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ふぇみんベトナムツアー参加者の声
 

ふぇみんでは毎年ベトナム・希望の村を訪ね子どもたちと交流するツアーを行っています。このツアーで子どもたちと出会うことで里親になる人も多い。01年度のツアーの参加者の声を紹介します

2003年度ベトナムツアー参加者の声
子どものまぶしい笑顔に思う
         ryo    
 

 

 「希望の村」の門をくぐった私の目に飛び込んできたもの。それは想像をはるかに超えた子どもたちのまぶしい笑顔だった。
彼らの輪に交じり、はしゃいで遊ぶ。太陽の日差しを浴びた笑顔はよりいっそう輝いて見えた。
その中で、私は彼らから“生のパワー”を感じとることができた。
 その姿を見ていると、どんな子どもにも幸せを感じ、笑顔で生きていく権利があるのだと強く思った。それが、生まれ育った環境により奪われてしまうということはあってはならない。しかし今、世界には笑うことのできない子どもがたくさん存在する。
 今回、「希望の村」に行ったことで、私は一人でも多くの子どもが心から笑えるよう、手助けをしたいと考えるようになった。
里親になり、資金面で援助するのも一つだろう。でも私は現在、自分自身さえも養えない状態だ。そんな私にできること。それは想像することだ。
幸せそうな子どもたちをイメージすること。すべてはそこから始まるのだと思う。

山の学校を訪ねて

戦争の遺した残酷さ 肌 で感じた
         bun


   

 

 私にとって、今回で4度目のベトナム訪問で、初めて農村生活や民間の養護施設に行った。
 ダナンのキ・ラ村での農村訪問では、稲刈り体験や、田畑の見学をした後、収穫された小豆のベトナム風ぜんざい(生姜(しようが)入りでさっぱり味)や、茹(ゆ)でた落花生、ふかしたタロイモをご馳走になった。辺り一面の田んぼの青さと椰子(やし)の木が続く牧歌的な風景、裸足で駆け回る子どもたちの姿が昨日のことのように脳裏によみがえる。
 希望の村以外の、ストリートチルドレンだった子どもたちが暮らす施設訪問の時に、年端もいかぬ子どもの母親が、収監されているなどの話を聞いた。
 施設にはいれた子は幸運だが、まだまだ入れない子も多いのだと。実際に戦争の後遺症を引きずった子どもも多いし、「戦争」というものの遺した残酷さを肌で感じたような気がした。

希望の村が支援する子どもの家の前で希望の村の運動会
 
2001年度ベトナムツアー参加者の声(報告集より)
子どもの心に思いで残したかな   歯を磨いてあげました

       aiko
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13人の名前を覚えながら、絶対みんなとはぐれないようにして無事1週間のスケジュールをこなし、想い出いっぱいで帰ってきました。よいスケジュールを組んでくださり、みなさんのおかげで大変楽しい旅行でした。

 メインの里子との対面もなんとかなりました。会話はダメですが、ふれあいはオーケーでした。私のベトナムの歌が下手だと笑われ、お手玉が上手にできないと笑われ、なんとなく頼りなさそうだけど、でも明るいママ! というイメージで、仲良くくっついて昼寝して、子どもの心にささやかな思い出が残ったと思います。


 初めての援助のお金は元気な子どもの為に役立っていると思い、里親になったことは無駄じゃあないと安心しました。ここまでまとめる「会」のリーダーのご苦労は大変なことと思います。いつまで援助できるかわかりませんが、16才と9才の二人が18才になるまでは、やっていきたいと思います。 


 希望の村は想像していたより広く、明るく、立派でした。子どもたちはよく笑い、しっかりして、のびのびしているように見えました。中には片言の日本語で話しかけてきて、私の脳味噌よりずいぶん賢いのではないかと思いました。ベトナムの子のアオザイ姿は本当に美しく、女性美にあふれ、日本の中学生の子ギャル・ルーズソックスより 数倍も美しかったので、この 民族衣装はこのまま残ってほしいものの一つです。

 ツアーのメンバーの活躍ぶりに驚きました。s氏は手話をやり、理紗ちゃんはケン玉チャンピオン、その母上のは英語ぺらぺら、屋台のものを何でも食べてお腹を壊さない、Oさんはお手玉を3つも4つもまわし、Kさんは日舞を舞い、ユンちゃんは 歌を歌い、安由美ちゃんは折り紙名人、Fさんはノバの英語で何か話す。ええー私どうしよう、なにも出来ないー。

