5. おわりに このレポートは、鮎川浜及び牡鹿町の現状を紹介し、その地域にとって捕鯨 がこれまでどういった意味を持っており、これからも持ちつづけるのかを考え て頂くための素材を提供することを目標として作成した。本レポートが下敷き とした阿部氏のレポートには「5.鮎川捕鯨存続について」という項目が附され ており、報告者の目から見ての結論(捕鯨の継続は不要であるとするもの)が 記されていた。しかし、今回はそういった結論は記さず、読者の判断にまかせ たいと思う。 わたしは、鮎川浜や牡鹿町の人々を非難するために鮎川を訪れたわけではな いし、また敵対することを目指すものでもない。逆に、日本の各地で進行して いる「過疎」という不幸な状況の中で、牡鹿町の人々が果敢に未来を切り開こ うとしている姿に感銘を受けたし、その成功を祈るものである。もしもこのレ ポートの読者の中に、鮎川浜や牡鹿町に興味を持ち、現地を実際に訪れ、多少 なりとも観光などを通じて経済状況の改善などに寄与してくださる方が出れば 嬉しく思うだろう。わたし自身、チャンスをみつけて今後もいくたびか鮎川浜・ 牡鹿町を訪れ、そのチャレンジがどのような展開をみせているかを見届けたい と思うし、可能であればなんらかの寄与をしたいとも思うものである。 さて、とはいえ、全く私見を記さないというのもレポートとして不十分であ るように思われるため、鮎川浜を訪れた印象や、捕鯨問題に注目していたもの から見た問題点などについて記しておこうと思う。 今回の旅行が思わぬ調査に発展した理由は、初日に訪れたおしかホエールラ ンドの映画「ホエールファンタジー」を見て、強い違和感を覚えたからであっ た。「捕鯨の町・鮎川」という強い先入観を持って訪れた鮎川で、それも鮎川 のシンボルともいえるホエールランドで、「クジラと人間とのいい関係は、い まはじまったばかり」というようなフレーズを聞くことになるとは思わなかっ たのだ。そこで気付いたのだが、ホエールランドには、ほとんど捕鯨を推進し たいというような意志表示がみつからなかった。ホエールランドは、クジラの 生態などを知りたい人にとっては好適な、極めて優れた施設として設計されて おり、ごく一部のパネル展示などを除けば「環境保全のための施設である」と 言われても不思議には思わないような印象を与えるものであった(もちろん当 然ながら、反捕鯨色もまた全く存在しないのだが)。 つまり、おしかホエールランドは、極めて注意深く中立を保った施設であっ た、ということである。 それは、鮎川を訪れる前に予想していたものとは、全く異なる姿であった。 わたしは、反捕鯨派であると見られたことから(わたしに、捕鯨推進派の中 の一部の人々から反捕鯨派と思われる要素があることは否定しない)、IWC 京 都会議の会場前でいきなり捕鯨推進派の人々にプラカードで殴られるとか、耳 もとにハンドスピーカーを突きつけられ罵倒されるというような経験もしてき ている。率直に言おう、そういう経験を通じて、捕鯨の存続を叫んでいる(よ うに思われた)鮎川もまた、ヒステリックでエキセントリックな町なのであろ うという先入観を持っていた。鮎川を訪れたときの気持ちには、半分くらい、 「恐いもの見たさ」があったということも白状しておいた方がいいかもしれな い。 しかし、どうやらその先入観は、間違ったものであるように思われた。 そのことに気付いた時から、先入観を捨てた新しいスタンスで、鮎川浜を探 検し、資料を集め、いろいろな人に話を聞くという、なかなかにエキサイティ ングな、わたしの旅がはじまった。 今回の旅では、最終的には、町内で会った約20名の方々に、お話を伺った。 漁港でお会いした他の港から来ておられた漁民の方1名を除いて、残り全員が 牡鹿町に住んでいる方であった。その中には、町の中で高いステイタスを持っ ている方も幾人か含まれている。戻ってきて河北新報を含む新聞記事を調べ直 したところ、その中にも幾人かお会いした方のお名前を見出すことも出来た。 今回は、このようなかたちで詳細なレポートをまとめることは予定していな かったため、お話をどこまで公表していいのかを個別に確認していない。