学校から

ある研究授業

2003年12月17日掲載

 大阪府高槻市の第六中学校に道徳教育の研究発表会を見にいった。六中は過去、人権教育、特に在日韓国・朝鮮人教育の先進校だった。
 その六中が何故、市の道徳委嘱研究校に転換したのか知りたかった。
少し肌寒い午後、六中のグラウンドに沿って校門を目指すと、名札を首からぶら下げた教員が、疲れた顔で立っている。
 1年の教室をのぞく。テーマは「人権尊重」。事象が書かれた15枚のカードを「差別」か否か、班で討論しながら、貼り分けていく授業だ。
 ある教室では「今日はゲームをします。」と担任が切り出すと、子どもが「エー、ゲームちゃうやん」とにぎやかに反応して始まった。
 参観しながら考える。

 もし私のクラスで「事件」が起こり、「差別か否か」を子ども達と話し合う時、このような教材を使うだろうか?
 差別の本質を子ども達と考える事は大事だろう。しかし、重苦しい雰囲気の教室、暗く固まった眼差しの中で、決してチョキチョキ鋏は動かさないだろう。
 逆に具体的事件がなく、この教材を使って学ぼうとする時、果たして子ども達は、差別の本質をつかみ、学んでいけるだろうか?
「○○君は毎日学校に通っているが、アフガニスタンのオスカー君は毎日新聞を売っている。」を「あってもよいちがい」「あってはいけないちがい」「どちらともいえない」に分類する時、子ども達はつい考えるだろう、テレビに「オスカー君」って映ったことある?・・えーっと先生達大人が、アフガニスタンについて何か活動してたっけ・・・?
 日本の大人がアフガニスタンの人達と向かいあっていない現実の上で、子ども達にそれは「差別である」と教える時、子ども達の内部で一体何が育っていくのだろう・・。
 また、「これは差別だ。」と人が感じるとき、怒り・悲しみ・孤独感・後悔・トラウマ等の複雑な感情を伴うのが常である。各人の経験も大きくかかわり、個々人でズレも生じるだろう。
 教室で何か事件が起こり、どうしたらいいかクラスで考えていく・・という作業は、この個人的ズレを出し合いながらも、一定方向のベターな考えに収斂していくという気長なものであった。「差別」かどうかは知らないが、子ども達は「これはイカン」「こうする方がいい」という線を時間をかけて出していくものだ。
 うまく行けば・・の話だ。なかなかそううまくは行かない。教員が焦って、強引に話をつけてしまったり、話し合いが頓挫する時もある。それでも、子ども達が自分たちの経験から解決法をさぐり出していく方法がベターだと、今でも私はそう考えている。
 モラルって、子ども達がじっくり見つけ出すもの、と、かつて私達教員は考えていたはずだ。決して糊と鋏で切り貼りするものでなく。
 
 なぜこんなに変わったのか? もう子ども達の討論が成立しないから?忙しくて時間がないから? 見えるのは、先生たちの緊張し疲れた表情ばかりだ。
 
 研究発表会冊子に全学年の年間指導計画が掲載されていて、「主題名」のひとつに「愛国心」(または「国を愛する心」)が入っている。→こちらをクリックすると道徳教育指導計画を表示します。
 
 この学校でかつて在日韓国人教育がさかんだった事を思い出す。逆説的だが、私は、日本人が在日問題を考える事は、日本人の生き方を考える事だと考えてきた。日本人のアイデンティティを大切に考えていく教育として、在日韓国人教育はすばらしいものだと思うのだ。
 そのすばらしい財産のかわりに、「(遠隔地にあり、生徒の大半は見たこともない)自然遺産に対する誇りを感ずる態度を育成する」事によって育てる愛国心って、日本国籍・外国籍の生徒達にとって、どういう意味があるのか? 
 この曖昧さは、六中の先生たちの苦渋の後ともとれる。しかし、この曖昧さこそ、愛国心の恐ろしさそのものではないか。
 何もかも曖昧なまま、「これが愛国心だ。大事にしよう。」と教え、教えられる恐ろしさは、考えただけで吐き気だする。
いつか愛国心を教える事を強制された時、私の心は逃げず、私の舌は忠実にこわばってくれるだろうか? ・・・「何とかしよう!」と元気に腹を立てなければならないのだが・・。               (長)