学校から

野口克海(2学期制推進委員長)の優雅な仕事1

2006年5月21日掲載

野口克海の大阪府教委幹部時代

 高槻市学校園2学期制推進委員会の委員長は野口克海氏(以下、敬称略)である。野口克海の経歴を彼の編著『若い教師たちの挑戦』(三晃書房)から引用すると(経歴の元号表記は著書から)、
 昭和42(1967)年 4月 富田林市立中学校教諭
 昭和57(1982)年 4月 大阪府教育委員会指導二課指導主事
 昭和61(1986)年 4月 大阪府教育委員会教職員課主幹、管理主事、参事
 平成 4(1992)年 4月 大阪府教育委員会南河内教育事務所所長
 平成 5(1993)年 4月 大阪府教育委員会指導二課長
 平成 8(1996)年 4月 大阪府教育委員会副理事兼義務教育課長
 平成 8(1996)年10月 堺市教育委員会教育長
 平成10(1998)年 4月 大阪府教育委員会理事兼大阪府教育センター長
 平成11(1999)年12月 文部省教育課程審議会委員
 平成13(2001)年 4月 園田学園女子大学教授 子ども広場代表
 この経歴を見ると、野口克海は現場中学校教員から、大阪府教委に入り、途中、堺市教育委員会教育長になり、府教委幹部にまで階段を上りつめ、今は大学の教授とのことだ。

 その野口克海の大阪府教委幹部の時代について、「心のノート ガラガラポン」の読者から、大変驚く投稿があったので、紹介する。読み終わって、野口克海は同僚教員を踏み台にして、成り上がった人物と理解した。(以下は読者の投稿から)
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 そのことは、私の休職の問題から、話しが始まります。
 当時、私の学校では数人が休職をしている状況で、管理職としても大変だったのは分かるのですが、「いつ出てくるのか」の電話のみで、病状を問うようなものは一切ありません。管理職とはそのようなものなのでしょうか。
 ただ、その復帰については、府教育委員会で、復帰面接(正式にはどういうのか分かりませんが)というものを行うものだとの、管理職からの連絡があり、「とにかく急ぐので、すぐに府教委に行く必要がある」とのことでした。
 府教委の職員が数人いる場所に、ひとりひとり呼ばれて、復帰面接が行われました。
「君のようなしんどさはしんどさに入らない」。
「学校がどう、管理職がどうというのはぜいたくだ」。
「殺人以外は何でもしたような生徒を相手にして、特別合宿をしたんだ」。
 殺人以外は何でもした(真偽の程は未確認)といつも持ち出される彼(面接の中心場所にいた)に教えられた生徒たちも不幸だと思いますが、ドスの効いた声で話し、周囲の若い職員たちも、そうだそうだと、相槌を打つのですからどうしようもありません。
 当時、良く報道されていた、国労職員に対する脱退工作を頭に浮かべたのは事実です。ただ、私自身としては、生徒たちや同僚に対しては迷惑をかけているという事実もあり、黙って聞いていましたが・・・・。
 その後、診断書にある「配慮を要する」の部分があるので、復帰させることができない、書き直してもらえということになったのです。
 一方的に言われるだけ言われた挙げ句、彼は次のことを言いたかったのでしょう。
「教師の代わりなど、いくらでもいる」と。
 当時のマスコミ報道で見知っていたものの、実際に教育という非常に理念的に高いものを要求される場所で、ましてや府教委の指導的地位にいるものから聞くとは、全くの驚きで、彼らが現場に下ろしてくる文書を、このような人物が作成しているのを見て、現実との非常な乖離に驚いた次第です。
 その時は、私も怒りに身体が震えるような感覚が起こり、そこそこまじめにやってきたと私なりに信じてきた自らの教員生活、それも多くの保護者や生徒たちから支持されてきたことがらなどが、非常に貴重なものなのに、こんな連中に利用されてきたのでは(研修会などで報告したことなど多々あった)と考えると悔しい限りでした。
 生徒がいて、教師がいれば、学校が如何なる状態であったとしても、その日常生活のなかには、様々な出来事があり、その出来事の一つ一つが同僚たちや生徒たちそして保護者との共同作品であり、そのようなことさえも、「代わりはいくらでもいる」と堂々と述べる連中に汚されたように思われました。
 私と共に暮らした生徒たちさえバカにされたようなといえば分かっていただけるでしょうか。

