やっと黙ったと思われたくない

2人が座るベンチの前を10人近い報道陣が取り囲む。水俣病関西訴訟原告の坂本美代子さんと小笹恵さんは、手書きの横断幕を手に熊本県庁の前にいた。
「一刻も早く、県は水俣病と認定してほしい」
大阪から寝台列車で10時間かけてたどり着き、朝9時から夕方5時まで座り込んだ。翌日も続けた。1年前の2007年6月のことだ。「水俣病で姉を亡くし、病と闘ってきた半世紀が何も残らない。『行政認定』の4文字がもらえるまで、あきらめない」。坂本さんは訴えた。
1995年の政治決着により、未認定患者の訴えは封じられようとしていた。関西原告団だけが訴訟を続け、22年を費やして2004年、最高裁による行政責任を認めた判決を勝ち取る。だが、「全員が認められてこそ、本当の勝利」と考える2人にとって、45人中8人が棄却された判決は「区切り」とならなかった。そして、今も原告の誰ひとり行政認定されていない。
「『おばさんが、やっと黙った』と思われたくない」と判決の翌年、小笹さんが環境省に手書きのファクスを送り、乗り込んだことも。「座り込みもしちゃったし、次はどんな方法がいいのかな」。2人は苦笑いする。
チッソによる水銀汚染で、水俣湾の漁業は深刻な打撃を受けた。原告の多くは、1970年の万国博覧会を控え好景気にわく大阪に生きる糧を求めた。
坂本さんは、それより早い58年、家計を助けるため23歳で単身大阪に来た。直前の3年間、寝たきりの姉に付き添った。
当時、水俣病は「伝染病」「奇病」とされた。湾沿いに身を寄せ合うように家が並ぶ集落で家族7人が「村八分」にあう。「何が投げ込まれるか分からない」と56年の1年間は日中も雨戸を閉めた。共同井戸も使えず、片道30分かけて、水くみに行く道すがら、石をぶつけられた。21歳の心は悲鳴をあげていた。
ある日、手をかけようと姉に馬乗りになっていた。赤ん坊のような寝顔を見て心を取り戻す。翌朝、父親が涙を流しながら言った。「おのれに負けるな。死ぬ時は家族みな一緒だ」
「姉を連れ、自分ひとりが犠牲になれば」とポケットに農薬をしのばせていた坂本さんは、自分だけがつらいのではないことを知る。大阪でも苦労を重ねたが、この1年間の記憶が、足首をつかんで離さない。
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