WOMEN'S DEMOCRATIC JOURNAL femin

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インタビュー

同和保育の原点を伝え続ける

堀井二実さん

  • 2013.03.15
  • 聞き手…社納葉子
  • 撮影…水野真澄

堀井二実さん

一番しんどいところを大切に

同和保育は部落解放運動の中から生まれ、反差別と人権尊重を柱に据えた保育だ。保育士を定年退職し、現在は大学で教える堀井さんは、その理念を指針としてずっと大切にしてきた。  手に職をと進んだ大学の家政学部で、4つのコースから児童教育を選んだのが保育との出合いだった。時代は学生運動の真っ盛り。奈良県の山間部でのんびりと育った堀井さんも、入学直後から学内の熱気に巻き込まれた。  誘われるがままに出かけた集会のなかに部落問題研究会があった。怒りや悲しみをこめて語られる差別の実態が胸をついた。「この時期に人権とは何かをたたきこまれたような気がしますね」  「〝いい子を育てる〟のではなく、子どもが子どもとして育つ場にいたい」と思った堀井さんは、幼稚園教諭ではなく保育士の道を選ぶ。民間の保育所を経て、大阪府松原市の被差別部落内にある公立保育所に移った。地域の人たちが役所で43日間の座り込みをして「勝ち取った」保育所だった。  その部落の地場産業は食肉で、屠場や食肉店で朝早くから働く人が多かった。一方、保育所は9時から夕方5時までで土曜は給食も出ない。親たちは地域の活動家とともに役所へ行き「生活実態に合った保育を」と要求し、当時珍しかったゼロ歳児保育や、定数の60人から120人への拡大を実現させた。  差別をする側や放置してきた側が自ら反省し、奪ってきたものを返すなどということはない。奪われてきた者たちが学び、闘い、取り戻していくしかない。しかし力づくでは無理が生じる。「(部落解放同盟の)支部長さんは〝差別されてるのは部落の人だけじゃない、力づくで勝ち取るだけでは闘争は成功しない〟〝闘いの中心は教育や。教育に始まって教育に終わるんや〟というのが口癖でした。自宅はいつも開放されていて、毎晩のように地域の人や教員や活動家の人たちが集まって議論していました」 続きは本誌で...


ほりい ふたみ

1945年、奈良県生まれ。大学卒業後、約1年の民間保育所勤務を経て松原市立保育所に。定年までの間、被差別部落内の「同和保育所」に16年余り勤務した。現在は園田学園女子大学短期大学部幼児教育学科の専任教員として「保育実習」「乳児保育」を担当。

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