 余計に事態は複雑化して、診断書の書き直しをして、復帰をしたということで、私の場合は、一応の決着を見せたのです、問題はそれだけでは終わりませんでした。
 というのも、その時、同僚の方(当時の勤務校の学年主任)と前後して面接を行ったのです。その彼は、私より年長で非常に誠実な方だったのですが、彼の病状を良くない事を知っていた私は、彼の面接が終わるのを待っていたのですが、彼が入室したとたん、怒鳴りつける声がするのです。
 あいさつ云々というような具合です。そして時々、その先生の力をおとした声が廊下に聞こえてくるのです。彼が休み始めて、何回か私も会っていたので、彼の病状がそう簡単なものではないことを知っていたので、その声が聞こえて来るたびに、何とも言えない、悔しさを感じたのです。
 私のように、かなりの程度ふてぶてしく、先に批判が口に出るような人間でも、その面接は非常な苦痛で、元気を落としたのですが、遥かに繊細な彼には相当答えたようで、終了後、地下鉄の駅に行く途中で彼が私に話した言葉を忘れる事ができません。
「こんなに面接がしんどいんやったら・・・」。
帰りの電車の中でも、ぼっーとしている状態でした。
 彼も面接の苦しみに、医者の診断も復帰には配慮が必要だとのことだったのですが、そんなことは関係なく、現場に復帰いたしましたが、その後もその日のことを話しつつ(面接がしんどいので休めない)、苦しみつつの勤務であったように窺えます。

 その日のことを知るのは、府教委の担当者(中心人物とあと数人)そしてその彼と私だけです。
しかし、声を発した人間は、日常のヒトコマで忘れてしまったでしょうが、言われたあるいは発せられた人間にとって、前述した具体的な被害にあったようで、今もなお腸(はらわた)のちぎれる思いで忘れられません。
 ましてやその人物が、同和教育の講演会や、府教委の幹部あるいは、某大学の教員として、今もなお、良くない影響を与えている人間だとしたら、私たちが被った件については、彼の日頃の発言と現実の行動の乖離を典型的に示すことがらであり、ここに掲載していただくのも、無用ではないと信じ書き続けます。
 その彼こそ、『採択教科書(公民)の編集者!が、高槻市の2学期制推進委員会の委員長』と書かれていた人物なのです。
 数年前のNHKの教育討論番組で「教育改革では、大阪では同和教育が盛んで、子どもたちの人権感覚も育っており、政府の改革の先取りをしているので」と、的外れなことを述べていた人間です。
 勿論、同和教育運動それ自体を私は問題にしているわけではなくて、彼がそれを足場にして、政府の教育改革(同和教育運動の到達点と矛盾する事が多々ある)と結びつけようとする力業を批判しているのです。
 しかし、何といっても、神経症的(鬱的な病状)と診断されていた人間に対して、大声で叱責し、なおかつ「教師の代わりはいくらでもいる」と嘯く人間が、どうして今もなお、このようなある種の権力を持った地位に、ついておることができるのでしょうか。
 ましてや、教育問題は、教師だけではなく、かならず生徒や保護者を巻き込む、非常に理念的な考えが重要視される場所であると、私は信じます。そんな理念的な場に、このような人物がいることが、あの場面だけとってみても、許すことができませんし、彼がいま権力をふるっている場所においてこのような人物であると考え、対応していくことも非常に大切でしょう。
 大体が、「主体」言説(立派なこと)を述べる人間においてこそ、私的な利益を含ませた、ポジション取りを計っている(社会学者ゴフマンの言葉)と言います。結局、苦しんだ者は、定年前に退職し、苦しめた人間は、今なお有力なポジションで、力を振るっている(=迷惑をかけている)と。
この悲しいくらいの大きな差は、いったい何処から生まれてくるのか、何なのか。

 「ボトムアップの教育改革」とは片腹痛い。実際は、自ら「トップダウンの教育改革」をするために、そのトップに上り詰める手段(ポジション取り)であったことは明白なことがらでしょう。
 もう十分でしょう。編集部に投稿するために、この文章を書くのに、本当に苦労しました。書けば書くほど、私自身も低められていくようでたまらず、何度も筆を折ろうとは思ったのですが、彼が今でも影響力を持っているという一点に於いて、その影響力を削ぐために、幾分かでも役立てばということで投稿しました。・・・・そう、彼の名は、野口克海です。