 子どもたちの部屋にそれぞれ分かれてから、しばらく写真など撮りながら仕方がないからぼーっとしていました。ありのままです。自分で思いついたのは一つ、たまたま歯ブラシが3本お土産の袋にあったので、3人の子どもの歯を磨いてあげたことです。私は一応歯科衛生士なので、歯が気になります。一人の子の歯は歯肉炎、一人の子はみそっ歯、一人の子は大体マル。 はじめは、仰向けで頭を膝に乗せて歯を磨くことがよく分からず、何するのかという反応でしたが、一人に、それはそれはやさしく 歯を磨いてあげたら、2人目3人目は愉しむように歯磨きが出来ました。子どもとも何となく仲良くなれた気がしました。これは誰でもできるかんたんなスキンシップではないでしょうか。幼い子ども向きですが。子どもは喜びました。私はなにも出来ませんが、ありのままで無理せず参加していきたいと思います。

 観光したミソンもダナンの田園風景も心に残りました。戦争犯罪展示館は人間の狂気に目を背けたくなる悲惨さでしたが、戦争そのものは自分一人の力ではどうにもならない人類の不幸だと思います。
 人間は国が出来てからずっと戦争を繰り返してきたのだから、地球上から戦争が消えない。自分自身がその国にいたら犯罪者にも被害者にもなるだろうと思うので、ああ戦争が終わってよかったぐらいの言葉しかでません。


 クチのトンネルにもぐったとき、体が小さいからどんどん戦争についていけるとか、タロイモが案外おいしいとか、暑いだけなんだと時々時々和r4あいながら写真を撮っている観光客をガイドさんは一体どんな気持ちで案内したのかと思うと少しいけなかったかなと思います。
 円が強く、なんだか大金持ちの気分であれこあれ飲んで、食べて、買いました。お土産は、村田さんが教えてくれたゴマのお菓子。おいしかったです。ベトナム料理はおいしかったけれど、家に帰って食べた鮭茶漬けは、やっぱりお腹にしみわたるおいしさでした。食習慣とはそういうものなのでしょう。


 旅行は前年度より短縮したとのことですが私はこれくらいの方が参加しやすくよかったです。
 帰ってみるとあっという間の旅で、ベトナムはまた遠い国です。
 私の生活圏は家とスーパーまでの小さい小さい世界、今は写真を焼き増しして、便りを出そうと思っています。


 
希望の村が支援する子どもの家の前で希望の村が支援する子どもの家を訪ねた
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ベトナムの今 カルチャーショックをうけて

     順子

 

ベトナムから帰って2週間・・・未だにカルチャーショックのただ中にいる。様々な国を訪問 したことのある私だがベトナムほど陰と陽の多面性を見せてくれた国はない。

 アメリカの市場開放により、経済発展の渦中にあるベトナム。豊富な食材、電化製品、色とりどりの衣料品などが所狭しと並んでいる市場。その一方で、農村の子どもたちの裸足。そこに共産圏の貧富の差を垣間見る。戦争の負の遺産が未だに顕在化する一方で、戦争を知らない世代が台頭しつつあるのも現実のベトナムだ。


 「希望の家」の子どもたちは負の遺産に入るのかもしれないが、子どもたちの表情、施設や教職員の姿勢は負を正に変えつつあるように思われる。一人ひとりの経歴はおそらく悲惨なものに違いない。しかし、施設でくらし、教育を受けることで希望を持ち、未来を着ることができよう。


 今回の訪越中に、「希望の村」創始者の一人、レ・リさんに会えたことは私にとって収穫だった。彼女の生き様は私たち女性にとって、一種のロール・モデルとみなされる。戦争という抗しきれない運命によって、人生を翻弄させられたレ・リは、現在世界の至るところで続けられている戦争の犠牲者を映し出している。


 車窓から見える風景がすべて私に「ベトナムとは何か」と語りかけ、教えてくれた。得難い経験であった。

 
子どもたちと食事子どもたちといっしょに食事
 
  無邪気で率直な歓迎

             久子

ベトナム――里親・里子、「天と地」ベトナム戦争、ベ平連、おしゃれ雑貨、友人の作ってくれたベトナム料理…登、遠い国なのに身近に感じていたアジアの国。ワクワクする想いを載せて飛び立った。

 ともかく、南国のアジア、32度の暑さ、ホーチミン市の道いっぱいのオートバイの喧噪なこと。道を渡る時は手をつないで「セーノイチニノサン」と必死の覚悟で渡り抜く。市場の人々の雑踏。ちょっと郊外に出ると見渡す限り続く緑、のどかな田園風景、豊かなたんぼは、まさに日本の故郷と相似ている。


