(C) 落合由利子
長野県上田市の高原にある、戦前・戦後と活躍した女性解放運動家、平塚らいてうの記念施設「らいてうの家」には、地元の山林から切り出したスギやカラマツをたっぷり使ったやすらぎがある。東京の自宅と上田を往復する館長の米田佐代子さんは、「この家は『平和・協同・自然の広場』。自然にいのちがまっとうされる世の中をつくりたいという思いがこめられている」と言う。米田さんは、詩人・評論家の高良留美子さんが20年間主宰してきた「女性文化賞」を今年から引き継ぐ。らいてうと同じく、平和への希求を踏まえて文化創造に携わる女性たちを励ましたいからだ。
労働運動史の研究をしていた米田さんが女性史に関心をもったのは、30代半ば、子どもが生まれてからだ。当時のアカデミズムは、研究者になりたい女性は「学問と結婚しろ」、子どもを産むなどとんでもないという雰囲気だった。「男性研究者は簡単に父親になるじゃないか。どうして女は家庭をもったら研究できないのか」。妊娠した米田さんは「私は産む!」と宣言したが、困ったのは保育所だ。半世紀近く前、ゼロ歳児保育をしている公立保育園はなく、預かってくれる無認可保育所を探して引っ越し、「『わが子を他人に預ける無責任な母親』と言われて火の玉のように腹を立てながら、働きつづけ」た。子どもを産んで育てた女性たちの歴史的な評価へと目を向け、出会ったのがらいてうだった。
雑誌『青鞜』の「元始、女性は実に太陽だった」という宣言で知られるが、米田さんは、「子どものいのちを守るために、産む性である女性が政治的な発言権を手にして世界平和を実現する」という戦後のらいてうを貫く信念に共感した。米田さんは「子どもを育てる権利が保障されて、子どもがきちんと育つ環境をつくるよう、女性自身が主張できる力をもたなければ子どもは守れない。男にお願いして現状を変えてもらうのではなく、女たち自身が立ち上がらなくてはだめ」と言う。
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