを得ないのだ。

 教職員は労働者であり、あたりまえの人間である。けっして聖職者(神聖な職務に従事している者)ではない。労働者としての権利が履行できないならば、行政にその是正を要求するのは至極当然のことである。大阪地裁判決は、こうした当たり前の要求をいとも簡単に退けた。我々の切実な労働者として当たり前である筈の願いが、彼らには届かなかったのだ。何故なのか。                          その背景には教師聖職者観が依然として横たわっているとしか思えない。百有余年、教職員労働者運動は、その聖職者論を背景に置いたまま、当たり前のサラリーマン(労働者)としての教職員のありようを労働運動の原点とし得なかったのだ。
 ここに至り、この地裁敗訴をバネに、裁判官の「目からウロコが落ちる」ような、労働者としての教職員の現実・論点を引っさげ、次なる司法闘争(控訴)に入魂したいと思う。(家保)

「休憩時間に休憩する」って、あたりまえのことちゃうん!

「さいばん」の「さ」の字も知らずに走り始めた休憩時間の裁判。判決の日は3年8ヶ月の重みと怒りで、さすがに今までとは違う緊張感にみまわれました。裁判官が入廷するまでのピリピリとした空気が、今も体の中に感じられるぐらいです。全員の目が裁判長の口に向けられ、裁判長の口が十数秒動いた。理由も語られず、判決だけが放り投げられた。「客観的には、これが現実」だと自分に言い聞かせながら、実際には「受け入れられない」という拒否反応と怒りがこみ上げてきました。ウソじゃない、ほんとに休憩時間なんか取れていないのに、なんで伝わらへんねん!
 判決書によれば裁判所は、『原告らは、各校長から明示された休憩時間において、相当時間にわたり勤務に従事していたこと、当時、原告らを含む高槻市立小中学校の教育職員の多くが、明示された休憩時間を十分に取得できないと感じるような勤務状況であったことは認められる。』と認定判断しています。ところが、休憩時間の勤務につき対価の支給を求めることができない根拠として、『空き時間があった』『所定就業時刻までの数時間に年次休暇を取得することが少なくなかった』と、休憩時間とはまったく次元の違うことを平気で書いています。また、『休憩時間に従事した職務の大半は、教育職員としての各自の自発性、創造性に基づいて遂行されたもの』とし、私たちが主張している「どうしてもやらなければいけなかった職務」であることを理解し得ていません。さらに『休憩時間を取得すると、本来の終業時刻までに全ての職務を終わらせることができない場合もあることが推定される』と認定しながら、その職務は『休憩時間時間内に遂行するか残業として遂行するかは、各自の判断』などと、ありえない選択肢を挙げています。一方、被告校長らは『休憩時間を明示し、振替があることを知らせ、会議を入れないようにしたなど休憩時間取得に配慮した』としています。しかし被告校長らは、私たちが休憩時間中に仕事をしていることを知りながら黙認していました。このことに責任はないのでしょうか。
 高槻市が休憩時間の試行を始めてから6年目(労基法に定められた規定だというのに、いまだ「試行」のまま)になります。現場は過密労働とストレスで充満しています。休憩時間取得は6年前と同じように困難です。校長はアリバイ的に休憩時間の明示をするだけ、仕事をしている実態を黙認、市教委も休憩時間取得の調査もしない、取得のための手だても何らないのですから。
 私たちは「休憩時間に休憩する」という当たり前のことが当たり前にできる職場になるように、『取得が極めて困難だと認めるに足りる的確な証拠』をさがして、控訴し再びチャレンジします。
(すえひろ)