 私たちの「希望の村」はダナンの静かな場所と広々とした敷地の中に、樹林も豊かにゆったりと佇んでいた。足をおろした時、里子のリーちゃんが同室のこと花束を持って待っていてくれ、劇的(?)初対面に心がジーンとくるものがあった。
 建物をみせてもらったが、清潔で簡素な子どもたちの生活料の他、各作業室(縫製室・教室・パソコン室など)大きなステージ附きホール、図書室など、どれも有効に使われているようで、ハード面が充実していた。


 そのほか、いろいろな動物――豚、鶏、うさぎ、犬、猫まで雑居しており、飼育目的は食料・経済のためであるとはいえ、動物好きな私は肌のなじむ感じがした。
 ここでも強い印象は、リーちゃんの無邪気な率直な勧化と接待(?)ぶりに尽きる。88年生まれの彼女は、12才、兄と物乞いをしていた5才の時に引き取られたという。ともかく一日中一緒にいた。手をつなgき、一度は指を一本づつしっかり組んだり、フォークダンスで離れた時は戻って来た。荷物を手伝ってくれたり、言葉は通じなくても、そのひたむきさに偽善的(?)な私は可愛くいじらしく思った。彼女の今までの苦労が頭をときどきかすめ、しかし、言葉の不自由さもあって、ほほえみ返しただけだった。もっと学生に通訳してもらって、いろいろ知りたかったな登、今になっては後の祭り。


 リーちゃんの明るい、のびのびとした表情は嬉しかった。この子が大きくなるまで、また次に会えるまで、この一日を繰り返し思い出しつながっていけると思うと、これからの里親活動に明るい確信と力が入る。本当に快い収穫であった。そして、子どもたちを育ててくれているホック所長や職員に感謝と激励をしたいと思う。
 豊かな大地と水に恵まれ、ベトナム自身は豊かな国である。料理を見ても手先の器用さにも脱帽。街の喧噪から発散される、あの力強いエネルギーは逞しさそのものではないか。なんといってもあの大国・アメリカに勝ったではないか。長かった戦争に耐え、やり抜いた、あの1975年4月30日、地球上の人々が拍手を送った日、あの力を今もう一度、国造りに生かしてほしいと願う。というのも、いろんな場面に感じた不自然さがあるからだ。


 感じた一例を挙げると、ほんの一部であれパソコンが入っているのに、道路に信号がない、裏通りを歩けば立ちションの悪臭が鼻を突く、ホテルの前の通りでは物乞いする身障児がアメリカ観光客のズボンを津鎌手いる。立派な国営の空港の職員や店員は露骨にさぼっている。社会主義に甘える貧しさか。これはなにもこの国だけの矛盾ではなく地球的課題だ。我が日本の民主主義のむなしさに比べればより正直な点、かわいいものかもしれない。ともかく、ベトナムには信号とこく人の足となる交通機関と公衆便所がほしいと思った。


 実によい旅だった。家族・職場・社会という枠組みから飛び出ての海外の旅は一つの自己解放であり、カウンセリングでもある。無になって過ごし、自己を塗り替えられる。おまけに、こんなすてきな体験を通してよき人々とに出会えたことは、実に楽しいことだった。「この企画」本当にありがとうございました。心から感謝。

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日本語教室日本語教室の子どもたち
 
2002年度ベトナムツアー参加者の声(報告集より)
  日本の浴衣を着たこどもたち

             北村敏子

今年の「希望の村」の訪問で感じたことは、子ども達の生活がどんどん良くなって いることでした。それは、お昼に子ども達と一緒に食べた昼食の内容にも現れていま した。

揚げ春巻きに具だくさんのホウ(うどん)、バナナもふんだんにあって、子ど も達もずいぶん残していました。余った食べ物をどんどん大きなお鍋に放り込むの で、心配になって「それどうするの」と聞きましたら「豚のエサにする」ということ なので安心しました。いままでも野菜は豊富だったのですが、タンパク質が足りない かなと思っていたのですが、もう大丈夫のようです。「シンチャオの会」が贈った、 鶏と鶏小屋は大ヒットだったと思います。玉子はふんだんにとれるし、その肉も蛋白 源として活用できるからです。

夜の職員たちとの食事会にもおいしい鶏の唐揚げがた くさん出ていましたものね。
 それと、私が嬉しかったのは、みなさんにも協力していただいて、浴衣を10数枚 持っていきましたが、それを着せて、夜の文化交流の時に日本の「さくら さくら」 をこども達が踊ったことです。文化交流や遊びのレパートリーなどは、分かっている 範囲は前もってベトナム側に言っておいたのですが、短時間の練習で大丈夫かなとい うのが正直なところでした。