 さて、最後に、魯迅の次の文章を掲載することで、私の現在の気持ちを、知っていただきたく思います。長々とお読みいただき有難う御座いました。魯迅「意見表明」(1925.『魯迅文集2』竹内好訳)です。

 夢で私は小学校の教室におり、文を書くために教師に意見発表の方法をたずねた。《むつかしい! 》眼鏡の外から私をにらんで教師は言った。《こういう話がある・・・ある家に男の子がうまれて家じゅう大喜びだった。ひと月たって誕生の祝いの席に抱いて客に見せた・・・むろん縁起を祝ってもらいにな。ひとりは<この子はきっと金持ちになりますよ>と言ったのでたいへん感謝された。ひとりは<この子はきっと役人になりますよ>と言ったのでお返しに自分もお世辞を言われた。ひとりは<きっと死にますよ>と言ったので全員から袋叩きにされた。死にますよは必然だが、富貴になれるは嘘かも知れない。だが嘘はよく報われ必然は殴られる、お前は・・・》《私は嘘も言いたくないし、殴られたくもありません。先生では、ではなんと言えば?》
《それならこう言わねばならん・・・<まあまあ!この子はまあ!ほら、何てまあ・・・いや、どうも!ハッハッハ!ヘッヘ!ヘッヘッヘ!》

『心のノートガラガラポン』の一読者より。

野口克海(2学期制推進委員長)の優雅な仕事2

2006年5月26日掲載

O157発生隠蔽事件(堺市教育長時代)

 前回は野口克海の大阪府教委幹部時代(教職員課主幹、管理主事の頃)の話だったが、今回は彼の堺市教育長時代に関与したO157発生隠蔽事件についてである。

 96年7月、堺市で学校給食を食べた児童ら9500人が病原性大腸菌O157に感染し、3人が死亡するという大事件が発生した。当時、府教委義務教育課長だった野口は特命を受け、堺市教育長に落下傘降下し、事態収拾にあたった。

 当時、野口は「公務員のシステム」を正す力は「情報公開」にあると、次のように語る。(『岩波講座・現代の教育/教育への告発』岩波書店)
 「学校給食に関するすべてのことを市民にオープンにする。業者のことも、税金をいくら使っているかということもすべてさらけ出す。そこから市民・保護者と共にあり方を考えていくことが必要である。」

 ところがである。2004年12月の新聞報道で判明したのだが、給食再開約1カ月後の96年12月に、O157を検出しながら隠ぺいし、給食を続行していた。新聞の取材に、もう大学の教授であった野口は「私の責任で給食を続けた。O157は75度で1分間加熱すれば死滅するので安全だと思った」と答えた。

 しかし、その後の報道では、「堺0157隠し/検査報告書ねつ造?/記載は全て『陰性』」、「『0157検出は調理後』/冷凍牛解凍できず/衛生研所長6月講演で明かす」、「0157検出/『上司に報告した』/堺検査担当職員証言』」(以上,毎日新聞)と嘘がばれた。

 その野口は処罰されることもなく、元府教委幹部、元堺教育長、大学教授として、講演活動や文部科学省、教育委員会、教職員組合などで委員として活躍している。優雅な仕事とはこういうことをいう。

 以下、当時の新聞報道。<新聞記事のため転載禁止>

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堺市 O157検出隠す
給食再開後1カ月 96年
「危険ない」トップ判断で続行
(毎日新聞大阪本社版 04年12月14日朝刊)

 大阪府堺市で96年7月、学校給食を食べた児童ら約9500人が感染し、3人が死亡した病原性大腸菌O157集団食中毒で、給食再開約1カ月後の同年12月、同市が検査でO157を検出しながら隠ぺいし、給食を続行していたことが分かった。隠ぺいは当時の市長も了解していた。再開時、約2500人もの児童が給食を拒否しており、危険が生じれば中止すると公表していたが、無視した形だ。集団食中毒では、現在も元児童が後潰症に苦しみ、21人との補償交渉が未決着。行政トップが絡んだ隠ぺいは波紋を広げそうだ。