休憩時間裁判、控訴に向けて

 大阪地裁の今回の不当判決は、「もっとも、・・・休憩時間における勤務が教育職員の自由意志を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化しているなどの場合においては、時間外勤務手当ての支給除外を定めた法令の規定の趣旨に反するものとして、労働基準法37条、府給与条例21条の適用は除外されず、教職員は、休憩時間の勤務につき対価の支給をもとめることができると解するのが相当」(判決文P55)に凝縮されているように思います。
 私達原告が裁判開始以降、縷縷一貫して裁判所に迫っていったのは「休憩時間における勤務が教育職員の自由意志を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化している」勤務実態が現前としてあることを認めること、学校制度発足以来長期間に亘り労基法違反の状態で捨て置かれた「休憩時間棄民」の教員を過労死から守る義務を司法として履行することでした。
 しかし、原告の訴えの一部分だけでも認めることの重大さを恐れ、「まず棄却ありき」から被告側の主張の正当性をくどくどと並べ立てています。
 各校長の虚偽証言のみを採用しているのは絶対許せない。例えば高浜土室小校長の(P49)「教職員に対し、各種会議について、休憩時間後に行い、会議の議題を精選するなど・・・、休憩時間に教職員が電話等の対応をすることをさけるために、・・・」、(P28)「休憩時間終了後に各種会議をするように注意していた」等。
 市教委の「空き時間」すり替え論法を、末廣さんや長谷川さんにも言外に敷衍しているのも「まず棄却ありき」であろう。
で、極めつきが教育職員の「職務の特殊性」「自主性、創造性」という、これまでの裁判が訴えを棄却せんが為に拠り所とした慣用句でした。
 しかし、職員会議については、(P50)「その会議の性質上、校長が休憩時間中の開催を黙認している以上、校長の黙示の職務命令に基づき、休憩時間中に開催されたということができる」、(P63)「被告校長らとしては、このような場合、すすんで、休憩時間を振替取得すよう配慮すべきであったといえるが、振替取得することを原告らの判断に委ねたこと自体を違法までとはいえない」の箇所は好材料の一つになるのではとか、控訴審での論述を組立てるのは、まだまだこれからです。
松田さんの「控訴審は、原告の覇気が一層問われる裁判だ」という言葉を肝に銘じ、闘っていきたいと思います。
(志摩)

控  訴!

 ある時期から裁判長の「・・棄却します」という声が冷静に予測できるようになった。この民事第5部の裁判長が行政・企業側べったりの判決をたて続けに出したのを見聞きしたからだ。私たちより絶対勝てる!という訴訟さえ裁判長は冷酷に切り捨てた。
 裁判長のべったりしたその声のおかげで、原告のなかまが寡黙呆然となったのがつらかった。みんなは無事元気を取りもどしてくれるだろうか?・・それでこの判決は許せん!と思った。
 これまで原告会議でたくさん勉強させてもらい、書面や陳述書を書き、法廷で発言したり尋問をうけたりしたこと、それから、判決文の中で山田裁判長がいやいや認めていることを、控訴をした今、私の頭の中できっちり整理しておこう。他のみなさんもこの号で書くと思うが、教員が休憩時間がとれていないことはしぶしぶ認めている。そして、校長たちがそろって「休憩時間がとれない時は振替を申し出るように職員に毎年言いました。」と虚偽の発言を繰り返していたが、最後に会議がなかったら早帰りOKを裁判長は認めたことになる。
 そういえば、ひとつあきれた事があった。1月31日の教職員課交渉で労安法の出退勤時間試行調査の件を話している時、某教職員課課長補佐が「(遅くまで残られていて)先生方は自主的創造的な活動をされる時間がありますか。」と発言した。本人は猫パンチ的イヤミのつもり(裁判長が「休憩時間に教職員が働くのは、自主的創造的活動、つまり、本人の勝手でやっていることだ」と言ったのです。)だったろうが、あまりにおバカな発言で本当にあきれた。
 高槻市の教職員の健康や福利厚生を司る教育委員会が、あの判決文を読み我が身をふりかえり非を正すのではなく、つまらぬイヤミを言いながら、疲れはて病気にかかったり辞めていく教職員を切り捨てていくのかと、恐くなった。みなさん、私達はこんなひと達に命と健康を預けているのです。
 とにかく、教育委員会に、ひとの命と休憩時間の大事さをわかってもらうためにも、控訴、がんばります!
(長谷川)


「高槻休憩時間裁判」控訴審に向けて
増田 賢治(全学労組代表)

1. 裁判所の判断(大阪地裁判決)

(1)休憩時間中に職務に従事するよう明示して命令した事実は認められない

「休憩時間中に職員会議が開かれることがあったことが認められる。職員会議の開催及びこれに対する出席は、校長の職務命令に基づくものといえるが、校長が職員会議を休憩時間中に開催するよう命じた明示の職務命令を認めることはできない。」また、「その会議の性質上、校長が休憩時間中の開催を黙認している以上、校長の黙示の職務命令に基づき、休憩時間中に開催されたということができる。」しかし、「それ以外には、本件全証拠によっても、被告校長らが原告らを含む教職員に対し、休憩時間中に職務に従事するように明示して命令した事実は認められない。」