 昼食の後の昼寝の時間に子ども7人が集まってきました。背丈が合わなかったり、 袖丈がつんつるてんだったり、楽屋裏はてんやわんや。当日、踊りの名手はベトナム 舞踊の方に廻ったらしいのが分かりました。というのは、踊りがまったく苦手で、騎 馬戦など活発なスポーツが好きな私の里子のスウィちゃんが、真っ先にやってきたか らです。

五歳位の子どもの浴衣の着られるこどもが居なくて、選手交代で何人もが着 たり脱いだり。それと浴衣を素肌に着るというのは日本人の常識ですが、ズボンが附 いているアオザイの感覚では、パンティの上にじかに浴衣を着るのはとても恥ずかし いらしく、ズボンを脱いでと言っても嫌がって脱ぎません。上の方も襟付きのシャツ を着たままです。

それで、本番にはズボンは薄手の、シャツは襟なしを着るようにと 頼みました。ほんとうは裾除けや肌襦袢を用意すればいいのですが、これって、意外 に高く上下 一揃いを買えば1万円はするので用意できませんでした。  「さくら さくら 」を一節、一節、教えるおしえましたが、7人の踊り子はみな 熱心で1時間はあっという間にたってしまいました。「大丈夫かな」と言いました ら、「もう1回」と子ども達の方からいってくれます。嬉しくなりました。いよいよ 本番前、舞台の袖に控えていた子ども達は「胸どきどき」と叩いていましたが、ビデ オで見る限り、にわか仕込みにしてはけっこう踊っているので、嬉しかったです。

 その前に、こども達は出番を待ってホールの最後部に着物を着て座っていたのです が、側にいた上級クラス男の子たちが女の子たちの浴衣姿をからかうのです。そした ら、私の娘のスウィちゃんが男の子たちを睨め回しものすごい勢いで叱咤したので す。その迫力はたいしたもの。男の子たちはしゅーんとして静かになりました。

私は なんだか可笑しくなってしましました。ベトナムの女性たちの逞しさは垣間見ていま すが、予備軍はぞくぞく誕生しているんですな。「希望の村」でも女の子たちの方が 元気いいものね。

着物と文庫帯、ひもなど、持っていった分全部寄贈しましたが、舞 踊を教えているという教師の方から、「すごく嬉しい」と感謝されました。きっと、 いろいろアレンジして踊りに活用してくれることでしょう。

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  ホビロンに思いを馳せて

             井上 文

今回は3度目のベトナム旅行である。

今度こそホビロンを食べよう 私は心に決めていた。
ホビロンとは、孵化寸前のアヒルの卵を茹でた物で、一般的におやつとして食べられ ている。物によってはクチバシつきの顔も出来ているので、かなりグロテスクな代物 といわれている。ベトナムのガイドブック、紹介雑誌記事などを読んでも「勇気がな くてたべられなかった」、「頭やクチバシの食感がよくわかる」などとかいてある。

私は俄然興味をもった。旅行中もさくら日本語学校の生徒さん、日本に留学中のユン ちゃんなど同世代の女性に片っ端から『ホビロンは好き?』とたずねた。全員が目を 輝かせて、『大好き!よく食べる』、『ビール飲みながらだと最高!』と答えてくれ た。

日本語学校生、旅行者勤務24歳の女性、おなじく22歳の大学生も流暢な日本 語で食べ方を教えてくれたり、今晩一緒に食べに行く?なんて誘ってくれたり・・ ・。実際現地で、女性には「美容と健康によい」といわれており、子供には「受験勉 強のおやつ」にと食べられているという。

 日本でも地方によって蜂の子、イナゴ、ザザ虫などが食べられているけれど、いわ ゆる“ゲテモノ”扱いである。日本人からみて風変わりなこのホビロン、ベトナムで は普通に食べられている。食文化の違いって面白いナとつくづく感じた。

さてそのホビロン、いくつかの情報誌には「夜のおやつ」と書かれていたので、 チャンスに恵まれず、また今回も食べられないのか・・と半ば諦めかけていた。が 最終日ホーチミンでの昼下がり、街中を散策中に出会うことができた。ゆで卵の入っ た金属製の鍋と天秤棒、おばあさんが路上に座っていたのである。物売りのしつこさ に辟易していた私は、足早に通り過ぎたが、”今のは・・・もしかして・・・”。

『ホビロン?』『ホビロン、ホビロン』との返事。早速1つ買ってみた。まだ湯に浸 かっているゆで卵をビニール袋に入れてくれる。”側に塩・胡椒・香草があったけど、持ち帰りにはくれないのかな、まぁ、素材の味を楽しむっていう点ではいらない か”4000ドン(約40円)はちょっとボラれたけど(通常2000ドンぐらいら しい)外国人価格だと思えばイイかと、ワクワクしながらホテルへ。

