9月8日、吉田千亜さんは、九州玄海原発再稼働差し止め訴訟の意見陳述人として佐賀地裁の法廷に立っていた。福島原発事故により今も避難生活を強いられている人たちを取材し続けてきた立場として、避難者の声を伝えるためだ。
「ひとたび原発事故が起これば、これだけの人が避難しなくてはならない。突然生活を奪われて、故郷にも戻れず、ろくな補償も受けられず、漂流している人たちがこんなにもいるのに、助けたくても助けられない自分が悔しくて悔しくて。目の前のこの人(裁判官)になら未然に事故を防ぐことができるのに! どうしたら伝わるの? 被災者のことを自分のことのように思ってもらえるの? ただそれだけを考えていました」
吉田さんが、埼玉県で原発避難者の交流会を企画したのは2012年4月のことだった。 「事故当時、6歳と2歳の子どもを連れて自分も避難を考えたけれど結局できなかった。でも、もしも避難していたならば、同じ境遇の人たちと出会いたいと思ったはず。私には何の力もないけれど、出会いの場を設定するぐらいならできるかも、と思ってのことでした。彼女たちは自分だったかもしれないと思うと、動かずにはいられなかったんです」
特に国が指定した避難区域外からの避難者、いわゆる「自主避難者」の苦境は筆舌に尽くしがたいものだ。家も家族も、仕事も、友だちも。事故前に持っていたものを手放して子どもだけを連れて避難したのは、被ばく限度基準が事故前の20倍となった場所で子育てをするという選択がどうしてもできなかったからだ。仕事で地元に残った夫と離れ、家のローンも抱えたままの過酷な避難生活に、身も心も疲れ果て、泣く泣く地元に帰る決意をした人もいる。
見捨てられ、翻弄され続ける原発避難者たちの苦しみをできるだけ多くの人に伝えたいと、今年2月、吉田さんは『ルポ 母子避難』を上梓した。
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