(2)休憩時間中に職務に従事したのは教職員の自発性・創造性に基づく

「被告校長らが原告らを含む教職員に対し、明示した休憩時間を取得できるように配慮していたことが認められる。」、一方「原告らの勤務状況によれば、原告らは、休憩時間にも相当時間にわたり、職務に従事していたことは認められる。」しかし、「教育職員の職務の特殊性に照らすと、その多くについては、原告らは、教育職員としての各自の自発性、創造性に基づき、その職務を遂行してきたと認めるのが相当であって、少なくとも、被告校長らが原告らに対し、各自の職務を休憩時間にわたり従事することを、黙示に命令したような事実は認められない。」したがって「上記の職員会議への出席を除くと、これらを遂行する時間帯までの指示があったとは認められず(したがって、これらの職務を休憩時間に遂行するよう指示があったとも認められない。)」、「原告らは、定められた職務担当につき、各自の判断から、都合のよい時間帯にその職務を遂行していたと認めるのが相当である(その日の職務内容によっては、休憩時間を取得すると、本来の終業時刻までに全ての職務を終わらせることができない場合もあることが推定されるが、これを休憩時間内に遂行するか、所定終業時刻後の残業として遂行するかは,各自の判断ということになる。)。」_ 

(3)黙示の職務命令も認められない

「原告らは、休憩時間を全く取得できないような勤務状況にあったことから、被告校長らが原告らに対して休憩時間の勤務につき黙示の職務命令をしていたというべきである旨主張するが、以上の認定判断に照らすと、仮に原告らがそのような勤務状況にあったとしても、そのことから直ちに原告らが主張するような黙示の職務命令をしていたとは認められない。」

(4)原告らには「空き時間」があるではないか。少なからぬ時間年休を取得しているではないか。

「各校長から明示された休憩時間において、相当時間にわたり勤務に従事していたこと、当時、原告らを含む高槻市立小中学校の教育職員の多くが、明示された休憩時間を十分に取得できないと感じるような勤務状況であったことは認められる。_」しかし、原告らには「週5時限程度~週6時限程度の空き時間があった。」また、原告らは「所定終業時刻までの数時間に年次休暇を取得することが少なくなかったことが認められる。」_したがって、「教育職員の職務の特殊性に照らすと、原告らが休憩時間に従事した職務の大半は、教育職員としての各自の自発性、創造性に基づいて遂行されたものと認めるのが相当である。」_
結論は、「原告らが休憩時間を取得することが極めて困難であるような状況にあったとまで認めるに足りる的確な証拠はない。_」

(5)休憩時間の勤務に対する対価の請求権はない

「原告らは、休憩時間に勤務した場合であっても、本来、法令上この勤務に対する対価の受給権を取得するものではなく、たとえ、原告らが、休憩時間に勤務を行い、この勤務が府教委勤務時間規則6条所定の事由(限定4業務)に該当しない場合であっても、そのことから直ちにこの勤務に対する対価を受給するものではないというべきである。_」、「もっとも、休憩時間における勤務について、給特法、府給与条例及びこれに関する前記法令の規定の趣旨を全く没却するような事態が生じた場合、すなわち、休憩時間において、勤務をするに至った経緯、従事した職務の内容、勤務の実情等に照らし、休憩時間における勤務が教育職員の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化しているなどの場合においては、時間外勤務手当の支給除外を定めた法令の規定の趣旨に反するものとして、労働基準法37条、府給与条例21条の適用は除外されず、教育職員は、休憩時間の勤務につき対価の支給を求めることができると解するのが相当である。_」 このようにみると、「原告らの休憩時間における勤務が、勤務をするに至った経緯、従事した職務の内容、勤務の実情等に照らして、原告ら各自の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化しているとまでは認められない。」、そして、「原告らの休憩時間における勤務の実情を放置することが、時間外勤務を命じ得る場合を限定列挙して制限を加えた趣旨にもとるような事情を認めるに足りる証拠はない。」 
したがって、「原告らは、被告大阪府に対し、休憩時間の勤務につき対価の支給を求めることはできないというべきである。_」