まず殻を割ると、茶色い何か混じった透明な液体が溢れ(体液?しかも熱い !) 茶色に変色した毛細血管らしきモノで覆われた黄身が現れた。想像したより気持ち悪 くない。ガブリ、勢いよく齧り付く。鶏卵よりコクのある、固ゆで卵という感じ。私 はアヒルのゆで卵の滋味あふれる所が好きなので、これはまずまず。同室の人も恐る 恐る覗きに来たけど、「ウワー」と顔をしかめられてしまった。一口食べた後、記念 撮影をし、また一口囓ったら今度は肉の部分が出た。ゆで卵と鶏肉(アヒルだけど) を同時に食べている様な感じ。美味しくて3口で食べ終わってしまったけれど、最後 に軟骨らしき部分がコリッとあったので多分そこが頭・・・。

ツアーメンバーや家族 に報告したところ、皆、あれを食べたのかと驚かれてしまった。なかでも友人たちに は「どんな味?日本の食べ物に例えると何?」と聞かれ、「貝の壺焼きっぽい」と答 えると「それならOKかも」と挑戦したいという輩もいた。いずれにしても、ホビロ ンは私の好物の1つになった。またベトナムに行く機会があれば、またぜひ食べたい と思っている。

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  ベトナム旅行によせて

             大澤  つた子

連れ合いは、水俣病関西訴訟の上告取り下げを求めて、又、101万人署名活動 をしながら、東海道五三次を歩いている最中(三月二三日〜五月二五日)。私は甘夏 みかんの出荷最盛期もあり、二人が不在になることにおいて何度もベトナム行きをと りやめようかと思った。そんな時、「動けばいいことがいっぱいあるよ!じっとして いても何も見つからないよ!」との娘の言葉に決心がついた。仕事場の人に感謝しな がらの出発だった。


 関空でのメンバー初対面に不安はあったが、皆さんいい人達ばかりで、仲良くして もらった。出会いも又私への最大のプレゼントだった。
一五年振りのベトナムは、自転車がオートバイに代わり、ホテルが立ち並び、市街風 景はすっかり変わっていて戸惑ったが、ベトナムの人達のやさしさ、子供達の目の輝 きは変わっていなかったことを後で実感する私。


『希望の家』 里親を前向きに考えての訪問だったので、ここを一番の楽しみにしていた。先生 と子供達の強い絆、そして先生の自信に満ちたお話と姿勢に深い感銘を受けた。のち 各ファミリーを担当毎に訪ねた。私のファミリーは女の子11人。ベットが8台しか ないので、どうやって寝るの?と聞くと、1台のベットで2人寝たり、床で寝たりす ると話してくれた。英語も通じず(私も話せないが)ジェスチャーいっぱいのコミュ ニケーションで、私たちはすぐ仲良くなれた。一人の女の子は、今日のことを日記に 書いて!というので、「今日のこと、忘れないよ!又来るから・・・」と精一杯の気 持ちを書いた。バトミントンもした。聾唖の女の子を誘って一緒にシャトルを追いか け、久しぶりにイイ汗をかいた。束の間の彼女たちとの共有時間が、私には言葉で言 い表せないほど、豊かな心にさせてもらい感動を覚えた。

弱虫の私をこんなにもやさ しく受け入れてくれ、どうしてこんなに親切に迎えてけれるんだろうと、不思議にさ え思えた。料理コンテストでは、実に手際良く分担して、時間内に見事なベトナム料 理が並んだ。そんな彼女たちの姿を見て、火が着けられない火を熾せない日本の子供 達、物ばかりあふれ豊かそうにみえる日本の子供達の将来が心配になってきた。そし て、本当の豊かさをこの希望の家に学んだ。帰る時刻を切なく思っているとき、ファ ミリーの代表が私の気持ちを察するように、手を握りしめて、車まで送ってくれた。


別れ際私が眼鏡を外したとき、彼女の目にも涙が光り、そして頬を伝った。 やさしく涙をふいて、お互い抱き合った。「また来るからね。元気でね。」と音声でえられない言葉を心で伝えた。彼女たちは、家族や姉妹達と離れ色々な思いを抱え ているからこそ、優しい心を持っているのだと感じた。この希望の家の総ての子供達 に幸多かれと祈りながらここを後にした。

