学校から

「心のノート」を大学生と読む(1)

2005年8月17日掲載

*一作 (元中学校教員) 
 momo pon(中学2年生の子をもつ母)

 === 会 話 ===
(一作)
momo pon 、お久しぶり。元気そうだね。
僕は「愛国心へ子どもを連れさる心のノート」の対話をしたあと、事故にあい、手術、通院、リハビリとあたふたしているうちに昨年春に定年退職したんだ。

(momo pon)
一作さん、お久しぶり。わたしは元気だけが取り柄なので・・(笑)それにしても事故は大変でしたね。その後快復に向かわれ安堵していました。しかし、定年退職まで心身共に身が持たない教員の方が多い中、定年までねばり強く働きましたね。とりあえず、お疲れさま!

(一作)
退職して、そうこうしているうちに、昨年の後半(後期)に頼まれて関西の私立大学の教職課程の授業を1コマもつ機会があったのだ。講座名が「道徳教育の研究」なんだから笑っちゃうね。別の講座名が「差別と教育」だったからよかったのだけど。

(momo pon)
アハハ。「道徳教育の研究」とは、皮肉とも言えるよね。しかし、学校って「道徳的なもの」でいろんな問題を解決しようとしていますよね。なんか変!(笑)だってさ~、そういう問題じゃないでしょ?と言いたいもん。

(一作)
9月末から授業に出かけたんだけど、なにせ90分授業なので、はじめは面食らったね。でも20歳前後の学生さん相手なので、なにかうきうきして新鮮だった。僕の年齢が60歳だから、彼ら彼女らは3分の1の年齢なんだよね。
これまで、小・中学生、高校生を教えたことがあったけど、大学生ははじめてで、この年齢の青年がなにを考えているかとっても興味津々だった。

(momo pon)
大学生と話す機会が無いと思っていた矢先に、アムネスティ・インターナショナルのグループを地域で立ち上げたので、偶然わたしも話す機会ができたよ。彼らは柔軟で社会批判をきちんとしていると思った。世界で起きている人身売買に取り組む学生のグループだったからね。

(一作)
試行錯誤でいろいろな授業をやったけど、一番おもしろかったのは「心のノート」の授業だった。
momo pon との「子どもの心を盗む心のノート」シリーズの対話を主な資料に使わせてもらったよ。さらにインターネットで「心のノート」(中学生用)を見てもらって、彼ら彼女らの感想を書いてもらった。
何よりもの発見だったのは、20歳前後の学生さんが「自己の内面」を大切に思っていること、その内面をのぞき込まれることへの拒否感が強いこと、「心のノート」が国家による小・中学生のマインド・コントロールをねらっていることを鋭敏に見抜いたことだった。それと「内面の支配」と「愛国心」の強制がセットで考えられていることも即座に理解したことだった。
いまどきの若い子はなかなか見捨てたものではないよ。

(momo pon)
へ~。たのもしい限りですね。なんか嬉しくなっちゃう。「子どもの権利」の中に「プライバシー権」がありますね。これは、心と体の両方にかかる自分のプライベートな権利は誰からも侵害されない権利です。例えば、自分の日記を読まれない権利や体を合意がなく触られない権利などです。「心のノート」はこのような「子どもの権利条約」で保護されている「プライバシー権」を侵害しているといえるでしょう。

(一作)
それでは、3人の女学生に「心のノート ガラガラポン」に(名前を出さないで)掲載することを了解してもらっているので、紹介しよう。なかなかいいと思うんだけど。

(momo pon)
3人の感想を読ませてもらいましたが、とても鋭く「心のノート」が意図するものを理解されていました。特に、教育基本法「見直し案」と密接な関係があることや、「心のノート」が国家による子どもへの巧妙なマインドコントロールであると見抜いていらっしゃるところが素晴らしい。また、文部科学省の失敗だと言及している方もいます。教育行政に携わる機関とそのセクションにいる方は、このような意見を聞き入れ、真摯な態度で対応をしていくことです。子どもや保護者の意見の反映と尊重こそが学校や教育行政に抜け落ちている点だと感じます。3名の学生さんと共に、わたしたちも子どもに「夢や希望のある社会の実現」に向かって、連携をはかりたいですね。

(一作)
いつの時代もそうだったけど、老人たちにいろいろと文句をつけられながらも、次の時代をにない拓くのは若い人たちだよね。大学生に教える機会を得て、これは真実だと思った。若い人の感覚とものの考え方に出会えて、ラッキーだった。

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1、「心のノート」についての文部科学省の教育方針は失敗(Aさん)