また、 捕鯨問題はなにぶん微妙な利害がからむ問題であるため、どなたがどのような ことをおっしゃったかを詳細に記すと、ご迷惑をおかけすることになるかもし れない。よって、個別に発言者が特定できるようなかたちではお話の内容を記 すことができないが、たいへん興味深い話を伺えたことに感謝する次第である。 なお、残念ながら、今回お話を伺った方々の中には、現在も捕鯨産業に直接 従事しておられる方は含まれていない。しかしながら、「鮎川が捕鯨を推進し たい理由」については、幾多の資料が存在しているため、捕鯨従事者の方々の 主張などについては、他の資料をあたって頂くことで補完できよう。その点に ついては、個々の読者の努力に期待したい。 その聞き取り調査だが。 これまで、各種報道などを通じて耳にしていた範囲では、鮎川浜の人々は、 おおげさに言えば一人残らず捕鯨という過去を誇りに思っており、再建したい と考えており、かついわゆる反捕鯨派の人々に激しい敵意を抱いているように 思われた。しかしながら、わたしが話を伺った約20名の方々の中には、驚くべ きことに、そういった方は、おふたかた程度しかおいでにならなかった。もち ろん6000名余の町民のうちの約20名の方々への聞き取りをもってして町の大勢 を判断するのは、あまりに無謀であろう。また、正体不明の旅行者に対して率 直な思いのたけを述べて頂けるものと期待することにも無理があろう。とはい え、「強く捕鯨の再開を訴える方」が、お話を伺った方の中にわずか1割程度 しかおられなかったということは、わたしにとって極めて衝撃的なことであっ た。 当然のことながら、直接の捕鯨産業関係者などは、強く捕鯨の存続・再開を 願っていることであろう。しかし町民全体を通して見た場合、捕鯨存続・再開 を要求する運動は、必ずしも好感をもたれているとは言えないようであった。 「なぜほんの一部の人々の利益のために、町をあげて運動をしなければならな いのか?」と、疑問を提示する町民もいた。「捕鯨の再開には無関心な町民が どのくらいいるか」という設問に対する回答は、「5割」から「8割」までの 間に分布していた。この数字そのものには統計的な裏付けはないようだったが、 いずれにせよ町民の過半数は、捕鯨の継続ないしは再開について、あまり深い 関心を持っているようには思われなかった。 このことについては、たとえば1995年に行われた牡鹿町の町長選挙での候補 者の主張と投票結果も傍証となるだろう。 この選挙は、3選を目指して立候補した(そして1989年から毎年 IWCに参加 し捕鯨の再開を訴えている)安住重彦氏と、元町議会議員の木村富士男氏の間 で争われた。2期の町長としての実績を持ち、観光資源としての町の整備など を評価されていた安住氏は、しかしながら予想外の苦戦に追い込まれた。結果 は僅差で安住氏が3選を果たしたが(有権者数5096人、投票総数4659票、うち 安住氏2389票、木村氏2236票。町選管への電話聞き取り)、この選挙で安住氏 の対立候補として善戦した木村氏の主張の中には、「町の捕鯨再開への努力は するが、多大な町費を使って毎年海外の IWCに町長が参加することは見直すべ きだ」というものも含まれていた。安住町長は1989年から毎年 IWCに参加して おり、たとえば日本国内の京都で IWCが行われた1993年には、町長の派遣など にあてられる捕鯨復活活動事業費には、1500万円が配分されていた。この支出 に対して異議を唱えた候補が善戦したということである(念のためだが、木村 氏は、捕鯨を断念すべきであると主張したわけではない。また、報道では、基 本的にはこの選挙は「争点なき選挙」であったと評価されている)。 すでに牡鹿町の過疎化状況について記した項目でも触れたことだが、牡鹿町 の過疎化はかなり深刻な状況にあると言えよう。しかしながら、過疎化は、日 本の各地で進行していることであり、ある場所の過疎化が特定の原因に基づく ものであると考えるのは、正しくないように思われる。