良い旅が出来るかに思えたが、残り2日というときに激しい腹痛・下痢・嘔吐に 見舞われ、ホテルで半日寝ていた。心身共に本当に辛かった。皆と合流する約束の場 所に行く途中、再び嘔吐。ホテルの廊下を走り、鉢植えの根本にしゃがみ込んだ。で も吐き気はあるのに、もう胃は空っぽ。出る物もなく・・・本当にきつかった。その 時ふと気づくと 私の周りには、4,5人の人が集まり、喉のあたりに薬を塗ってく れたり、背中をさすってくれたり。また、靴を脱がせてくれて、マッサージもしてく れた。
みんなが心配して介抱してくれた。私は何度も何度も頭を下げ、感謝の気持ち を伝えた。見知らぬ土地で、すっかり弱っていた私に優しくしてくれたベトナムの人 たちの心に、又涙した。


クーチーの地下壕。60メートルばかり、しゃがみ込んで歩いた。アメリカに 絶対勝つんだ!!と一人一人が一鍬一鍬を打ち込んだ。その思いが土のにおいから伝 わってきた。そとでは女達が踊っていたとも聞く。この緊張感・連帯感こそがベトナ ムの本当の姿だと思った。

他にも色々な所に行かせてもらった今回のベトナムの旅。この旅行で元気をも らった分、一人でも多くの人にベトナムのこと、希望の家のことを伝えたいと思って いる。ベトナムの地に心から感謝。またきっと行かせてもらいます。

弱気になれば強気を  恐れた時には勇気を   永遠の勝利は闘いでなく心で得るものだ

          (『天と地』の著者レ・リさんのメッセー ジ)

 

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  ベトナムあれこれ

             榎本  啓子

●出発
ここ2年、両親の介護で自分の休暇が総て費やされる日々を送っていました。それ がこの間、小康状態が続き久々自分のために休みが過ごせそうなので、思い切ってツ アーに申し込みました。(締め切りすぎでご迷惑お掛けしました)しかし前々日まで のハードワークで疲れた体のまま、あたふたと準備し”果たして体がもつのかな”と いう不安と、初めてのベトナムへの期待が半々の出発となりました。


●希望の家の子供達里親といっても名ばかりの私。多忙さにかまけて年1回の年賀の挨拶がやっととい う有様です。だからこそ1度は会いたいとの願いが叶い、里子のニャンと会うことが 出来ました。2年前、初めて送られてきた写真の表情が暗くて気になっていました。


が、素晴らしい笑顔(^_^)で迎えてくれました。15歳という青春真っ盛り。彼氏も いるようで(ランという名前)2人で座っているところのツーショットを撮ってあげ
ると大喜び。彼の方は「She is my sister」なんて照れていました。次回の訪問が楽 しみです。

ファミリーの子供達は皆、自然に助け合い育っている様子が感じられ嬉し かった。4歳〜18歳までの集団なんて日本ではなかなか考えられません。1人耳の 不自由な子がいましたが、手話も交えながら自然なコミュニケーションがとれている のには本当に感心させられました。

 

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  ベトナムのすごい力
                             M・N

 春休みの終わりにベトナムへ行った。この旅は私にとって初めての海外旅行だった。行く前には人から「海外に行くと考え方が変わるよ」などと言われていた。そういうふうに思って行ったわけではなかったが、実際に行ってみると感じることもたくさんあったし、日本との違いもいろいろ気がついた。

 まずベトナムに着いてバスで移動しながらすぐにベトナムの人たちやベトナムという国のパワーを感じた。日本にいるときは学校の先生に中国と日本の学生の勉強に対する取り組み方の違いを話されてもそんなに何かを思ったことはなかったし、満員電車で息を殺して乗っている自分やそのほかの人のこともなんとも思っていなかった。しかし実際にあのバイクの多さ、人の多さ、物の多さを目の当たりにしてあのパワーを感じずにはいられなかった。またこの旅の中でもそれを感じたことがたくさんあった。

さくら日本語学校の人と話していて「英語を話せますか?」「あまり話せません」と言うと「なぜ話せないんですか? なぜ勉強しないのですか?」と聞かれる。また学生か、と聞かれ、そうだと答えると必ず「あなたは何を勉強しているのですか?」と聞かれる。同じような歳の人はどんどん何かをつかもうとしている。そんなとき私は少し恥ずかしくなった。

 ベトナムの交通ルール(そんなものなかったかもしれないが)にもびっくりさせられた。信号なんてほとんどなく、渡りたいときは隙を狙って渡る。すごい車にも出会った。ミーソンでのジープ、今にも壊れそうなトラック、運転席にハンモックをつっているトラック、荷物を積みすぎて倒れそうなバイク、大人2人に子どもを2人も乗せているバイク、そしてみんな事故になりそうで事故にはならなかった。

遠慮なんて言葉はベトナムの交通事情のなかには全くなかったし、そんなことをしていたらいつになっても前に進めない。使えるものは最大限に活用しようというのが街中に表れていた。きちきちの日本ではすぐ捕まりそうなことがいっぱいだったけれど、それが私はとても楽しかった!!