 私がはじめて「心のノート」ことを聞いたのは、2回生のとき教職の授業をとってからのことだ。その7億3000万円も予算を使った「心のノート」に対して、教育現場ではかなり批判が強まっている。
 私は日本の小中高校で勉強した経験がない。(注、彼女は中国からの留学生)だから、私は小・中学校の「心のノート」を今でも見たことがない。ホームページや授業中のプリントから少しだけふれている。
 おそらく、この「心のノート」の出発点はいい考えだと私は思う。自分のことをより深く考えさせるため、より理解し、成長させるためにつくられていると思う。しかし、「心のノート」はどんな場所、どんなとき、だれに見せるかということで、問題が複雑になった。「心のノート」は名の通りに、心の中にあるものを掘り出し、自分を深く理解させたいからである。強制的に全員の学生に書かせるということは大まちがいだと思う。その書いた通り、「このノートはあなたがつくる、あなた自身の記録です。自分の心と語り合うかけ橋になる心のノート」に、子供の他人に教えたくない、他人に知られたくないことを書け!と要求している。もちろん、子どもは書くわけがない。その対策として、適当に宿題を終わらせるために、うそをついて書いた人も少なくはないと思う。子どもたちにしては、このノートは、心を反省し、成長を助けるノートではなく、大人たちが、自分の心の底からものをうばうようなノートであるかも知れない。
 その大人からして、子どもたちの心の働きを「心のノート」からとらえ、成長させる目的と、子どもたちが強制的に自己意志でないものをやらせるから、本音を出さないという行動との間に、大きな矛盾が生じていると思う。
 私は実際に現場に行ったことがないので、多分「心のノート」で成功している例もあるかも知れない。だけど、全体的に考えれば、この「心のノート」という文部科学省の教育方針は失敗だと思っている。
 もし、「心のノート」にもう少し緩い環境の中で、子ども自身に見せるために(他にだれにも見せたくなければ、見せなくていい)書くような方針であれば、もう少し効果が上がるかも知れないと思う。 

「心のノート」を大学生と読む(2)

2005年8月17日掲載

2、「心のノート」は巧妙なマインド・コントロールの道具
(Bさん)

 「心のノート」を強制した道徳教育の休業に私は反対だ。「心のノート」は国家による子どもの巧妙なマインド・コントロールのための道具のように思えてならない。目指す所は国による都合のいい子どもの育成といった所だろう。
 先日、教育基本法の「見直し」案を読み、「心のノート」との関係を痛感した。教育目標⑥-1、伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養、⑥-2、伝統文化を尊重し、郷土と国を大切にし、国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養。(注、「国を愛し」か「国を大切に」かで与党自民党と公明党が対立)教育行政の主語も変わっている。(注、現行の第10条(教育行政)「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」から「教育行政は、不当な支配に服することなく、国・地方公共団体の相互の役割分担と連携協力の下に行われること。」へと改正案)教育は、文部科学省の直接配布である以上、「心のノート」は国定教科書であるといえるが、戦前の教育に逆戻りしているようで本当におそろしい。様々な問題を抱えた「心のノート」だが、では思春期の中学生にとってどのような問題を持つのだろうか。

 例えば「心のノート」には自分をまるごと好きになろうというページがあり、自分のことをまるごとひっくるめて好きになれたら自分をいまよりずっと輝かせることができるはずと書かれている。自分の持っているいろいろな要素をひっくるめたものがあなたの個性とも書いてある。しかし、その一方で自分のこのようなな所をこう変えたいと書かせるページがある、これは矛盾ではないか。自分をまるごと好きになるというのは欠点も含めて好きになるという意味のはずなのに、欠点を改めろというのはおかしい。まして自分に自信がない子どもは、こんな事を書いたのではますます自己嫌悪になり、自分の殻にとじこもる可能性もあるだろう。
 最近真剣に考えたことがありますか?というページもあり、次のページに進むと深く考えることの大切さが述べられている。しかし、思春期の子ども達はいろいろな事を大人が思っている以上に彼らなりに考えているものではないか。考え、分からなくなるから登校拒否になったり、自殺したりする子どももいるのではないか。それなのに国のこのような一方的なお説教を受ける義務がいったいどこにあるのだろうかと思う。
 私の自我像も書けというページがある。人間は本来多面性を持ち、非常に複雑な生き物だ。自分の気持ちを上手く言葉に表すことすらままならないというのに「自我」像など書けるわけがない。もし書かれたとしてもほんの一面にすぎずとても「自我」とは言えないだろう。
 それでも先生に提出しなけらばならないために無理に書くとしたら、私だったら望まれているようなウソを書く。公立の中学生は高校受験をするにあたり内申書を考えなくてはならず、そのため「先生ウケ」を考える必要があるからだ。また、私がそうだったのだが、先生の信頼を得たい、先生を裏切りたくないがために「いい子の自分」を作りだす。思春期の子どもたちは感受性が鋭い。このような子どもたちに「心のノート」を書かせる意味があるのか。また、国を愛せというけれど、こんな社会をどう愛せというのか。愛される社会を大人が作ればいいではないか。結局、「心のノート」は子どもを混乱させ、失望させ、社会用の仮面を作らせるだけであると私は思う。