過疎化は、第一次産業 を軽視する現在の日本経済の方向や(その中には、世界中から食糧を輸入し、 飽食の限りを尽しているといった状況も含まれる)、交通の未整備などによる 不便さなどが、原因となって発生しているものである。それは、極めて根が深 い問題なのであり、捕鯨産業の衰退に限らず、単一の原因に帰せられるもので はない。また、ひとつの産業を維持したところで、解決ができるような問題で もない。 更に言えば、「2-2)鮎川の近代史」で触れたように、捕鯨産業があたかも覚 醒剤のように鮎川に一時的かつ空虚な「盛況」をもたらしたという側面はある わけで、鮎川を今後も「捕鯨の町」と位置付け続けることは、いろいろな意味 で更に鮎川の状況を悪化させる可能性すらあるように思われる。捕鯨という産 業を続けたとしても、過去に鮎川を盛り立てた大資本は二度と鮎川に戻って来 ないと考えざるを得ないし、過去の鮎川の賑わいも戻っては来ないのである。 そういう観点からも、鮎川の衰退を捕鯨の禁止に重ねて見ることは不適切で あり、問題の中核を見失わせるものである。 もうひとつ思ったことは、この地域捕鯨の問題には、都市の身勝手さや資本 の論理というものも、非常に深刻な影を落としているということである。 史上最大の迷惑施設のひとつである原子力発電所が、過去に捕鯨基地であり、 現在過疎化に苦しんでいるところを狙い撃ちするように計画・建設されている ことからも、それは伺われる。牡鹿町の隣の女川町には東北電力女川原子力発 電所が稼動しており(*1)、牡鹿町にもリアルタイムで放射能モニタリングの結 果を町民に知らせる設備がある。同様に、過去に捕鯨基地であった和歌山県太 地にも原子力発電所の計画があり、太地の人々は勇敢にその計画に抵抗し続け ている(このレポートを読むかもしれない太地の方々へ。わたしは、こと捕鯨 問題に関してはみなさんとは異なる意見を持っていますが、あなたがたの原発 に反対する闘いを高く評価しており、心強く思っています。太地のみなさんの 原子力発電所建設計画への闘いが、願わくば、勝利に終わりますように(*2))。 ある地方の文化を尊重し、維持したいと本気で思っている人々がその地方に 原子力発電所を建設しようとしたりするだろうか。日本という国は、あるいは 日本の捕鯨を継続したいと主張する人々は、本気で鮎川などの地方を尊重し、 その地方の文化や生活を守りたいと、ほんとうに思っているのだろうか? 鮎川の捕鯨産業の歴史を眺めていると、「都市に基盤を置く外来資本が、鮎 川をいいように使い、儲けるだけ儲けてから見捨てた」とまとめることができ るように思う。そして、残された人々が茫然と立ち尽くしているというのが、 現在の鮎川の姿を正確に描写する表現であるように、わたしには感じられる。 そして、現在もその状況は続いている。女川原子力発電所の存在も、そのひ とつの象徴であろう。いみじくもある町民が言った「『鮎川の捕鯨を守れ』と いう主張は、(大資本が)遠洋漁業を続けるための防波堤であり、捨て石なん ですよ」という自嘲を交えた分析も、同じことを述べているのではないのだろ うか。 *1 牡鹿町は、1967年(昭和42年)に、東北電力女川原子力発電所の誘致決議 を行っている。また、1979年(昭和54年)に、寄磯浜漁協などは、建設へ の同意書に調印している。このタイムラグから、必ずしも原子力発電所の 進出が歓迎されてはいなかったことがわかる。また、その間に、原発を建 設したい人々 -―原子力産業や、原子力産業のバックアップを受けた電力 会社の人々―- の猛烈な攻勢があったことも、想像に難くない。 もっとも、その主戦場は、牡鹿町でなく女川町であったものと思われる。 今回のレポートは、原子力問題を中心としたものではないため、女川原発 の建設が決定されるまでの経緯については、詳細を調査していない。 *2 このことに関して、反・反捕鯨活動家として有名なマグヌス・グドムンド ソン氏は、東京の大日本水産会の会議室で行われた水産記者との懇談会の 席上、原発問題などを理由に環境保全側の主張に耳を傾けたり手を組んだ りするのは愚かなことであると述べ、「グリーンピースなどの環境保全団 体に対抗するには、いろいろな業界が手を組んで対抗することが大事」で あると断言している(おそらく1994/02/15)。 