 関係者によると、同市衛生研究所が96年12月中旬、児童らが食べた給食の抜き取り検査を行い、肉からO157を検出した。しかし、当時の幡谷豪男市長、野口克海教育長、神木照雄衛生研究所長らトップの協議で、サンプルの肉は調理途中のもので、十分加熱すれば菌は死滅する▽新たな患者が発生していない▽2学期の給食も残りわずかーなどから、公表せずに給食続行を決めたという。しかし、検査した肉は加熱調理後のものであった可能性がある。

 同市は食中毒発生直後に給食を休止。医療・衛生関係者と保護者らでつくる「学校給食検討委員会」で安全対策を協議し、全食材の加熱調理などを決め、11月19日に再開。その際「危険な事態が予想される時は直ちに献立の中止などの措置を講じる」としていた。それでも再開時には、全児童の5.25%に当たる約2500人が「一生給食を食べたくない」などとして弁当を持参した。

 一方、市と被害者との補償交渉は現在も続いており、対象者9119人のうち21人と解決していない。弁当持参の児童は、食物アレルギーも含めて約50人いるという。食中毒発生直後から活動している保護者グループ「学校給食の自由選択制を求める親の会」のメンバーは「O157を検出したのなら、すぐに給食を中止すべきだった。今の給食も安全かどうか疑わしくなる」と不信感を募らせている。

 野口元教育長は毎日新聞の取材に「私の責任で給食を続けた。O157は75度で1分間加熱すれば死滅するので安全だと思った」と答えた。幡谷元市長は「当時のことは記憶にない」と話した。

野口克海(2学期制推進委員長)の優雅な仕事3

2006年6月10日掲載

「底抜け」のボトム・アップの教育改革論

 大阪の人しか知らないことに野口克海の「ボトム・アップの教育改革」という言葉がある。一時、この講演タイトルで大阪のあちこちで野口が講演して歩いたことがあり、私も聞いたことがある。それで今回は野口克海の著書から彼の教育改革論の蘊蓄を拝読しようと考えて、著書をひもといたが、これが理論の体を為していないので、がっかりした。

 野口の著書のなかで「ボトム・アップの教育改革」という言葉がはじめて出たのが、野口克海編著『ボトム・アップの教育改革/堺からの発信』(三晃書房、1998年)である。野口が堺市教育長から府教委に戻った時期の刊行である。そこで、「トップ・ダウンの改革でよいのか」「今こそ、ボトム・アップの教育改革を」と彼は叫ぶ。

「今回の教育改革は、これまでのものと中身が違います。文部省が『中央主権にするぞ。』と言っているのではないのです。その逆です。教育を『地方分権にします。』と言っているのです。/各学校に大幅な裁量権を与えて、『どうぞ創意工夫して、御自由に教育をおやりください。』と言っているのです。」(P16)
 *これってほんとうにそうだろうか?規制緩和、新自由主義教育、教育のグローバル化などといわれる「教育改革」は、学校現場に「自由」を与えるというデマゴギーを振りまきながら、これまで公教育が持っていたセーフティーネットを破壊し、あらたな激しい競争の世界に学校と子どもを放り込むものではないか。その後の文部科学省の「教育改革」がそのように進行したことは明らかだ。また、このことは現在国会に上程されている教育基本法改悪が予定している教育振興基本計画が「4つの国家戦略」に基づいた「国家の教育」を狙っていることからも言える。(心のノートガラガラポン掲載の「教育基本法第10条と『改正』問題」参照)

「今回の場合は、下(ボトム)にあたる学校や市町村教育委員会が、上(トップ)にあたる文部省に対して、地方分権や裁量権を認めて欲しいと要求して、自分たちで子どものための教育改革を進める性格のものであるはずなのです。」(P17)
 *「はずなのです」とは事実の進行が裏切っている。「下」(ボトム)から「上」(トップ)に要求して「子どものための教育改革」を進めるという野口の図式は、企業のQC運動(生産性向上のための提案運動)そのものだ。彼の「ボトム・アップの教育改革」は、学校現場に文部科学省の「教育改革」に幻想を持たせ、ひたすら「がんばらせる」以外の何ものでもない。この本は、このあと堺市の小中学校園の取り組みが並べられているだけだが、それを見ると、「家庭・地域」→「学校」→「市教委」→「文部科学省」へのエネルギーの吸い上げ(簒奪)が彼の「改革論」の道筋であると分かる。これぞ小泉首相がやってきた「構造改革」と同質だ。その後に出版された野口克海他編著『大阪府、新潟県、山形県の元義務教育課長が語る地方発の教育改革』(三晃書房、2004年)もそのような展開であるが、「教育の床屋談義」以上の代物でしかないので触れないでおく。なお、野口の著書をよく出版している三晃出版は教科書出版会社「日本文教出版」の別会社である。(心のノートガラガラポン掲載の「2学期制推進委員会委員長が『採択教科書』(公民)の編集者!」参照)