 またベトナムは物で溢れていた。日本だって物は溢れているが、ベトナムは日本とはぜんぜん違う豊かさがあった。水田はとても広いし市場に行けばいっぱい果物もある。バスの中からもバナナがなっているのを見たし、船からココナツも見た。街の道でもいっぱい食べ物を売っていた。人間もたくさんいるが、鶏(ひよこも)牛もバイクに乗せられた豚も負けずにいた。買えるかどうかは別にしてもベトナムの土地の豊かさを本当に感じた。

 ベトナムには本当にものすごいパワーがあった。たとえどこかの国がそのパワーを阻止しようとしても止められるはずがないというほどだった。日本なんてその点では勝ちようがないと思った。私はほかにもベトナムの人の気の使い方やベトナムの子どもたちのへんにひねてないところなど感じたことはたくさんあったが、このベトナムという国ではパワーを感じたことが一番大きかった。あんなに勢いがある国から帰ってきて私は日本は沈んでいるなぁとかやる気がないなぁと思った。この元気のなさは何が原因なんだろう。やはり考え方も変わったような気がする。

 

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  ベトナムでノン(菅笠)をかぶったよ!
                                慈子

 だれが言ったのだったか、「子どもは社会の子である」とつくづく思う。われら親子は、今年で17年めの母子家庭のベテランだ。

 といっても、わたしが夫と別れることになって親子ふたりで暮らし始めたときは実家に帰らず東京での生活を選んだので、精神的にも金銭的にも頼れるものはなく、脆弱さだけがさらけ出されていたにちがいない。まず仕事探しから始まったのだが、その後入園できた保育園がよかったのだろう。意地っ張りなだけの未熟な母親であるわたしは、いつも保育園の先生方やまわりの父母らに助けられてここまでやってきた。そんなふうにして育ってきたムスメももうすぐ20歳。短大で幼児教育を学んでいる学生だ。

 いつか婦民のベトナムツアーに参加してみたいなあと思っていたわたしは、ムスメを誘ってみた。親からの押しつけを極力嫌うので答えは五分五分と思っていたが、「行く」という。短大は2年になると実習などで忙しく、とても旅行どころではないらしい。そこでベトナム行き、決定! 留守中、3匹の猫の世話はムスメの友人に頼むことになった。

 ところが、出発の10日ほど前にわたしが風邪をひいてしまいなかなか治らず、4日前に今度はムスメが高熱をだして医者に「行けないかもしれないよ」と脅かされたりと、ひやひやすることばかりだった。それにベトナムについての知識もイマイチだし、希望の家(村)の子どもたちがほんとうに喜んでくれるのだろうか? という不安もぬぐいきれないのだった。

 出発の前日に夜中までかかって荷造りを終え、なんとか武蔵境(むさしさかい)を出発することができた。
 羽田から飛んで関空へ。そこから17名全員でホーチミンへ向かった。

 行ってみたら楽しいのなんのって! いつのまにかわたしの風邪は治り、ムスメも薬を飲むのを忘れるくらい快復していた。そのあとの元気な様子は、みなさまよくご存知のとおり。

 絵日記風長歌と反歌。

降り立ちし タンソンニャット 空港は すなはち簡素 しづしづと 検査受けつつ ベトナムに 歩を踏みだせば 新たなる 熱気のなかに 放られて バイクの波に 驚きぬ 手袋・マスクに 目をみはり 食べてゐるもの 盗み見む ホーチミンを飛び立ちて ダナンといふは 落ち着きし 中部都市なり あしひきの ミーソンの山 連なりて 遺跡を包む 密やかに 迷ひ込みしは ヒンドゥーの 神々のもと 時忘れ ノンを被りて 歩きたり 一夜過ぐれば 暑さゆゑ 朝早くから 訪ね行く 希望の村は 待ちゐたり 二百名とふ 子どもらは みなはにかみて ゐる様子 所長の笑顔 子の笑顔 安堵の暮らし しのばるる 犬猫さへも つながるる ものはをらずて 気持ちよし お昼のフォーを 共に食み 共に遊びて 暮れゆけば 踊りと演奏 披露する 子どもの顔の 真剣さ ひと日出会ひし ものなれど 数多のものを もらひ来ぬ 希望といふは やさしく在りぬ