2. 控訴審に向けて追及すべき観点

(1)教職員の勤務態様

それぞれの学校では、年度はじめの職員会議で、「校務を司る」校長が学級担任や校務分掌を決定する。それは、校長が校務を分掌させるための職務命令に他ならない。そして学年が構成され、各種委員会や部会が構成される。それぞれの分掌では構成員の協議を経て細目を決定する。そして校務は細分化されていく。また、年間行事計画や月例行事計画は、全教職員によって職員会議で決定し、それに従って教職員は職務を遂行していく。
その際、教育の仕事が教員の自主性・自発性・創造性に基づき行われるのは論を待たない。憲法等で保障されていることである。したがって、職務の遂行にあたっては、逐一校長の職務命令を待って行われることは考えられないし、あっても希である。日々の学校・学年・学級運営は学校全体をベースにして行われる場合と、各学年や各部署の判断を尊重して行われる場合がある。いずれの場合も、年度当初の職員会議における校長による校務を分掌する命令に基づき職務が遂行されていくのである。これは、職務遂行に当たっての「黙示の命令」ないし「包括的職務命令」という。

(2)休憩時間取得実態調査

2002年度に高槻市教委が行った休憩時間取得実態調査によると、多くの校長は「明示した休憩時間はとれていないという予想はあったが、実態はそれを超えるものであった。制度の抜本的改善か、人的配置を施す以外に方法はない。」という趣旨の報告をしている。そして、多くの学校では「全く取得できなかった」「ほとんど取得できなかった」を合わせると80%を優に超えている。
この調査では、休憩時間の三原則のうち最も重要な「休憩時間の自由利用」の保障の観点は曖昧であった。それにも拘わらず違法状態が顕現している。もし「自由利用が可能な休憩時間が取れているか」という質問項目になれば、恐らく取得できていないと回答する教職員は、100%近くになることが予測される。なぜなら、「休憩時間らしきもの(手待ち時間に相当)」が取れても「真の休憩時間」は取得できていないと考えられるからである。すなわち、休憩時間とは「単に作業に従事しない手待ち時間を含まず、労働者が権利として労働から離れることを保障されている時間」(昭22.9.13基発第17号)とあり、いわゆる手待ち時間は労働時間であり、休憩時間と認められないからである。

(3)被告校長の陳述書及び証人尋問

被告校長の陳述書及び証人尋問によると、「すべての教職員に休憩時間を文書明示し、休憩時間はすべての教職員に与えられています」あるいは「休憩時間に会議等を計画しないように命じておりました」また「休憩時間に教職員が電話対応や学校訪問者への対応をしなくてもよいように、校長か教頭のどちらかが職員室に居るようにしておりました」と陳述している。これは、2002年度の休憩時間取得実態調査における高槻市教委への校長報告とあまりにも乖離している。
あるいは「休憩時間の振替は必要だと思い、休憩時間が取れなかった理由と休憩可能な時間を校長に申し出れば振替を許可する旨を教職員に周知しておりました」、「教職員が職務のために休憩時間が取れない場合が生じたときは、校長に申し出れば振り替えて休憩するように伝えていました」と陳述する。これは、超多忙な日々が常態化しており、超勤を余儀なくされる教職員が休憩時間の振替など不可能である勤務実態を敢えて無視する偽証に等しい。そして、校長は「教職員には、週に何時間かの空き時間があるので、明示した時間に休憩が取れなければ、休憩をその時間を充てることは可能である」との認識を陳述する。
偽証のそしりを免れたいならば、当時、被告高槻市教委と被告校長は、休憩している教職員の日々の状態をどのようにして確認したのか。その方法と記録の仕方を明らかにしなければならない。あるいは、休憩時間に教職員が職務に従事しているのを現認したとき、教職員の勤務時間を管理し指揮命令権を有する管理責任者として、どのように対処したのかを具体に示すことが必要である。すなわち、教職員の休憩時間取得状況を如何なる方法で把握したのか。そして、休憩時間が確実に保障された状態とは、どのような状態だと認識しているのか明らかにすべきである。

(4)高槻市教委の行政責任(故意及び重過失)