 野口克海の著書に『私の子ども党宣言/攻めの教育行政をめざして』(明治図書、1996年)があるが、そこに彼の本音が出ている。大阪府教委の指導主事になるための面接時に、「あなたは同和教育にも熱心で、どちらかというと教育委員会に向かってタマを打ってきた方だが、今回委員会の指導主事になることについて自己矛盾を感じませんか?」と面接官に聞かれたと言う。(「日教組と文部書の和解に思う」)
「ハイ、私は今日まで学校現場で子どもたちのために一生懸命、教育実践のに取り組んできました。教育委員会も子どもたちの幸せのために一生懸命に取り組むところだと思っています。政党で言えば私は“子ども党”であります。したがって自己矛盾はいたしません」「この時が、私の心の中での“日教組と文部省の和解”の瞬間であった。」(P178)
*これって「転向」って言うんだよね。「子どもたちのために」と言って、子どもや同僚を裏切ってきた輩を今までたくさん見てきた。その野口が1995年9月の「日教組と文部省の和解」を「お互いにパートナーシップを発揮し、“子ども党”でいこうという約束ができあがった。」(P180)と手放しで喜ぶ。ノー天気なものだ。

 その野口克海が高槻市の2学期制推進委員会委員長として「2学期制推進」の旗を振っている。現場こそいい迷惑だ。昨年度の取り組みをまとめた「高槻市学校園2学期制調査研究報告書」(高槻市教育委員会、2006年3月)を覗いてみると、調査モデル校の三箇牧小学校の報告にちょっとしたブラック・ユーモアとも取れる箇所があった。
 その報告中の「2学期制研究にあったて大切にしたいこと」で「トップダウンでなくボトムアップの姿勢で取り組むこと」「100年余りも続いた三学期制の合理性を受け継ぐこと」とある。三箇牧小学校が昨年度に2学期制に費やした校内研究、2学期制実施校見学等の回数が50回以上にものぼる。職員の疲労と青息吐息が聞こえてくるようだ。
 なんら「合理性」のない2学期制が、市長の鶴の一声、即ち「トップダウン」(2004年3月議会での市長答弁)で始まり、実施が現場に押し付けられてきた。このようにして、「ボトム・アップの教育改革」が進む。野口克海の優雅な仕事も罪なものだ。この調子で「改革」が進められたら、疲労困憊した教職員と自由な時間が奪われた子どもしか残らない。そこには疲弊した学校しか存在せず、「学校の底が抜ける」。「底抜け」の教育改革を唱えて、2学期制推進委員長野口克海の優雅な仕事は今日も続く。彼の優雅な仕事を早よ終わらせなあかんな。

野口克海(2学期制推進委員長)の優雅な仕事4

2006年6月18日掲載

2学期制推進委員会傍聴記

 6月9日に高槻学校園2学期制推進委員会(高槻の場合、幼稚園も入っているのでこれが正式名称。市教委は「高槻独自」と自慢。幼保一元化を迫られて大わらわな幼稚園まで巻きこまれて気の毒。)があったので、野口克海の優雅な仕事を拝見するために、はじめて傍聴した。
 野口は61歳ぐらいのはずだが、白髪が目立ち、少々くたびれて見えた。今年度から園田学園女子大学教授だけでなく、同中高等学校長も兼務したので、学校前にワンルーム・マンションを借りて、泊まり込みもしていると言う。「昨年度とちがい、勤務が多忙なので、できたら委員長を断りたかったが、昨年度の経緯があるので引き受けました。校務の関係で推進委員会を欠席する場合も出てくるかも知れません」と。案外「優雅な仕事」でないのかも知れない。もう歳なんだから無理はいけません。野口が委員長に決まり、新設ポストの副委員長は誰かと思ったら、前学校教育部長で今春に第1中学校長になった米津だった。これを一蓮托生と言う。