ダナンにて一粒の種もらひたりメコンデルタをなぞる機影よ

 こんどの旅行で気がついたことがある。それは服装と笑顔について。準備が十分にできなかったわたしは、旅の先々で服を買い求めて着てみた。そうしたら持っていった服よりも涼しく、らくだった。やはり暑いベトナムならではのパジャマスタイルだったのだ。菅笠のノンもしかり。ぜったいに帽子よりも涼しい。それにしても、わたしたち日本人はみんなノンが似合っていた。現地のガイドさんが「これでみんなベトナム人」といっていたが、ほんとにそんな感じだった。
 もうひとつは、笑顔。北村さんの大らかな笑顔にはじまり、ツアーのみなさんの笑顔に接したとき、いろいろな不安が消えていくような気がした。メコンツアーにご一緒した4人の男性もいい笑顔だった(下宿が同じだったという神戸の大学の先輩、後輩。リタイアされてから毎年旅行をしているとか)。それにとっておきは、ユンさんの笑顔! 素敵だったな。笑顔って、すごい力をもっていると思った。
 ここで、旅行中にムスメが言ったことばをお伝えしようと思う。第1日めの夜、「日本に帰りたくないね」と。たしかに円が強いから、わたしたちはたくさんの買い物ができるのだし、ここで暮らしているわけではない。でもやはり、ベトナムに来て日本での閉塞感みたいなものを改めて感じたのだろうか。ひとはどこででも生きていけるんだ、とわたし自身も強烈に感じたのだ。

 希望の村を訪ねた第2日めの夜、「今日がいちばんよかった!」。このことばを聞いたとき、ちょっと感激した。これからわたしが親としてムスメにしてあげられることは、あまりないだろうと思う。ふたり分の旅費はきつかったけれど、すこし早い20歳のプレゼントにこのツアーを選んでほんとうによかったと思った。ベトナムの活気、食べ物、希望の村の子どもたち、ユンさんのガイドぶり、さまざまな魅力をもったひとたちと旅行できたことなど、すぐに表面にはでてこないかもしれないが、どこかに種は蒔かれたように思う。

 成田に着いて、三浦さんとわれら親子は吉祥寺行きのバスに乗った。ずっと眠っていたのだが、都心に入って桜や高層ビルを眺めた。首都高を走っていて、つくづくわれらは規則に従う民族なのだなという気がした。ベトナムの喧噪が懐かしく感じられ、ああ日本に帰ってきたのだなあと思った。
 バスは、親子ふたりの生活が始まった吉祥寺へと入り、知り合いのマンションの前を通って駅前に着いた。吉祥寺駅のホームで電車を待っているとき、まわりの風景や人間が前とちょっとちがって見えるような気がした。
 かくして、わが家の一大プロジェクトは終了した。

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 帰朝報告と称して友人と会い話をしたら、ベトナムで何かを作ってもらうとき技術指導に出向く必要はないのだという。設計図、もしくはマニュアルを差し出せば、完全なものが仕上がってくるのだと。さもありなん、と妙にわたしは納得した。

 しばらくたって、国営デパートで買ってきたライスペーパーとニョクマムで生春巻きをつくって食べた。希望の村をつくったレ・リさんの原作である、オリバー・ストーン監督の『天と地』のビデオを借りてきて観た。ミーソンに行く途中で見た景色が広がっていた。「日本の支配」というせりふがあり、正直いってわたしにはよくわからなかった。むかし買ったのに読めなかった本を引っぱりだして読んでいたらでてきた。「一九四〇年、フランスがナチス・ドイツに敗れると、日本軍は、中国への援助物資がベトナム北部経由で運ばれていることを口実にして、フランスの植民地であるベトナムをねらう。同年九月、北部ベトナムに進駐し、その翌年には南部ベトナムにも進駐して、フランスにかわって植民地支配の足場を固めるのである」(轡田隆史著『枯れ葉作戦の傷跡』、朝日文庫、1988年)。こういう歴史があったのか……。ふだんはあまり本を読まないムスメも『サイゴンから来た妻と娘』(近藤紘一著、文春文庫)を読んだようだ。わたしは、帰ってきてから、さまざまなことを考えつづけている。

 さいごに、婦民の事務局のみなさま、ツアーのメンバーの方々、山形の母と兄、それに今回東京の連絡先を快く引き受けてくれた元夫にもありがとうを言いたい。また、このどこかノーテンキな親子を今度の旅にいざなってくれたなにものかに感謝するとともに、世界中が平和になることを願わずにはいられない。

 

 

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