労働基準法第34条の違反については、同法第119条により、6箇月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処せられる罪である。また、同法第121条によって、事業主に対しても罰則刑が科せられる罪である。
2003年3月10日、府教委は「休憩時間及び休息時間の確保に向けての運用について」の事務連絡を各地教委に出した。それによると、「休憩時間及び休息時間については、校長が勤務時間の割振りを行うにあたり、職員に周知することが必要である。この度、平成15年4月1日から休息時間を置くことになるのに伴い、休憩時間及び休息時間の確保に向けて別添メモを参照に取組まれるようにお願いします。」また、具体には次の通りとして、「・平成15年度については、各学校で休憩時間・休息時間の確保及びその実態把握とする。・平成16年度については、平成15年度の1年間の取組み状況を調査・検証し、確保できていない学校について、年度中に確保に向けて重点的に取り組むものとする。・平成17年度において、休憩時間・休息時間が確保された状況をめざす」そして「当面のスケジュール案」として、以下のように示されている。
  平成15年(2003年)
      3月上旬  各学校・各地教委へ通知(休息時間通知とともに)
      4月~    各校での取組み
      10月    実態調査及び工夫指導
  平成16年(2004年)
      3月     実態調査
      4月~    確保困難校における重点的取組み
  平成17年(2005年)
      3月     実態調査
      4月     実施
しかし、高槻市教委は2002年度以来2007年度に至るも「休憩時間の試行」を続けている。府教委の「通知(事務連絡)」及び「当面のスケジュール案」によれば、2005年度には「休憩時間・休息時間が確保された状況をめざす」とあり、当然にも府下すべての学校で、労基法に基づく休憩時間の確保がなされ、すべての市町村で「本格実施」されていなければならない。
高槻市教委は、2002年度に一度だけ「休憩時間取得実態調査」を行ったが、それ以降調査を行っていない。近隣他市に比して、高槻市教委の怠慢と労基法違反を故意に放置する重過失を犯した行政姿勢は許されるものではない。

(5)労働基準法と国家賠償法

 前述したように、労働基準法第34条の違反については、同法第119条により、6箇月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処せられる罪である。また、同法第121条によって、事業主(高槻市)に対しても罰則刑が科せられる罪である。したがって、高槻市教委はじめ校長は、労基法で規定する休憩時間をすべての勤務日に確保できる措置を講じる必要がある。しかし、市教委と校長が違法状態の現状を放置するなら、高槻市教委及び当該校長に対して刑事告訴がなされ刑事罰が科せられることになる。    
また国家賠償法第1条は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と定めている。

 教職員の仕事は、年度当初の職員会議で校長からの「校務を分掌する命令」を受けて、あらゆる職務が遂行されていく。そして、教育の仕事は、教員の自主性、自発性、及び創造性に基づいて行われるのである。したがって、具体の職務遂行にあたって逐一校長の職務命令を待って行われることは考えられない。しかし、職務遂行にあたっては、すべて校長の「校務を分掌する命令」に基づく形で行われるのが教職員の勤務の態様である。これは、校長による「校務の分掌」という明示の職務命令が根幹をなしている。すなわち、教職員は校長による「校務の分掌」という明示の職務命令に基づき、具体の職務遂行にあたっては、校長による「黙示の命令(包括的職務命令)」の基で行われているのである。
教育職員は、校長の「包括的職務命令」の基で職務を遂行するのであるから、休憩時間に勤務せざるを得ない経緯、従事した職務の内容、勤務の実情等を考える場合、「休憩時間」のみを微視的に捉えるのではなく、教育職員の超過勤務が常態化している超多忙な勤務実態を前提にして「休憩時間」を捉える必要がある。すなわち、教育職員の超勤は、校長による「包括的職務命令」に基づき職務を遂行する中で惹起しているのである。このような勤務実態がある中で、関係法令で義務付けられた休憩時間をすべての勤務日に確保するのは至難の業である。その証左は、2002年度高槻市教委が行った休憩時間取得実態調査で、多くの校長は「明示した休憩時間はとれていないという予想はあったが、実態はそれを超えるものであった。制度の抜本的改善か、人的配置を施す以外に方法はない。」という趣旨の報告が物語っている。また、多くの学校では、休憩時間が「全く取得できなかった」「ほとんど取得できなかった」を合わせると80%を優に超えており、現在に至るも精神的及び肉体的に過酷な状況が依然として続いているのである。

