福祉も原発も問題の根は同じ
人を蹴落とさない生き方として、百姓という職業を選び、自分も、作物を食べた人も幸せになれる生活をしたい…福島県で障がい者運動をしてきた鈴木絹江さんは、そう考えた。そして1981年から土地を探し、田村郡船引町移(うつし)(当時)の開拓地に連れ合いと移り住んだ。
「野菜50種に養鶏300羽くらいを2人でやった。移の自然の中で生活してよかったのは、星が色つきでみえたこと!」
初めて育てたレタスが結球して形になったことを喜ぶ一方、こんなに一生懸命に育てたものをお金に換えてしまうのはイヤだなという気持ちも知った。
「でもその体験があったから、今、地元で避難できない人々の心を想像できるんです」。人々は何代にもわたって土地を耕し、四季の花が咲き誇る庭づくりをしてきた。
原発事故はそんな自然を汚染した。船引町は郡山の東、福島第1原発から真西へ約40km。いつも身につけている絹江さんの放射線積算計は、その線量を増やし続けている。
絹江さんは県立郡山養護学校の第1期生。当時は県内で唯一の高等部の養護学校だった。卒業生からは障がい者運動の担い手が生まれた。
同じ障がいを持つ母親と2人暮らしで、卒業後には母に楽をさせたくて千葉にある日本刺繍の会社に就職した。そこは障害者雇用優良会社として感謝状も受けていたが、雇用した障がい者への差別と虐待が頻繁に起きていた。数年後に病気になって耐え切れずに会社を辞めた絹江さんは、罪悪感に苛まれた。だがこのことが障がい者運動に関わるきっかけにもなった。「頭のどこかにいつも仲間を助けられなかったという思いがあるんです」
いわき市に戻り、編み物の仕事で生計を立てていた時、誘われて障がい者運動に加わる。絹江さんは、母親がいなくなった後、どうやって自分の力で生きていくかを考えていた。
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