日米安全保障条約が締結されたのは51年。対日講和条約締結と同時に吉田茂首相が署名した。
「まだ食べるものに困っていて。婦人民主クラブ(当時)はその前にソ連や中国も含めた全面講和を掲げて活動していたけれども、日米安保条約の内容は知らされていなかったんですね」
50年に朝鮮戦争が勃発し、自衛隊の前身となる警察予備隊がつくられ、解釈改憲が進み、反基地闘争が起こった。そして安保条約改定に反対する闘争が起こる。59年4月には「安保改定阻止国民会議」の統一行動が開催され、婦人民主クラブも参加。また「人権を守る婦人協議会」も約1000人の集会を開催。請願署名活動やパンフレットをつくった。
「平和を求めているのに、日米安保条約がアメリカとの軍事同盟なんだ、ということが分かって。許せないと」
60年1月、岸信介首相は轟々たる非難の中、羽田からアメリカに飛び改定安保条約を調印。その後、国会批准阻止に照準が移る。
5月19日、衆議院で強行採決。その後、連日デモ隊は国会を包囲し、婦人民主クラブの旗がはためかない日はなかった。
「再び戦争に巻き込まれたくない、やっと手にした民主主義を守りたい、アメリカの言いなりになりたくない」。戦争中、軍国少女だったからこその思いが重なった。
6月4日には国鉄労働組合が安保反対を掲げストライキ。10日にはデモ隊が羽田付近で米国秘書官ハガチーを包囲。その知らせが婦人民主クラブ中央委員会開催中に入り、翌日大会を切り上げてデモに参加した。
6月15日に学生たちが国会南通用門から突入、全学連(全日本学生自治会総連合)の活動家・樺美智子さんは、首を絞められ警棒で殴られて死亡。
「樺さんは幹部だからねらわれたんですね。その直前には右翼がクギをつけた棒で演劇人のデモを襲撃した」
帰宅後、女子学生が亡くなったと知り、いてもたってもいられなかった。
「翌朝6時ごろ国会へ行くと、国会南通用門付近は学生たちのズック靴の山でした。いかに激しいたたかいだったか」