ニンジンの一言がきっかけで移住

「お前、何人だ?」
「ぼく、ニンジンだい」
小学校のクラスメートから投げつけられた心ない言葉に、アイヌを父にもつ息子はそう応酬した。「北海道ではアイヌは下に見られることもあってね。ブラジルに住んだ経験のある両親が勧めてくれたのよ」と、移住のきっかけを語ってくれた。
マリさんは今、その息子とブラジルに住み、フラメンコを教えたり、日本移民の高齢者に健康体操を指導したりしている。
マリさんは中国の北京で生まれた。だから名前も「万里の長城」にちなんで名付けられた。家は代々の医師で、父親も中国で医院を開業。ピアノや琴、日本舞踊を習って育った。だが、戦争で生活は一変。昨日まで使っていたブローチなどのアクセサリーを売って凌いだ。
戦後すぐの1946年、天津に近い塘沽から「文無し」で引き揚げ、山口県仙崎港にたどり着き、東京に住んだ。戦地から遅れて帰国した兄がボロボロの姿で戻ってきた時、マリさんは「お母さん、乞食が来た」と怒鳴ってしまった。だが、母と兄は、玄関先でじっと見つめ合い涙を流していた。
「あの姿は今も忘れられないわ。兄は一番かわいそうだった。戦争で人の生死を目の当たりにしたから本当はもう人の血など見たくなかっただろうに、父親に言われて、戦後は医者になった。自分は女だったから、戦争にも行かず医者にもならず、自由に生きることができた」
東京でクラシック・バレエに触れ、当時の日本では唯一の職業バレエ団「小牧バレエ団」に入団。約10年間在籍したが、膝を痛めて退団した。その時に出合ったのが、スペイン舞踊だった。日本人としては初めての舞踊団「クアドロ・フラメンコ」を立ち上げ、日本全国を回った。宝塚出身の歌手、宝とも子さんと一緒に興行したこともある。
地方公演先の釧路で出会ったアイヌの彫刻家と「人生は長いんだから、普通の家庭も持ってみなくちゃ」と思い結婚。木彫り職人は土産店で実演販売することが多いが、土産店は先払いで金を貸し、借金で職人を縛り付ける。さらにぶつかったのが、学校での子どもの問題だ。
そこで73年3月、7歳の息子と4歳の娘を連れ、家族4人で移住を決意。移民船最後の船「にっぽん丸」で約1カ月かけての船旅だった。
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