3、「心のノート」は「心の内面」を尊重せず、「愛国心」を強制
(Cさん)

 私は「心のノート」を読んで、「心のノート」というものは子どもたちの心を盗み見て、統制しようとする手段になっていると感じた。
 まず、「心のノート」の最初にある「私の自我像」とうページの内容は、明らかに子どもたちの心をのぞき見ようとしている。ここで「私の自我像」の「我」という文字に注目したい。本来、このような「自我像」という単語は存在しない。「ジガゾウ」と書くときには、「自画像」と書く。この「我」には「自分」という意味がある。つまり、ここでいう「自我像」とは、「ありのままなの自分のすがた」ということであろう。さらに「私の自我像」には、「いまの自分が考えていること、いまの自分が思っていることやいまの自分の一面を描いてみよう」とある。ここで「書く」という文字が「描く」となっていて、「自我像」と「自画像」がかけられている。
 「ありのままの自分のすがた」というものは、自分の親や兄弟、友達にさえも全部を見せられるものではない。それを、学校や教師に見せるだろうか。また、私は「ありのままのすがた」というものは「心の内面」であり、何人にも犯されてはならないものであると考える。しかも、思春期にある多感な中学生に、このような「心の内面」の不可侵を無視したことを書かせるのは無神経すぎるのではないか。しかし、学校や教師はこの「心のノート」を使って、子どもたちの「心の内面」を無理矢理聞き出し、知ろうとしている。学校や教師だからといって、子どもたちの「心の内面」を見て良いという理由や権利はどこにもない。それにもかかわらず、この「心のノート」によって学校や教師は、子どもたちの「心の内面」を見て、知ることが許されている。このことは思春期にある中学生にとって問題であると考えられる。私は、学校や教師は子どもたちの「心の内面」をもっと尊重しなければならばいと考える。
 次に、「心のノート」の最後にある「我が国を愛し、その発展を願う」という箇所に私は疑問を感じた。ここでの内容は「愛国心」の育成である。
 私は、戦前の日本が戦争へと突き進んでいったことに対する背景に「愛国心」を育成する戦前の国家主義・軍国主義があったと考えている。しかし、戦後の日本では、戦前の教育への反省を踏まえて教育基本法が制定され、人権を尊重し、平和教育を行ってきた。しかし、今、この教育基本法が改正されようとしている。その改正のねらいの1つに、国の言うことならば何でも奉仕し尽くす「愛国心」の育成を行おうとしていることが挙げられる。与党の教育基本法改正に関する中間報告にでは、教育の目的から「平和的な国家および社会の形成者」が削除された。そして、「国を愛し」が加わっている。また、子どもたちに「愛国心」を植え付けようとしている「心のノート」は、強制が進められて「国定教科書」化しつつあるのではないか。このことは、私には、日本の教育が戦前に逆戻りして、子どもたちに対する国家の統制が強まっているように感じられる。確かに「自分の国を愛する」ということは大切である。しかし、「愛国心」というものは、他者から教えられたり、強制されたりして持つものではない。自分から自発的に持つものなのである。また、国の言うことならば何でも奉仕し尽くすことは「愛国心」でも何でもない、自分の考えを持たずに、ただ単に国の言いなりになっているだけである。「愛国心」の考え方も、他者が統制したものでなく、自分で考えださなければならないのである。私は精神的に不安定になりやすい思春期の中学生にとって、このようなこのような「愛国心」教育ががなされれば、しっかりとした自分の考えを持てずに盲目的に国に奉仕し尽くしてしまう可能性があると考える。このことは思春期にある中学生にとって問題である。
 以上により、私は、「心のノート」は思春期の中学生にとって、子どもたちの「心の内面」を尊重していないことと、国の言うことなら何でも奉仕し尽くす「愛国心」の育成を行おうとしていることが問題であると考える。そして、私はこのような問題点を持っている「心のノート」をもう一度見直す必要があると考える。