 委員長の挨拶を拝聴した。2学期制への移行の情勢変化を2002年に求めていた。1つは「学校週五日制完全実施」であり、教員の土曜週休日の夏休みでのまとめどりがなくなり、「夏休みは勤務する」ことになった。この頃より、「子どもとともに過ごす夏休み」が提起されるようになり、これが「2学期制のはじまり」であると。彼の頭の中には、教育公務員特例法による教員の「研修権」(勤務場所を離れての研修)という考えは微塵もないようだ。
 2つ目は、新指導要領で評価が「相対評価から絶対評価(到達度評価)」になり、「3学期制では、3学期が短く、到達度評価ができない」ことが問題となり、「1学期100日、2学期100日の2学期制」が構想されるようになった。これを聞いて、絶対評価に問題はないのか、別に3学期制でもできるんじゃない?って思った。
 野口は「自主的な始まった」(ほんとうにそうか?)2学期制にはメリット、デメリットがあるが、メリットは「先生の意識が変わったこと」と強調したが、デメリットについては言わなかった。これってずるい。ひたすら勤勉に仕事をさせられ、過労死を呼び込むような「教員管理」を逆に進めただけじゃないだろうか。これは「意識改革」ではない!

 それでは、推進委員会で何が議論されているかを見てみよう。当日、主に議論になったのは、1)の学期に区切りであった。
1)学期の区切り
 調査モデル校と今年度より導入された調査研究校では、学期の区切りが3パターン出ている。(前期の終わりを10月9日、10月15日、10月22日とする3種類)これに対して、教育委員会事務局は、学校管理運営に関する規則を改定する上、「基準日」、すなわち前期の終わりの日を設定したいと提案した。(第2条)ただし、学校長の裁量でこれを変更できることも付け加えた。(第3条)各校より「基準日」を設けない方がよいとの意見が出た。年度の始業日、終業日だけを決めて、学期の区切り日を決めない京都市教委育委員会方式がよいとの意見も出た。ここが今後の攻防のポイッとになるだろう。私は京都市、横浜市方式の2学期制と3学期制の併存を認める方式がベターだと思っている。なぜなら、2学期制の学期の区切りはなんら必然性はなく、不自然だから。委員長はちょっと投げやりに、「今日、決めんでもいいんじゃないでしょうか・・」と言い、次回に先送りされた。
>>>PDF「学期」「休業日」の表を参照ください。こちらです。

2)夏休みの授業日、登校日の増加
 各ブロックの今年度の実施計画の報告を聞いて、問題だと思ったのは、子どもの夏休みをカットする授業日(出席の義務がある)と登校日(こちらは出席の義務がない)がどちらも増加していることだ。とくにそれが著しいのが7中ブロック(7中、三箇牧小、柱本小)であり、できるだけ「従来通りの対応」を取ろうとして抵抗しているのが8中ブロック(8中、磐手小、奥坂小)、そのどちらもあるのが如是中ブロック(如是中、如是小、五百住小)であった。聞いていて、本来自由な時間を取り戻すべき夏休み中の過密な取り組みは子どもにとって、また、教職員にとってほんとうによいのだろうかと思った。全体として7中ブロックの取り組みが、他のブロックの取り組みを引っ張り、授業日と登校日を増やす働きをしていると感じた。今後の方向としては、現場サイドで出来る限り授業日を入れない、また、登校日も増やさない取り組みが必要となると思う。
>>>PDF「授業日、登(園)校日」「2学期制に伴う給食実施日(増)」を参照ください。こちらです。

 一番の問題は、市教委・校長・現場教員代表が子どもの実態や教職員の勤務実態を顧みず、2学期制実施をかけ声にして、どんどん過密な教育活動を設定していることである。来年度、全学校園で予定通り2学期制が実施されれば、もろに学校現場はこの影響を受けるのだから、もっと一般校からも「ちょっと待った!」と声を上げる必要があると思う。野口克海の「優雅な仕事」がのさばるのは、現場教員の「勤勉さ」にある。文部科学省が40年ぶりに「教職員の勤務実態調査」をやる時代なのだから、現場からの異議申立をし、彼の優雅な仕事を終わらせなければならないと痛感した次第であった。
(一作)