よそ者の私に何ができるのかと考えた

「あなた、写真を撮ったら?」
山口県光市に住む那須圭子さんが、報道写真家の福島菊次郎さんにそう言われたのは、1994年のこと。上関原発反対運動の写真を撮るよう勧められたのだ。
福島さんの今は亡きおつれあいの友人だった那須さんが、福島さんの自宅で仲間たちにタイで撮った先住民族の写真を見せていた時、福島さんが声をかけたのだという。原発反対運動にかかわりだして数年が過ぎたころだった。
三里塚闘争、リブの女たち、すでに上関も撮っていた福島さんは、那須さんにとって「当時は雲の上のような存在」。「素人にもできるんでしょうか?」と恐る恐る聞いた。「私はもう70歳になり、体力的に無理。でも誰かが撮らなければならない」と福島さんは答えたという。
デモに参加し、仲間と原発の勉強会などを積極的に企画していたが、「町外に住む私に何ができるのか」とずっと自問自答していた那須さんは、その言葉を聞き、写真を撮ろうと決意した。
その94年の11月、中国電力(以下、中電)が原発建設着工のボーリング調査を開始し、中電と反対派住民の直接対決が始まる。12月、那須さんは、予定地の山口・上関町長島の四代を訪れた。四代とわずか3・5kmしか離れていない対岸の祝島の人たちが、船に乗って調査阻止に駆けつけた。夢中でシャッターを押した。那須さんの写真記録がここから始まり、以後、祝島の住民の闘いを中心に撮り続けた。
娘が幼い時は連れていくこともあったが、娘を放っておいて、連れてきたことすら忘れるほど撮影に熱中した。でも、何百枚撮っても満足な写真がなくて悩んだ。中電の社員を撮る時は相手の家族の顔が浮かんだ。自分が勤める学習塾の教え子の親に社員がいるかもしれない。だが、「原発をつくってはならない」という強い思いの前に迷いはいつしか吹き飛んだ。
むしろ反対運動をしている人にカメラを向けるのは今でも遠慮がある。「写真なんか撮っている場合じゃない」と島の人に怒鳴られたことがあるからだ。
「皆が必死な時に、ひとりカメラをぶらさげた私は気楽な存在に見えたのでしょう。多くの人に事実を知らせたいから、と言い訳するのがやっとでした」。島に何度も通って少しずつ信頼してもらい、撮っていった。
親しかった反対派の町議会議員が推進派に寝返ったと聞いたときは、車の中で号泣した。強迫や嫌がらせのはがきが自宅に届くこともあった。
悩みながらも13年間撮り続けた写真は、2007年秋、『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』として一冊の写真集になる。福島さんも17枚の写真とともに特別寄稿。祝島で行われる祭事や結婚式など、島の人々の暮らしの写真も載せた。力強さとやさしさが同居した迫力ある写真は見る者の心を揺さぶる。
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