 原判決は、これまで述べてきた教育職員が職務を遂行するにあたっての勤務態様、学校現場において過酷なまでの超過勤務が常態化している勤務実態の中で休憩時間取得が如何に困難を極めることかを理解できていない(理解しようとしていない)のである。教育職員の勤務態様及び超過勤務が常態化している勤務実態における休憩時間取得は、まさに「画に描いた餅」に等しいのである。すなわち、超多忙な現実さえなければ、敢えて休憩時間に勤務する必要もなく、休憩時間を取得することができ、勤務時間内にほとんどの職務を遂行し終了できるのである。しかし現実は、教育職員の包括的職務命令に基づく勤務態様と超多忙な勤務実態から考えて、休憩時間における勤務が教育職員の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされているのである。そして、超多忙な勤務実態が常態化しているのである。
したがって原判決は、学校現場で日々惹起する現実を敢えて直視せず、否、無視するために、「休憩時間における勤務が教育職員の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化しているなどの場合においては、時間外勤務手当の支給除外を定めた法令の規定の趣旨に反するものとして、労働基準法37条、府給与条例21条の適用は除外されず、教育職員は、休憩時間の勤務につき対価の支給を求めることができると解するのが相当である。_」しかし、「原告らの休憩時間における勤務が、勤務をするに至った経緯、従事した職務の内容、勤務の実情等に照らして、原告ら各自の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化しているとまでは認められない。」 そして、「原告らの休憩時間における勤務の実情を放置することが、時間外勤務を命じ得る場合を限定列挙して制限を加えた趣旨にもとるような事情を認めるに足りる証拠はない。」 したがって、「原告らは、被告大阪府に対し、休憩時間の勤務につき対価の支給を求めることはできないというべきである。_」と意図的に誤った判断をしている。

 校長と高槻市教委は、関係法令に則して、すべての勤務日に休憩時間が確保できる措置を講じなければならないにも拘わらず、校長及び市教委は、休憩時間が確保できないまま連続8時間を超える勤務を強いてきた。職務遂行に関わって、校長及び高槻市教委が違法行為を犯してきたことは明白であるといわざるを得ない。
すなわち、校長は、高槻市立小中学校に勤務する教職員に対して、関係法令で義務付けられた休憩時間を確保するだけの措置を講じていないことは明白である。これは校長の故意及び重過失による違法行為で、高槻市立小中学校に勤務する教職員は、過酷な勤務を強いられ、長年にわたって精神的及び肉体的苦痛を被ってきたといえる。また、高槻市教委は関係法令で義務付けられた休憩時間が確保されていないことを知りながら、故意及び重過失によって、高槻市に勤務する教職員に対して長年にわたって精神的及び肉体的苦痛を与え違法な損害を与えてきたことも明白である。
よって、当該校長及び高槻市教委が、勤務条件に関わって、控訴人らに対して違法に精神的及び肉体的被害を与えたことについて、高槻市と高槻市教委及び当該校長は連帯して損害賠償する責を負わなければならない。

地裁判決から見えてくる現実
岡崎勝(名古屋市小学校教員。ASCU組合員)