グドムンドソン氏の、「原子力産業と漁民が手を組めばよりよい未来を引 き寄せることができる」というアイディアは、なかなか斬新なものだと言 えよう。このアイディアを採用することがいいことなのかどうか、このア ドヴァイスを受け入れることが漁民の方々にとってより望ましい未来をも たらすことなのかどうか。その判断は、漁民の方々にゆだねたい。 【写真】 女川原子力発電所(ayu38.gif)。イメージ80K わたしは、全ての捕鯨をやめるべきだという結論も、鮎川の捕鯨を肯定して 継続を認めるべきだという結論も、このレポートでは記さない。より正確に言 うならば、わたしは、この点について、確たる結論を持っていない。 それでも、あえて結論らしきものを記すならば、こういうことだろうか。 鮎川や牡鹿町、そして日本全国の過疎に苦しむ地域の悩みを解決するために は、「鮎川の捕鯨」というような個別具体的な問題について論じるより前に、 考え、片付けていかなければならない問題が、たくさん横たわっている。それ らの問題から目をそむけ、根本的な問題の解決を模索することなしに、鮎川の、 あるいは過疎に苦しむ過去に捕鯨で賑わったすべての地域の捕鯨を、それだけ 取り出して論じることは、ほとんど無意味である。 わたしは、であるがゆえに、特に鮎川の外から「鮎川の捕鯨を存続させるべ きだ」と主張しているすべての人々に対して(いま少し具体的に言うならば、 たとえば鮎川の隣に原子力発電所を建設することを平然と認めている日本政府 に対して。あるいは、たとえば鮎川から水産基地を引き上げて恥じるところが ない水産業界や、そういった行動に代表される経済構造を是認する人々に対し て)、問いかけたいことと、訴えたいことを持っている。 「あなたはほんとうに、鮎川のためを思って捕鯨の推進を主張しているので すか」ということが、問いかけたいことである。「捕鯨の再開では決して解決 できない、鮎川が抱える大きな問題を解決するために、あなたもなにか実効の ある支援をしてください」ということが、訴えたいことである。 長文にわたるレポートをお読みくださいましてありがとうございました。 わたしはこのレポートを、ある町民の言葉でしめくくろうと思います。 「過去にこだわっていては、町は衰退する。未来をみつめなければ」。
===== <参考文献> 町勢要覧'83/'89/'92 牡鹿町 60年度納税資料 牡鹿町 牡鹿町史 牡鹿町町史編集委員会 昭和59、61年度鮎川港水揚げ資料 牡鹿町漁業協同組合 鯨のはなし 牡鹿町立鯨博物館 捕鯨基地牡鹿町鮎川浜の歴史と現況 牡鹿町立鯨博物館 おしかホエールランド概要 牡鹿町 市勢要覧'93 石巻市 町勢要覧'91 女川町 女川町統計書・平成7年度版 女川町 水産物流通統計年報昭和55年版 農林水産省 水産物流通統計年報昭和60年版 農林水産省 第7次漁業センサス報告 農林水産省 くじらの文化人類学 ミルトン・フリーマンほか 北の捕鯨記 板橋守邦 捕鯨問題レポートII 阿部治/エルザ自然保護の会 日本地誌第4巻 小笠原節夫/日本地誌研究所 河北新報1991/01/01以降 河北新報 環境倫理研究会発表資料 川端裕人
<地名読み> 牡鹿 おしか 鮎川浜 あゆかわはま 十八成浜 くぐなりはま 谷川浜 やがわはま 大谷川浜 おおやがわはま 網地浜 あじはま 給分浜 きゅうぶんはま 小淵 こぶち 小網倉浜 こあみくらはま 新山浜 にいやまはま 泊浜 とまりはま 寄磯浜 よりいそはま 鮫浦浜 さめのうらはま 長渡浜 ふたわたしはま 清水田浜 しみずだはま 大原浜 おおはらはま 金華山 きんかざん 清崎 きよさき 黒崎 くろさき 山鳥 やまどり 御番所 ごばんしょ 荻浜 おぎのはま 渡波 わたのは 女川 おながわ 石巻 いしのまき 田代 たしろ
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