 今回の判決を見ると、教員の労働時間裁判には、こういう判決を出すしか、しょうがないくらい、裁判所は行き詰まっているのだろうなあ……という内容である。
 休憩が「取れない」と言っているのに、それを知りつつも、「校長は取得できるように配慮していた」と平気で判示している。「気持ち」で保障してもらってもなあ。気持ちがあるなら、時間をくれ!
 職場のほとんどが、休憩を取れていて、たまたま、原告だけが取得できないというのなら、まだ分からないでもない。が、学校の職場では、日本中どこだって同じである。休憩を取得しようと思っていても、取得できない状況があるのだ。それが証拠に、文科省の昨年の勤務時間実態調査で、休憩が10分前後しかないこともはっきりしている。もし、疑うならば、実際に学校現場に一ヶ月、いや二週間でいいから来てもらえば分かる。
 原告は、訴状や準備書面で、そういった資料や実態調査をいくつも出しているし、それに異議をとなえる人は、おそらくいない。校長たちの報告にすら、そのことがはっきり示されている。判決でも、「当時、原告らを含む高槻市立小中学校の多くが、明示された休憩時間を十分取得できないと感じるような勤務状況であったことは認められる。」(判決56頁)と述べている。
 にもかかわらず、裁判所は、は、原告らの「自発性、創造性に基づ」いた職務遂行であり、「少なくともその休憩時間は、確保されており、取得しないのは原告の勝手である」と言っているに等しい。原告らが、休憩時間が取れないようになってしまうほどの仕事についても、「被告校長らが原告に対し、各自の職務を休憩時間にわたり従事することを、黙示に命令したような事実は認められない。」と「目をふさいで」述べている。
 それなら、「休憩時間にやっている仕事はやらなくても良いものであるか?」という問いに、当局は答えなくてはならない。おそらく、「別に、やろうがやるまいが勝手ですよ」とは言うまい。あるいは「休憩時間に自発的創造的な仕事をしなくても、別に不利益はないですか?」と教育委員会や校長に問うたときに、「もちろんありません」とは言わないだろう。
 たぶん「教員としての自覚に基づいて……」などという、教員の聖職論的な特殊性論を持ち出すのだろう。(名古屋市教委の場合はそうだった)
 つまり、この裁判では、「自発的、創造性に基づいた労働は無償なのか?」というとき、いつ、どこで、だれが、何をもって「自発的・創造性」を判断しているのかということだ。判決では、まったく、根拠なく恣意的に「自発的・創造性」という、結論が先にありきで、恣意的な印象で、仕事を種別している。
 どこのどいつが、「休憩時間に仕事がしたくてやっているんです!」と言っているのか? 「休憩時間なんか要りません、仕事をさせてください」という人間がいるのか? おそらく、そういう人間は、ワーカーホリックでしかない、一種の病気と考えた方がよいだろう。
 だが、おそらく、ほとんどの教員は「休憩時間にやらざるを得ない仕事がある」からやっているのだ。万が一、休憩時間が取れることがあったとしても、どうせ「無償の残業か持ち帰り仕事」になる。ならば、少しでも片づけておきたいという気持ちで、休憩時間を使っているのである。
 判決では「休憩時間における勤務が教育職員の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化しているなどの場合においては、……対価の支給を求めることができると解するのが相当である。」と述べている。だが、まさしく、学校現場では、この自由意思を強く拘束する形態で休憩時間に仕事をしているのだ。

 高槻の今回の裁判闘争は、「教員も人間として、きちんと休憩を取らなければならない」という非常に重要な裁判なのだ。つまり、教員は一個の人間として、生活し、暮らしている「並の人」であることを主張しているのだ。日本全人口の百人くらいに一人、また、勤労者なら約60人のうち一人が教員である。つまり、どこにでもいる人間が教員をやっているのだ。スーパーマンでもなければ、特に優れた人間でもない。フツーの人間が、フツーの働き方ができていないのである。裁判官、教委、ご立派なタレント識者(?)諸君は、こんな教員の働き方で、子ども相手にじっくり教育的な営みができると思っているのだろうか?
 子どもはエネルギッシュだ。色々なことを考え、動きまわり、予想のつかないこともある。だからこそ、余裕を持って子どもの前に立たないと、かれらと関係がきり結べない。
 ゆっくり生きている教員、余裕のある教員、幅のひろい受容量のある教員、そして、近寄って行っても安心できる教員を子どもたちは嗅ぎ分ける。余裕のない教員に、平気で声をかけるほど、子どもは無神経ではない。
 この不幸な現実は、おそらく、文科省が言うような「メリハリのある」教員管理や、子どもと接する時間を増やそうという小手先のパフォーマンス施策などではなんともならないのである。裁判は、真剣に、かつ頑固に、まだまだ続くのだ。高槻の原告は、「いい仕事」をしているのだ。

休憩時間裁判傍聴記
根本隆男(アイム組合員)

 新幹線を下りて地下鉄の改札ロを抜ける。人々は迷うことなくエスカレーターの右1列に並ぶ。ここは関西だ。
 1月9日、ぼくは大阪地裁にいた。ほぼ満員の傍聴席の片隅で、学校労働者ネットワーク・高槻の5人が起こした休憩時間裁判の判決を待った。
 「原告の請求を棄却する」。予期していたとはいえ、傍聴席からはため息がもれた。

 今回の判決は、同種の訴訟に対する1988年の名古屋地裁の判決をなぞったものだろう。68ページに渡る判決文の要点は次のようだった。
 (1) 原告らは休憩時間に勤務していた。
 (2) 校長はこの勤務を命令(黙示)していない。
 (3) この勤務は原告らの自発性・創造性にもとづく。
 (4) 教員の勤務の特殊性を考え、教職調整額を支給している。
 (5) この勤務は原告らの自由意思をきわめて強く拘束する形でなされていないし、常態   化もしていない。
 (2)以下はどれも聞き飽きた理屈で、もちろん不当だ。判決は(5)の理由として次の2点をあげている。
 ・原告らには日に1時間程度の空き時間(授業のない時問)があった。
 ・原告らは年休をとることが少なくなかった。
 空き時間を使っても終わらないほど仕事があるから、私たちは休憩時間も働かざるをえない。年休をとれば超勤が増えることは、教員ならだれでも知っている。どんなに忙しくても、原則として請求かあれば校長は年休を与えなければならない。そんな現実を意図的に無視した判断だ。
 判決によれば、「休憩をとるように校長は配慮してきた」そうだが、ほんとうだろうか。超勤をなくすには仕事を減らすか、教員を増やすかしかない。それが「配慮」だろう。
 「原告らの出退勤は出勤簿や休暇届けで管理されていた」というのも驚きだ。超過勤務の実態を把握せずに出退勤を管理したことになるのだろうか。

 「自分の勤務時間ことを問題にするなら、私たちの勤務時間のことも考えてください」。かってぼくは同僚からこう言われた。誰からも命じられてはいない超過勤務。ぼくがやらなければ、割りを食うのは同僚だろう。そんなとき、原告の1人から教えられたように、「仕事増やして命削るかァ?」とぼくも明るく言い返してみたい。
 日本中でこのような裁判が次々に起こされるといい。代理人を立てず、幅広い人たちと力を合わせ、文字どおり手作りで3年8カ月間の裁判をやりとげた5人のみなさん。おつかれさま。そして、ありがとう。

休憩時間訴訟の判決には本当に腹が立ちました。
吉田文枝(大阪教育合同組合員)

 労働者にとってなぜ休憩時間が必要であるのか、それがなぜ罰則付きで労働基準法の条文に明記されているのかという、つまり休憩時間が設けられ、そのありようについて3原則を明記していることの意味、これはこれまでの労働運動が勝ち取ってきた成果ですが、そういう歴史認識もなければ、とりわけ子どもたちという一時も気を抜けない人間の前に立ち続けている教員にとっての休憩時間の持つ意味についての論及がなにもなされていません。さらに、職場をがんじがらめにして教員の一挙手一投足まで管理しようとしている最近の学校という職場についてはまったく裁判官の視野に入っていないのです。
実際に休憩時間中に業務が行われていることを認定しながら、教育職員の職務の特殊性からくる「自発的・創造的労働」と決め付けています。しかも、休憩時間を勤務した場合の振替制度があることを理由に、その振替の申し出をしなかったこと、授業の空き時間があることを理由にまるで「適当に休憩時間を取っていたのだろう」と言わんばかりです。
そして、例え「自発的・創造的労働」であったとして、現に休憩時間中に業務が行われた場合にどうするのかについては、またもその労働は「自発的・創造的」になされたもので、「休憩時間における勤務が教育職員の自由意志を極めて強く拘束するような形態でなされ、かつ、そのような勤務実態が常態化して」いないと決め付けて対価の請求を退けています。法的に休憩時間を付与しなければならない責務を負った校長の責任については、具体的な命令はしていない、つまり休憩時間にその業務をやれとは命じていないとして許しています。担任としての仕事であれ、校務分掌の仕事であれ、どの時間を使おうが「各自の自由」で、とにかく責務を果たしてくれさえすればいいのだから、校長が休憩を奪ったわけではないと言うのです。(これは、沖縄戦裁判での梅澤隊長や赤松隊長の場合の主張とまるでそっくりです。梅澤も赤松も、『死ね』とそのとき、その場での命令はしていない。沖縄の住民が勝手に命令があったと思って、勝手に死んだのだ。無理心中なのだ、都主張しています。まるでそっくりではありませんか。)
原告のみなさんが、私たちが明らかにしたかった様々な問題点を擦り抜けてしまっている判決でした。そもそも、原告達が訴えを起こさなければならなかった緊急性、全国の学校で、そして身近なところで如何に多くの教育労働者が病に倒れ、死に、あるいはもう教員は続けられないと早期退職に追い込まれているかということと休憩時間もまともに付与されない状況との関連性に言及するという原告の、そして私たちの緊張感をまったく認められていません。
まだ続く控訴審での皆さんのご苦労を思うと余計に腹がたって来ます。傍聴ぐらいしかお手伝いができませんが、今後ともよろしくお願いします。